――町、待ち、試合。
拝啓、三佳叔母さま。どうやら僕は浮かれすぎていたようです。
好きな女子とデート同然のことが出来て、なんて僕は幸せなんだ、と。
あなたも知っている通り、僕は体を動かすこと全般が苦手です。その僕がボウリング場に来てしまったこと自体がやはり間違いだったのです。
「下手でも逆に面白い」――そんな優しい言葉に甘えてしまったのが僕の弱さでした。
「…………ヘタクソ」
嗚呼、三十分ぶりの御言葉がこれです。あの本気でつまらないものを見る目を、僕が如何に出来ましょう?
嗚呼、今このゲームのスコアが出ました。28。あ、凄い。一レーンで三本弱も倒せてたんだ。
本日のハイスコアです。なのに何故あの方はいつまでもしかめ面をしているのでしょう?
始めてから五ゲーム、回を重ねる度スコアが伸びているというのに……。
――――悲劇の始まりは、およそ三時間前のことである――――
「……遅いわね」
ボウリング場に着いてからずっと目を輝かしそわそわしていたイズミだったが、ここに来てついに苛立を顔に出し始めた。
「仕方ないだろ。休日のお昼時なんだから、そりゃ客も押し寄せるさ」
俺が背もたれに思い切り体重をかけると、ソファーは苦しそうに軋んだ。
ここは「ORBIT 1」三階、メインアミューズメントであるボウリング場。の、待合用休憩室だ。
設置された灰皿から微かにタバコの匂いがしていて不快だ。それでも向かいのイズミが文句を言わないのは、きっと空調の関係でその匂いを嗅いでいるのが俺だけだからだろう。
ガラス張りの狭い長方形の部屋に、ジュースとタバコの自販機、カラオケ屋に置いてありそうな「コ」の字のソファー、防犯カメラの映像を流し続けるテレビ、そして部屋の中央にはゴミ箱機能を兼ねた業務用のスタンド灰皿。
この喫煙スペースとしてしか使いようのない待合室に、俺たちはかれこれ一時間は居る。
「ある程度は覚悟してたけどさあ…………むぅ」
この部屋からは受付カウンターと、多くの客で賑わうレーンが見える。
受付の電光掲示板に表示されている「次の方」が示している番号は、俺の手元にある紙に書かれた番号の三つ前。
「『10番目』がこんなに遅いとは思わなかったわ……。あのお爺ちゃんたちはいったい何ゲームやってるのかしら」
じっと眺めてみたところ、件のレーンのモニターの角に「4」という数字を見つけた。
「……四ゲーム目みたいだな。八名の団体様で、二レーンを跨いで使ってる」
「はあ……。あの細い体のどこにそんな元気があるのよ」
これだけは言わせて欲しい。多分、君の方が細い。……言わせて欲しいと言いつつ口には出せない。
老人の肉の削げ落ちた痩せ方と違い、イズミの腕は大変健康的であり、細い。
ところが、肩からその繊細な指先までの美術品じみた腕に対し、短いスカートの裾から伸びた脚は、さほど細くはない。
多分、彼女の運動量からすると並ではない筋肉がついているはずだ。だけれども、それをほとんど感じさせない。
細くもなく、太くもなく。筋肉質でなく、贅肉もつき過ぎていない。
黒いハイソックス――ニーソックスというんだったか? に包まれたそれは、大変魅了的だ。
現に、魅了されている男がここに一人。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………ごめん」
「……なにか疚しいことでも考えてたの?」
「……滅相もございません」
それからまもなく、受付の番号が三つ同時に切り替わった。
「さて……ヤるわよ」
「おう、がんばれよー」
ボールの選別を終えて、やる気まんまんのイズミ。俺はといえば、靴さえ履き替えていない。
「……なに言ってんの。ほら、ボールは私が選んであげるから、はやく靴を借りてきなさい」
「うい。一ゲームくらい独りで慣らしでもやってくれて構わないぞ。何ゲーム頼んだんだっけ?」
「しないわよ。五ゲーム」
……五?
「ちょっと待て。……冗談だろ?」
「本気。五ゲーム頼むと安くなるんだってさ。それに、さっきのお爺ちゃんたちが四ゲームよ? 私たち若いんだから余裕でしょう」
「お前、俺が運動音痴の運動不足だと知ってのそれか……!」
「――さあね」
ふふん、と鼻を鳴らすイズミ。勘弁してくれ、本当に……。
一ゲーム目、開始。モニターの空のスコア表に「ユリヤ」「イズミ」と名前が表示される。
「ちょっと待て、俺が先なのか」
「そうよ。ほら、はやくー」
自信があるならまず最初に手本でも見せてほしいもんだ。
――さて、十余年ぶりの投球。まずはフォームを思い出そう。……三歩踏み出して、左足を前にして投げる?
