――人、人格、人となり。その類い。
空気が凍りつく。
いつの間にか傍に来て話を盗み聞きしていた角さんの顔からもにやにや笑いが消えていた。
「……ケロ子?」
「そう、ケロ子。これがまた酷い話でさ。……誰に付けたと思う?」
イズミはうーん、と考えた後、
「彼女?」
と、「それならまだヨカッタノニネ」という答えを弾きだした。
「…………妹だ。それも、元々名前にコンプレックスのある、な。」
うわぁ……、と声を漏らすイズミと、なにやらシンパってる様子のネコさん。
「はい、おしまい。今の話は忘れること! ケロ……コホン、彼女のためにもだ」
っと、あぶないあぶない。
「そうね……」
神妙な顔で頷き、落ち着かせるようにカプチーノを啜るイズミ。さすがにこれ以上踏み入りたくはないようだ。
「ケロ子、ねぇ……。ふぅむ……」
なんて、独り言を漏らしながら厨房へ退散していくネコ。
……ネコとケロ子か。不吉だ。ネズミに続き彼女の手玉にはなる、なんてことは……ない、よな?
「エビドリアおまちーっす」
「待ちましたーっ!」
空腹で目覚めてから二時間以上経ってからの朝食兼昼食。……兼ねてくれるだろうか?
おおー、と声を上げ、まじまじとテーブルの上のエビドリアを見つめるイズミ。……悪寒。
「由利也クン?」
「な、なんでしょう?」
打算混じりの笑みを浮かべ、潤んだ瞳をこちらに向け――、
「は・ん・ぶんっ」
「半分ンンッッ!?」
くっ! 「どうせ一口だろう」と高をくくっていた。
「もう朝食から随分経ってるでしょ? だからお腹空いちゃって……」
そりゃ至極真っ当な意見だ。だけど、それならさっき全部二人前で頼んでおけばよかっただろうに!
「……イズミさん。おべっか使ったってだめなものはだめです。アイアムベリーハングリー。おけい?」
「どんたばんあんだすたんでぃーん。みーとぅー、みぃぃとぅぅー」
駄々っ子ですか。そして何を言ってるのか聞き取れん。
……響きからしてインチキ英語っぽいが。
「うーん……一口じゃ満足できないのか?」
スプーンで「一口」を掬ってみせる。それを断りも容赦も無く口に含むイズミ。
「……こんなんじゃ満足できないー」
そしてもはや見慣れた「ぐてーっ」。どうしたものか、この子。
「それで満足するしかないだろー?」
「もう一口、もう一口」
やれやれ。僕はもう一口を用意した。またもそのまま食すイズミ。
……この光景、冷静に客観視すると……。
「――まあいいや。これで満足したか?」
「まだ満足しちゃいないー」
む。これはもはや強欲の域だ。
「……あと一口だけって言ったよな?」
「そんな言葉忘れましたー」
ハジけてるなー……。こんな人でしたっけ? この子。
ここ数日で頭のネジをどこかに置き忘れてしまったのだろうか?
それともあれか、赤の他人に対しては着飾っているタイプなのか。猫をかぶるというか、この子がかぶっているのは火鼠の皮衣に等しい気がする。
満足、満足ー、ともはや何が言いたのかよくわからない呻きを漏らすイズミ。悪い神でも憑かれているんじゃないか。
立松 泉、空腹時には幼児化、と。頭の中にメモをする。
満足満足満足ぅー……
……なんだかいたたまれなくなってきた。
「イズミ。……全部食べていいぞ」
「――ほんと!? 由利也クン最っ高!!」
飛び起き、そう言い終わるや否や俺の前の皿をぶん盗りがっつきだすイズミ。
嗚呼、俺の中での可愛らしいイメージが音を立てて崩れていく……。
ん? いや、まぁ、なんか、どことなく品の良さが滲み出てる、かな? これはこれでアリ、なの、かな? うん。可愛い。可愛いよイズミ。
「――満足したか?」
綺麗にエビドリアを平らげたイズミに尋ねる。
「満足満足! …………なーんて」
「勘弁してください……」
さて、空腹のままの俺はどうしたらいいのか。
「追加注文ー?」
そしてまたまた気配を消して忍び寄っていたネコ1匹。足音くらい立ててください。
「そうだなー。角さん、この店で一番早く作れるメニュー、何でもいいからよろしく」
「了解、お粥ですねー」
お粥かー、風邪ひいたわけでもないのに。まったく、誰かさんのせいで。
…………ちょっと待て! 煮る必要ないだろ!
