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継娘をいじめる継母だと嫌われましたが、聖女になったあの子が母と呼んだのは私でした

掲載日:2026/03/21

継母の手は、いつも冷たかった。


 少なくとも、八歳の私はそう思っていた。


 朝、目を覚ませば、枕元に置かれた白湯は熱すぎず冷たすぎず、きちんと飲める温度になっている。けれどそれを持ってくるヴィオレッタは、一度も「よく眠れた?」と優しい声をかけてはくれない。侍女たちが子どもへ向けるような笑みもない。ただ、まっすぐ私を見て言う。


 「飲みなさい。喉を乾かしたまま廊下へ出てはなりません」


 花摘みに行きたいと言えば、駄目です。


 砂糖菓子をもう一つ食べたいと言えば、駄目です。


 外から来た叔母が香水瓶を見せてくれても、触れてはなりません。


 私はいつしか、継母に嫌われているのだと思うようになった。


 だって父は優しいから。


 父は私の髪を撫でてくれるし、書庫から絵本を見つけてくれる。忙しい合間に抱き上げてもくれる。ヴィオレッタだけが違った。背筋を伸ばし、私の靴の汚れや、食卓での姿勢や、薬草茶を飲み残していないかばかりを見ている。


 「ルシエンヌ、肘を張らない」


 「……はい」


 「甘い果汁は今日は無しです」


 「どうして」


 「喉が赤いからです」


 「でも、叔母様は大丈夫だって」


 「叔母様はあなたの体を引き受けません」


 そう言われるたび、胸の奥がきゅっとした。引き受けない、なんて言葉、子どもにはよく分からない。ただ、愛されていない響きだけは分かった。


 先代伯爵夫人の妹であるベアトリス叔母様は、そんな私の気持ちをよく知っていた。


 「かわいそうに」


 柔らかなレースの手袋をした指で、叔母様は私の頬を撫でる。


 「本当ならもっと自由に遊べるのにねえ。あの方は厳しすぎるわ」


 私は小さく頷いた。


 その様子を、廊下の端でヴィオレッタが見ていた。叱るかと思ったのに、何も言わない。ただ私の手元の菓子皿を一度だけ見て、いつもの冷たい声で告げる。


 「リュシエンヌ。叔母様とお話しするのは構いませんが、菓子は半分までです」


 「どうしていつも駄目なの!」


 とうとう私は叫んでしまった。


 叔母様が息を呑む。侍女が慌てて視線を落とす。けれどヴィオレッタだけは眉ひとつ動かさない。


 「必要だからです」


 「そんなの嫌い!」


 その瞬間、父がちょうど書斎から出てきた。


 私は泣きそうな顔のまま父へ駆け寄る。


 「お父様、継母様がまた」


 父は困った顔をした。いつもの顔だ。私も泣いているし、ヴィオレッタも厳しい顔をしている。誰かが悪いと思うより先に、争いを早く終わらせたい顔。


 「ヴィオレッタ、少し厳しすぎないか」


 私はそこで初めて、少しだけ安心した。


 けれど彼女は首を振るだけだった。


 「厳しさではありません」


 「なら何だというんだ」


 「必要な管理です」


 その言い方が、ひどく冷たく聞こえた。


 私は泣いた。


 父は私を抱き上げたが、ヴィオレッタは抱きしめてもくれなかった。涙でぐしゃぐしゃになった私へ、ただ侍女へ指示するだけだ。


 「ぬるま湯で手を洗わせて。菓子皿は下げてください」


 まるで私は壊れやすい品物みたいだった。


 だから私はずっと、継母を嫌っていた。


 十六歳になっても、その思いは少しも変わらなかった。


 むしろ大きくなった分、嫌い方だけがはっきりした。


 私には聖属性があると分かっていた。幼い頃から教会へ通い、祈りの言葉を覚え、聖印の書き方を習った。けれど同時に、私はひどく倒れやすかった。花が多い庭園で長く過ごすと熱が出る。香油の強い礼拝堂にいると咳が止まらない。人の多い夜会では目が回り、知らない薬草に触れると腕が真っ赤に腫れる。


 ヴィオレッタは、そういう私をどこへも自由に行かせなかった。


 「庭園の東区画は今日は閉鎖」


 「どうして?」


 「花粉が強い時期です」


 「少し見るだけです」


 「少しで済まないでしょう」


 「継母様はいつもそう」


 「ええ。いつもそうです」


 私は何度も彼女へ食ってかかった。女主人見習いとして招かれた茶会へ出たい。初夏祭へ行きたい。友人たちと聖堂裏の温室を見たい。けれどそのたび、ヴィオレッタは行かせない理由を並べる。


 体調。温度。香油。花粉。人混み。


 私には、どれもただの言い訳にしか思えなかった。


 父は中立の顔で「ヴィオレッタがそう言うなら」と言う。叔母様は「まあ、かわいそう」と囁く。屋敷中の侍女たちまで、あの後妻様は本当に冷たいと視線で語っているようだった。


 私は一人だった。


 けれど、後から思い返せば、ヴィオレッタは感情ではなく記録で私を見ていた。


 十四の冬、私は夜中の発熱で三度寝台を替えた。朝方に薄く目を開けると、寝室の隣の小机へ小さな帳面が開かれていた。そこには時刻、咳の回数、飲んだ薬の量、熱が上がった前後に触れた花や香油の名まで並んでいた。