出所の掴めない情報を元に、ぎこちない動きでボールを転がそうとする。と、指がうまく離れず腰くらいの高さからボールが落下。ドスンと嫌な音を立てた後、ゆっくりと左に曲がっていき、案の定「G」の字を頂く。
「あはははは! 由利也クン、それ何のスポーツ?」
お腹を抱えて心底面白そうに笑うイズミ。あれだけ楽しそうに笑ってくれるのなら、今日一日このままでもいいかな、なんて思ってしまう。
二投目、再びガター。今度は無事投げられたものの、ボールはピンの手前で左へ逸れた。
「惜しい!」
俺の弾きだした「G/-」に惜しみない拍手を送ってくれるイズミ。本当に楽しそうだ。
「さて、そこまで笑うからには自分は相当な実力の持ち主なんだろうな?」
ちょっとした反撃。
「さあ、どうだろ? 私だって小学生の時以来だしなあ」
軽くあしらわれる。
「ふふふ……」
にやけた表情を隠そうともしていない。どうやら、本当に楽しみで仕方なかったようだ。
「イくわよ……」
ピンをにらみ、流れるような動きで投球するイズミ。ピンク色のボールは投げられたままのスピードで軽快にレーンを直進し――、
十本すべてのピンを薙ぎ払った。
「おおおお!」
思わず感嘆。イズミはその場でこちらを振り返りVサイン。モニターでは派手なアニメーションとともに「STRIKE!!」と表示されている。それを見て苦笑いしてから、イズミがこちらに戻ってくる。
「凄いな、さすが師匠」
「ありがと。あ、弟子入り志望?」
それもいいかもしれない。この広いボウリング場を見回しても、イズミほど綺麗なフォームをしている人はいない。
スコア表の表示が再び更新され、俺の順番が回ってきたことを示している。
「さ、行っておいで、弟子一号」
「一号か。光栄だな」
ボールラックの紫のボールに指を入れる。
「さっきは気付かなかったけど、これ、重くないか?」
「重くないわよ。私のヤツの一個上よ?」
ガコン、とピンクのボールが戻ってくる。本当に一つしか重さが違わない。
試しに投げてみようと思ったが、指が入りすらしない。てことは、本当ならもっと重いものであって然るべきということだろうか。ボールが重いのではなく、単純に俺の力が弱いのだ。
仕方なく紫のボールを手に取る。
「よっし」
よろよろとレーンへ向かう。そして間髪入れず投球。ボールはまた左へ逸れ気味のままピンに向かっていき、ガターすれすれの所でピン一本を引っ掛ける。
「おおー」
「おおー……って、まさかそれで満足してるんじゃないでしょうね」
さっきみたく笑ってはくれないイズミ。そりゃあ、他人の失敗なんて何度も見て楽しめるものじゃないよな。
「前のフレームより一本多く倒せたんだから及第点じゃないのか?」
「前って、0本じゃない。いい? 弟子を名乗るんだったら、師匠の業から何かを学びなさいよ」
ごもっとも。
「例えば何だろう?」
「そうね、まずはなんといっても投球フォームから。さっきの私のフォームをなぞってみて。私だって下手っぴだけど、それでも貴方のレベルからしたら参考程度にはなるはずよ」
そんな謙遜するレベルではないと思うけどな。まぁそれはいいとして、さっきの、か。
一球しか投げてくれなかったし、あんまり動きが滑らかで細部までよく見れなかったな。
それでもぼんやりと、ボールをレーンに投げ込むイズミの姿を思い浮かべる。
ボールはレーンを転がっていき、左端のピンを二本倒す。
「おおー! さすが師匠のアドバイス」
ボールの転がり方からしてさっきと大違いだったので、結構素直に嬉しかったりする。
だけど、浮かない様子の師匠。
「……私のフォームって、そんなにヘンチクリンなの?」
「いやいやいや! 今のはワタクシによる再現度があまりに低かっただけでありまして、師匠の業は大変素晴らしゅうございます」
「……ふーん」
……ちょっと申し訳なくなってきたぞ。
「さっきの一投じゃよくわからなくてさ。今度はもっとゆっくり投げてみてくれないか?」
「了解。ちゃんと見てなさいよ?」
ピンクのボールを手に取り、ファウルラインの数歩後ろで「いい?」と目配せしてくるイズミに、俺は頷く。今度こそしっかり技を盗まないと。
右、左、右――助走を踏みながら、ぴんと伸びた背筋は不動のまま腕が振りかぶられる。