無事届けられる真っ白なお粥。スプーンの通りが非常に良い。
「ちょっ、これ、このまま? 漬物とか梅干は入れないのか?」
「白粥ですから。それは所要時間一分、梅粥は所要時間二分です。一番早いのは白粥ですからね。くすくす。あ、ちなみにそれ炊いたご飯をお湯でふやかしただけですから、味は期待しないでくださいね。それではー」
……嫌がらせの域じゃないか、もはや。
目の前で視線を泳がせカプチーノを飲んでいるイズミにささやかな殺意を向けつつ、白粥改めふやかし米飯を口に運ぶ。
「……どう?」
「……味がしない」
その後、観念した俺はちゃんとメニュー表から選んだBLTを三つ注文。実に十五時間ぶりにまともな食事にありつけたのだった。
「っと、もう一時だな。もう出発するか?」
「そうね。由利也クンさえ良ければ、そろそろ出よっか」
飲み終わったようで、カップをテーブルに置くイズミ。
……あれ? イズミさん、空のカップが二つありますよ?
「そういや、出るとは言っても、そもそも今日どこへ行くのかすら教えてもらってないんだけど」
「んー、駅でいうと隣の隣の隣」
小原、中杉、その次といえば野口か。あそこの駅前は色々と栄えていたっけな。
しばらく前に喜峰亭とかいう「何でも揃ってる」で有名な定食屋チェーンの店舗が出来て、若干客層に変化が起こったとかなんとか。
和輝はその店へよく行くらしく、「フォーを主食にカルパッチョを食べて、食後はトルコ風アイスを頂いた」なんて言ってたっけ。
…………。
「――――円になりまーす」
小銭では足りず、早くもマッシュが戦死。さすがに一日で一万は消費しない……よな?
――と、角さんが俺に耳打ちしてくる。
「先輩。……イズミに何したんですか?」
「な、何したってどういう意味だよ」
思わず飛び退いて声を上げる。
「先輩、普段のイズミ知ってますよね? あの子が終始浮き足立ってたら、そりゃあ何かあったって思って当然でしょうよ」
「うーん、俺が知り合ってからは大体あんな感じなような気がしないでもないが……。確かに色々とはっちゃけてる気がする。俺はてっきり角さんと一緒の時はあんな感じなのかと思ってたけど、違うのか?」
「たまにはああなることもありますけど、いつもあんなってことはないですよ」
「ふむ……。でもまぁ、俺が何したってわけじゃないぞ」
わざとらしく、大げさに胸をなで下ろす角さん。
「よかった。私ゃてっきり昨日の今日で、もう手ぇ出しちゃったのかと」
「……ッ!! ちょっと待て! なんか誤解してるって! 大体あいつには彼氏が……」
……彼氏? なんでイズミに彼氏がいるなんて思ったんだ?
――ああ。夕方の教室。イズミと、高峰の下僕二号。ははは、人のモノに手ェ出しちゃダメじゃないか。
「はぁ。自分が彼氏だと。言われんでもわかってますよ。大事にしてやってくださいよ? 彼女あれでいて繊細な娘ですから」
「なんでそういうことになるッ! 俺は三日前まで彼女と喋ったことすらなかったんだって!」
「彼女? はいはい。惚気はいいですから、会計待ってるお客様がいるんで早くどいてください、先輩」
くっ……! 今のは完全に誘導だった。こいつ……かなりの切れ者。しかもトドメに他のお客を使ってくるとは大したヤツだ……。
……惨めな敗者はとっとと去ることにしよう。カラン、と小気味の良い鐘の音が、今は角さんの勝ち誇った嘲笑のように感じられた。
先に外に出ていたイズミが退屈そうにしている。
「悪い、待たせたな」
こちらを振り返る。
「――ううん、どうせまた寧子にちょっかい出されたんでしょ?」
「当たり。はぁ。」
さすが親友といいますか。ま、何を言われたかまではさすがにわからないだろうけど。
「ここから駅まで歩いて、駅から電車。それでいいんだよな?」
「うん。名執クンが車じゃなければ」
「……俺はあれか、スーパーカーで首都高を爆走してるイメージなのか」
「どっちかっていうと軽トラでりんごジュース売ってるような?」
なんだその夢広がる場景は。
「俺は自転車派だよ。バイク・自動車は余計な金がかかって仕方ないだろ?」
「……む。それでも浪漫を求めたりする気持ちって無いの? 男の子なのに」
「無いね。俺は金遣いが荒いが、無駄なところに金をかけるのは嫌いなんだ」
「ふーん……」
こんなことを言ったら「立派」と褒められてもおかしくないと自惚れていたが、なにやら機嫌を損ねてしまったよう。やや険悪な雰囲気を保ちつつ駅に向かって歩き出す。
一つ、並んで歩いて感じたこと。やはりこの子は小柄だ。男子の平均身長より少し上くらいの俺と比べても、20センチ近く差があると思われる。
……正確な差が測れないのは、イズミが携帯を弄りながら俺より少し前を早足で歩いているからだ。この距離感、嫌だ。おそるおそる話を振ってみる。
「それで、野口に行って何するんだ?」
「……着いてからにして」
言葉の響きが少しトゲトゲしい。はは、ほんの数分前に「お前らカップルか」と言われたのが、思い出してちゃんちゃらおかしい。
まったく、俺とイズミの間柄がそんなもののわけないだろう。元々は学校の平和を脅かす悪と戦う仲間として組んで、それがきっかけでちょっと交流を持っただけなんだ。
ほら、こういうのってさ、なんつーの? 情を挟んではいけない、とかさ。戦場でそういう感情を持つことは命取りになる、とか、言うだろ?
