――朝、昼、「くすくす」。
ドアを閉め、鍵をかける。携帯で時間を確認。十二時二十分。この分なら徒歩で良さそうだ。
所々ひびの入ったコンクリートの廊下を渡り、錆びた金属の階段を音を立てて下る。
It's just a ボロアパート。だけど、部屋の中がわりと広く辺りに騒音も無いので俺は気に入っている。
駅に向かって歩き出す。駅までは徒歩だと三十分かかる。しかし、たまにはいいだろう。
通学は雨が降らない限りいつも自転車だし、こんな気持ちのいい天気の休日の午後くらいゆっくり散歩したいものだ。
ここから駅までは、ずっと人通りの少ない静かな道が続いている。騒がしくなるのは、駅のほんの手前からだ。
駅前の通りに出るまでのこの辺り一帯は、古き良き古宮町の雰囲気を保っている。小鳥がさえずり、老人が散歩し、スクーターが駆けていく。
……これこそ古宮町のあるべき姿だなぁ、としみじみ。
駅前の通りに出る。休日ということもあり、やはり人が多い。
ただ、皆ここで一日を過ごすのではない。この駅からそれぞれ違った電車に乗ってどこかの街へ出かけていくのだ。
そのため、大きなショッピングモール等は今のところ建設される予定はない。現在、唯一それっぽいものと言えるのは、昔ながらの、鳥らしきマークが描かれたあのデパートだけだ。
「アル・フィーネ」とは駅前にある若い世代に人気のある喫茶店……だったと記憶している。
数年前に開店した時に話題になっていたような気がしたが、あいにく俺はそーゆー小洒落た雰囲気のお店で食事をするような紳士ではないので、ほとんど興味を持たなかった。
辺りを見回して、大通りから小道へ少し入った所に「アル・フィーネ」を見つける。
ふむ。確かに小洒落た雰囲気ではあるけども、想像とはだいぶ異なっている。若い世代に人気なのかどうかは別として、どこか老舗の風格を漂わせている店だ。
店の前まで来て時計を確認。十二時五十五分。五分前行動とは、いやはや学生の鑑ですね。
意を決して店に入る。ドアに備えられた鐘がカラン、と鳴いた。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
いきなり声をかけられる。(当たり前だ。)えーっと、こういう場合は何て言えばいいんだ?
視線を泳がせていると、店の奥の方にうちの高校の制服を着た女の子を発見する。
「あ……」
間の抜けた声を上げてしまう。……立松だ。制服? というか、もしや五分前じゃ遅かったか?
なんて、半ば店員を無視して暫し思考を巡らせていると、
「くすくす、了解しました。ごゆっくりどうぞ」
と、まるで知ったような笑みを浮かべた後、バイトらしき店員の女の子は店の奥に戻っていってしまった。まいったな。……なにがまいったんだろう?
まぁいい。とにかく、彼女の元へ向かおう。
「お、おはよう。え、と……ごめん、もしかして、待ったか?」
THE 挙動不審。情けないにも程がある。そんな姿を、頬杖を突いてニヤニヤと眺める少女が1人。
「確かに待ったけど、約束は十三時なんだからいいの。ほら、座って」
「う……し、失礼します」
客は思ったよりも疎らだった。しかし、その誰もが俺を見て笑いを堪えている。
……そしてそこの店員! 一緒になって笑ってるんじゃない!