徐々に前傾姿勢になっていきながらなおも背筋は伸びたまま。四本目の踏み出しと共にボールが押し出される。ボールはレーンのやや右から少しずつ真ん中へ向かっていき、前から二列目辺りのピンにぶつかり、数本を弾き飛ばす。
「おおおー」
ピンセッターが降り、再び上がると残ったピンが三本。真ん中に一本と右端に二本。
「む……」
どうやら師匠は納得がいっていない様子。
「弟子一号、今ので足りたよね?」
俺の返事も待たず、戻ってきたばかりのピンクのボールを掴み、投げ込む。
レーン右ガターすれすれを滑っていったボールが端のピンを弾き、真ん中のピンを巻き込む。
「おおー……」
なんだ、ガチで上手いんじゃないか、この人。目の前のモニターではロボットが宇宙を飛びながら「SPARE!!」を告げている。
「さ、やってみて」
「へ?」
いつの間にかこちらに戻ってきていたイズミが言う。
「見てたなら同じようにできるでしょ?」
あまり無茶を言わないでくれ……。
「……よし」
これ以上ヘタクソのままではマズい。俺の第六感がそう告げている。
紫のボールを持ち、レーンの前で深呼吸。
「……やればできる、やればできる」
余談だが、俺は人から「やればできる子」と称されたことがない。
先程のイズミの投球を頭の中に思い描く。……ダメだ、まだ少し靄がかかっている。
カコーン、と軽い音。見ると、左側四本が倒れている。
「その調子、弟子一号!」
「ははは……」
師匠にお褒めいただき、なんだか照れくさくなる。
――だけど、これが奇跡の一投だった。
続く二投目はボールが全く同じコースを行き、0点。
その後は全くもってダメダメ。一ゲーム目は12点という凄まじいスコアを叩き出したのだった。
「……私の教え方が悪いのかしら。自信なくなってきたわ」
いや、なんかもう、ほんと、ごめんなさい。
「――いいわ。こうなったら貴方が私に勝つまでヤるわよ」
「そんな無茶な! だって、今のゲームの二十倍取らなきゃいけないんだろ!?」
「まずその感覚がおかしいの!」
そんなこんなで二ゲーム目開始。18点。
「もっとちゃんと私を見なさい!」。三ゲーム目。19点。
「ガターって0点なのよ?」。四ゲーム目。……22点。
そして、たった今五ゲーム目の得点が28点で五回連続のハイスコア更新となったわけである。
「――さて」
おそるおそるそれを口にしてみる。
「五ゲーム、終わったけど……?」
イズミは座ったまま静かに激怒している――ように思えたのだが、どうやら考え込んでいただけだったらしい。とりあえず安心した。
「……終わってないし」
レーンへ向かい、三連続でストライクを出してこちらに再びソファーに座って一言。
「もちろんもう一ゲームやるわよ」
そう言って手元のモニターの「次ゲーム」をタッチするイズミ。……ですよね。
「由利也クン」
「……はい」
冷たく尖ったイズミの声に、思わず気圧される。
「――もう私のマネはしなくていいわ」
「へ?」
どういうことだろう? 今まではイズミの投球を見て、それを意識すればするほどスコアは伸びていたのに。……ほんの僅かとはいえ。
「その代わり、誰のマネもしなくていい。というか、まず『ボウリング』の投球フォームを意識するのをやめなさい」
「ん? ……どういうことだ?」
サッカーよろしく蹴れとでも言うのだろうか。
「自分の思う『最も効率の良い投球』をしてみて。『その重さ五キログラムの球で、十八メートル先にある重さ一.五キログラムの楓のピン十本を倒す』」
『重さ五キログラムの球で、十八メートル先にある重さ一.五キログラムの楓のピン十本を倒す』
命令のような、指示・指令のような、使命のような。
「わかった。――やってみる」
もはやすっかり手に馴染んだボールを掴み、感触を再確認。
レーンの前に立ち、目標を再確認。
与えられた物はこの「投げるには重すぎる五キログラムの球」だけ。
投げるには重すぎるから――転がすしかない。
計十五キログラムのピンを倒すにはただ転がすだけではダメだ。ある程度のスピードが必要になる。
ある程度のスピードを付けるにはある程度の位置エネルギーとある程度の運動エネルギーが必要だ。
高く振りかぶることで位置エネルギーを持たせ、体の動きを伝えることで運動エネルギーを持たせる。
エネルギーを無駄なくスピードに変換する為には相応の動作が必要になる。
――やってみよう。