「由利也クン、……怒ってる?」
「へ?」
先行していたイズミが携帯を閉じ、足を止め、振り返り、俺をまっすぐに見つめてそう言った。
数分の間を置いて放たれた彼女の声は、間を隔てる前と雰囲気の違うトーン。
「だって、怖い顔してるから……」
いや、まぁ、そうかもしれないけど、
「イズミの方が怒ってたんじゃないのか?」
「――ぇ?」
「ふぇ」でも「へ」でも「え」でもない、「ぇ」。
「いや、さっきの話以降、ちょっと言葉がトゲトゲしかったなー、とか」
感じたことをそのまま口に出してみる。
「ぇ、ぁ、違うの! さっきはこれの相手してたから!」
慌てた様子で携帯を開いて、その画面を俺に見せる。
─────────────
[From]寧子
[ Sub ]お幸せに〓
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〓〓〓おめでとう、ネズ子!〓〓〓
いやー、ネズ子もついに彼氏持ちですか
そうやってみんな私を置いてけぼりにするんですね〓
いいんです、私なんてどうせ〓〓
わざわざ店まで来てイチャつくのって、
もしかして私へのささやかな嫌がらせ!?〓
─────────────
……こっちもこっちで何やら攻撃を受けていたようだ。いや、これがイヤミや嫌がらせではないということは、彼女の人柄からしてわかるけども。
「……どう思う?」
「どうって言われても……」
……「〓」って、この携帯では表示できない絵文字ってことだよな? 把握していること自体凄いし、それを悪用しようと考える頭脳にもあっぱれだ。
「寧子ったら、本気で私と由利也クンの関係を誤解してるのかな、まさかだけど。私たち、そんなんじゃないのにね。あはは……」
「あ、ああ。ははは……」
……気まずい。完璧な彼女のムードメイクも、本人がその場に居合わせてくれなければこうなってしまう。
しおらしくなってしまったイズミの扱い方が俺にはまだわからないので、大いに困る。
「とりあえず、歩こうか。もう駅すぐそこだしさ」
「そ……そう、だね」
歩き出す。今度は、並んで。
会話が始まらない。お互いそわそわと相手の表情を伺い、目が合っては逸らす。周りから見たら、二人は初々しいカップルのように見えているのかもしれない。
が、当の本人からしてみれば、緊張の余りひたすら強く打たれる自分の鼓動が苦しいだけだ。
確信した。角さんは、故意犯だ。
日曜のお昼ということで、一週間で一番の混雑具合を見せる駅の改札。
「あ、悪い、俺切符買わなきゃ」
「ん、わかった」
電子マネーはケジメとして使わないようにしている。何のケジメかって、そりゃ人様の金を際限なく使ってしまわないようにだ。
もっとも、際限なく使うためにはクレジットカードが必要だったと思うが。
ああ、それと一つ。このご時世でも、切符を買う人間は少なくないらしい。並んで待たされて実感。
「っと、お待たせ」
「うん」
俺とイズミが、それぞれ切符とICカードで、同時に隣り合う改札を通る。その早さにはあまり差は無く感じる。
返却口から切符を受け取り、ここでお約束のあの四ケタの数字を見る。2236。
「あ、見せて」
数秒で奪われる。えーと、2236、2236……。
「……わる・たす・たす!」
数秒で返される。あ、ほんとだ。
「早いなぁ」
素直に感心。
「えへへ」
と、まんざらでもなさそうなイズミ。やっぱり、俺はこの笑顔が一番好きだ。
ホームにて電車を待つ。やはりここも人でごった返している。電車に乗っても、席に座れるなんてことは期待しないほうがよさそうだ。
電光掲示板の点滅。アナウンス。警笛。そして電車が到着。ゆっくりと落とされる速度。ドアが開く前から、その車内がぎゅうぎゅう詰めであることが嫌というくらい視認できる。
「さすがに混んでるね」
「乗り換える客が多いことを祈るしかないな」
「そうだね」
自動化された会話。だけど、それを紡ぐ彼女の弾んだ声が、たまらなく愛しい。
俺はいつからこうもイズミに惹かれているのだろう?昨日から、おとといから、それとも――――。
「――由利也クン?」
発車のメロディが流れている。
「ごめん、考え事してた」
「……もう」
先ほど見たよりかは幾分スペースに余裕がありそうな車両へと乗り込む。
閉まるドアにご注意。