「それじゃ、改めまして。私は立松 泉。クラスは貴方と同じ三年四組。こんにちは、名執 由利也クン。昨日は色々とお世話になりました」
「えーー、っと……? ただいまご紹介に与りました名執 由利也です……?」
「あはは、なにそれ。名執クン、いくらなんでも緊張しすぎじゃない? もっと肩の力抜いていいよ?」
そりゃ緊張だってするさ。女の人と2人きりで食事なんて、姉と何度かファストフードを食べに行ったことくらいしかないんだ。
「ふぅ……」
……落ち着け、俺。
と、気付けばさっきの店員さんが少しにやつきながら目の前に立っている。
「あ、大丈夫ですか? ご注文を伺いに来ました」
ナイス、店員さん。だけどあんた、さっきから俺のこと笑いすぎ。
俺は壁際に立てかけられたメニュー表を手に取る。喫茶店だと侮っていたが、かなり充実しているようだ。
それでいて俺は昨日は夕飯抜き、そして朝は粗末なトーストだけで済ましてしまっている。文字の羅列と、おすすめメニューの手書きのイラストだけで十分に食欲が刺激される。
「えーと、どうするかな……。パスタも美味しそうだし、エビドリアも良さそうだ。ここは……」
ふと立松の方を見ると、なにやら訝しげな顔をしている。……。あー、えー。もしかしてダメなんですか? がっつり食べちゃ。
「……カプチーノで。……あー、野菜スティック一皿」
「かしこまりました」
くすくすと店員が笑うのをよそに、立松にメニューを渡そうとする。
「私も同じので」
ほう。カプチーノ好きとはわかってらっしゃる。
「カプチーノと、野菜スティックですかぁ?」
……それはちょっとどうかと思う。
「――カプチーノ二つと野菜スティック一つ。それだけ。早く持ってきて」
「はぁい。かしこまりましたぁ」
んー。さすがにこの様子だとあの店員と立松は知り合いなんだろう。
厨房に向かって歩き出した店員が立ち止まって振り向く。
「あ、野菜スティックの方はキュウリとニンジンの二種類がございますが……」
「キュウリ!!」
「くすくす、かしこまりましたぁ」
えー……。俺、ニンジンのつもりで……。
……まぁいい。緊張は十分にほぐれた。今の俺なら意中の女子と二人きりで食事という状況もなんとかやっていけそうだ。
「ところで、立松さん。土曜日なのに制服を着てるけど、部活やってたんだ?」
「あ、これね」
今気づいた、とでも言い出しそうな感じで自分の服装を見る立松。
「私自身は帰宅部なんだけど、バスケ部とかテニス部とか、友達がみんな土曜日は部活でさ」
「へえぇ……」
素直に感心する。何故かって、いくつもの部の友達を持っている生徒なんて珍しいものだからだ。
大抵、皆同じ部のメンバーとしか親しくはならない。なったとしても、会うためにわざわざ休日の学校にまで出て行くような仲まで行くには、打ち解ける努力ってものが相当必要なはずだ。
部活外でのそこまで親しい付き合いなんて、去年は男子では俺と和輝くらいしか無かったと思うし、女子だってほとんどが表面上の付き合いで終わってしまっていたとかなんとか。
ん? 誰情報だったっけ、これ?
それから、サッカー部の女子マネージャーは本当にサッカーが好きな子ばっかりなんだとか、野球部は実は部の活動時間の短さに異議申し立てをする準備を整えているんだとか、いろいろ部活の話で盛り上がった。
というより、他人に無関心な俺に立松が教えてくれていたような感じ。
それにしても、本当に凄いな。この人、多分全ての部活の情報を網羅してる。
「お待たせしました、カプチーノとキュウリスティックです」
くすくす。……楽しげな表情なのはいいが、それは接客に相応しい笑顔とはまた違うと思う。
「ありがとう。追加注文はしないから、帰るまでこの席には近寄らないで」
だから、自分の都合だけで物事を決めるなってー……。
「かしこまりましたぁ。くすくす。キュウリスティックはマヨネーズを付けてお召し上がりくださいね。それではごゆっくり。くすくす」
くすくす笑いの店員が下がっていく。
「……あの娘はバスケ部の部長 角 寧子。下級生からは『角姉』って慕われてる人望の厚い子なんだけど……素はあんな調子」
なるほど、バスケ部だったのか。道理で。
……立松はなんで敢えて彼女がバイトしているこの店を選んだんだ?
「あ、俺は見ての通り帰宅部」
「うん、知ってる」
満面の笑顔で即答。そんな顔で「知ってる」なんて言われると、何かと都合の悪い所まで全て知られていそうで恐いのだが……。
「名執クン、運動はからっきし駄目だもんねぇ……。――だから、昨日は驚いたわ」
っ……。目の前の少女の笑顔が、不敵な笑みへと変容する。
口に運ぼうとしていたカプチーノのカップを思わず落としそうになった。
「そろそろ本題に入ろっか、名執クン?」
「そう……だな」
自分に向けられているのが敵意じゃないのはわかっている。それでも、威圧されてしまう。