ある程度の距離から助走を始める。同時にボールを持った右腕を後ろに振り上げる。
この際位置エネルギーの無駄を抑える為に、伸ばした背筋を徐々に傾けていくと共に、下半身はブレを抑える為に確実に安定させる。
頂点から下ろされた右腕がボールを離す瞬間、膝を使い重心を落とす。そして、手はボールを押し出すように動かす。
放ったボールは狙った通りのコースを描く。このフォームではボールは僅かにかかった回転でやや左に逸れる。だから――――。
間抜けなことに、投げ終わって気付く。これ、寸分狂い無くボウリングの模範的投球フォームじゃないか。
カココン、と気持ちの良い音が聞こえる。立っているピンは見えない。
「ふぅ……っ」
緊張が解ける。今の一投だけで、これまでの五ゲーム分と同じだけ疲れたような気がする。
あれだけ悲惨なスコアを出し続けていた俺がストライクを取ったというのに、師匠が浮かべる笑みは「凄いじゃない」ではなく「やっぱりね」であった。
「思った通り。由利也クン、貴方は人のマネなんか上手くできない人間なのよ」
いきなり持ち出される観念的な話。
「いい? 貴方は自分が『体を動かすこと全般』が苦手だと思っているようだけど、それは違うわ。貴方は『人の動きをマネてその通りに体を動かすこと』が苦手なのよ」
「む……。人のマネをしないで体を動かすことなんてできるのか?」
全て人体の動かし方は偉大なる先人たちによって研究され尽くされている……と思う。
「……はぁ。今、貴方がやったじゃない。別に独創的な動かし方をしろと言ってるんじゃないの。ただ貴方の体は、誰の模倣でもなく貴方自身が動かし方を組み立てなきゃ上手く機能しないって言ってるのよ」
「うーん……。よくわからないけど、そういう意識を持てばいいのか?」
「意識だけなの? 私にはわからないけど。とにかく、何事もさっきやったようにやればいいのよ」
さっきやったように、か。……えっと、何をしたんだっけ?
続く第2フレームは、先程よりかは上手くいかなかったものの、計七本のピンを倒す。
その後も、今までが嘘だったかのように点数を重ねていく俺。ところどころ「マーク」が挟まる。
対するイズミはここに来て疲れが出始めたようで、五フレーム目にはまさかの「G/-」を記録した。
そして最終フレーム。得点は俺が107、イズミが106。両者、真逆の意味でこれまでとは大違いだ。
俺の第一投。やや左に逸れる、が。
「よっし!」
右端三本を残す7点。これなら十分三投目のチャンスもある。
「見違えたわね。師匠として、これ以上言うことは無いわ。強いて言うなら……外せ」
聞こえなかったことにしよう。
勿体ぶる必要も無いので、ボールが戻り次第、即投球。
ボールはピンよりやや真ん中寄りを直進、かすって二本を倒すも、スペアはならず。
「ふっ……」
ここでスペアかストライクを取り、続く三投目で一本でもピンを倒せばイズミの華麗な逆転勝ちだ。そんな状況もあってか、早くも勝利宣言のような笑みをこちらに向けてくる。
セッターがピンを回収し終え、続いてセットを完了する。くっ! あとはバーが上がり次第、運命のイズミの投球が行われる。
バーが上がり次第、……。…………。………………。
その後、一分程待ってもバーが上がることはなかった。
「故障ね」
「故障だな」
こういうのは店員に言えばちょちょいと直してもらえるはずだ。水を差されて苛立つ気持ちを抑え、近くに店員の姿を探す。
と、少し離れたところで棚のボールを整理している店員を発見する。
「ちょっと行ってくる」
「あ、ありがと」
小走りで駆け出す。振り返ると、ボールをラックに戻しソファーに腰掛けているイズミが見えた。
遠くからでもわかっていたことだが、店員は男だった。なにせ背丈がかなり高い。百八十後半はあるとみた。背中のデカさだけで声をかけるのをやめようかと思わされるくらいだ。
独特のカラーリングをした制服着た店員は、依然そのデカい背中をこちらに向けたままボールを並べ替えている。
「――すいません。なんか、バーが上がらなくなっちゃったんですけど、直してもらえますか? って、ちょ、お前……!」
のっそりとこちらを振り返った店員が、一呼吸置いた後、狼狽する俺を見てケラケラと笑った。
「よう。久しぶりだな」
目の前にそびえ立つ茶髪に眼鏡の大男は、俺が嫌というほどよく知る人物だった。