 「何ですか、これ」


 翌朝に問いただした私へ、ヴィオレッタは平然と答えた。


 「記録です」


 「どうしてそんなことまで」


 「傾向を見るためです」


 「まるで監視みたい」


 「監視です」


 その返事があまりに淡々としていて、私はぞっとした。愛情ではなく観察。抱きしめる代わりに記録帳。そう思うと余計に涙が出た。


 けれどヴィオレッタは帳面を閉じなかった。


 「あなたが何で倒れるのか分からなければ、次を防げません」


 当時の私はその言葉を、冷たい人らしい理屈だとしか思えなかった。


 ベアトリス叔母様はそこを巧みに撫でた。


 「まあ、記録帳までつけられているの」


 レースの扇で口元を隠しながら、気の毒そうに私を見る。


 「そんなに細かく縛られていたら、息が詰まるわよねえ」


 私は頷いた。頷きやすい言葉だった。


 その数日後、叔母様は初夏祭の飾り花を見に行こうと私を誘った。本当はヴィオレッタに禁じられていたけれど、叔母様は笑って言った。


 「少し外気へ慣れないと、よけい弱くなるわ」


 その言葉を信じた私は、飾り花の並ぶ回廊で長く過ごし、その夜に高熱を出した。息は浅くなり、喉は焼け、侍女たちは慌てた。ヴィオレッタだけが静かに窓を閉め、花を全部下げ、いつもの帳面へ新しい印を書き足していた。


 「叔母様は平気だって言ったのに」


 熱に浮かされながらそう言うと、彼女は冷たい声で返した。


 「叔母様はあなたの熱を引き受けません」


 私はその夜も彼女を嫌った。けれど翌朝まで寝台の横にいたのは、叔母様ではなくヴィオレッタだった。


 そんなとき、唯一楽しみだったのが、聖女認定の儀へ向けた勉強だった。


 十六になれば、強い聖属性を持つ者は教会の認定儀へ臨める。うまくいけば王都でも名が上がる。私はその場で、きっと自由になれると思っていた。継母がどれだけ私を狭い部屋へ閉じ込めようとしても、聖女になれば、皆が私の方を見る。


 そう思っていたのだ。


 儀式の前夜、私はこっそり庭へ出ようとした。


 白花の咲く回廊で、月を見ながら祈れば、もっときれいな光が出る気がしたから。けれど扉を開けた瞬間、背後から声がかかった。


 「どこへ行くの」


 ヴィオレッタだった。


 夜着の上に濃紺の上衣を羽織っている。目元に疲れの影があった。けれど声はいつも通り静かで、そして冷たい。


 「少しだけ庭へ」


 「今夜は駄目です」


 「明日が儀式なのに?」


 「だからです」


 「またそれ」


 私はとうとう噛みつくように言った。


 「継母様は、私が失敗した方がいいんでしょう。ずっとそうだったもの」


 ヴィオレッタの表情が、そのとき初めて少しだけ動いた。


 傷ついたようにも、呆れたようにも見えた。けれどほんの一瞬で、それも消える。


 「失敗させたくないから止めています」


 「信じられない」


 「信じなくて構いません。けれど今夜は部屋へ戻りなさい」


 「嫌です」


 私は震えながら言った。


 「明日、私が聖女になったら、もう継母様の言うことなんて聞かない」


 彼女は長く息を吐いた。


 「……そうなれば、私も少しは楽でしょうね」


 その一言が、ひどく胸に刺さった。


 楽。


 やっぱり私を厄介だと思っていたのだ。


 私はそのまま自室へ走って戻った。泣きたくなかったのに、悔しくて、喉が焼けるみたいに熱かった。


 扉を閉めた後、机の上に置かれた小さな香り袋が目に入った。侍女がこっそりくれた、甘い白花の香りの袋だ。儀式の前に気持ちが落ち着くように、と。


 私は袋へ手を伸ばしかけ、止まった。


 指先が触れただけで、昔の熱と咳の記憶がよみがえる。嫌いだ、嫌いだと思いながら、私の身体はもうヴィオレッタの注意を覚えてしまっていた。


 結局、袋は開けられなかった。


 翌朝には消えていた。誰が回収したのか聞かなくても分かったし、それを責める気にもなれなかった。


 翌朝の儀式場は、人でいっぱいだった。


 教会の白い柱。香炉から立ち上る匂い。祝福の花輪。私は軽い眩暈を覚えながらも、それを緊張だと思い込んだ。父は見守るように微笑み、叔母様は祈るように手を組み、ヴィオレッタだけが少し離れた場所で立っていた。


 私を見ているのか、周囲を見ているのか分からない目だった。


 司祭が名を呼ぶ。


 「リュシエンヌ・ド・アルヴェール」


 私は祭壇の前へ進んだ。


 祝詞が始まり、白い光が足元から立ち上る。最初は温かく、胸の奥が開くようだった。これならできる。そう思った瞬間、匂いが変わった。


 甘い、重い、咽るような花の香り。


 視界が揺れる。


 誰かが、儀式用ではない香油を混ぜたのだと直感した。けれど遅かった。胸が苦しくなり、光が急に鋭く跳ね上がる。白い線が祭壇の上で暴れ、周囲から悲鳴が上がった。


 「リュシエンヌ!」


 父の声。


 「危ない!」


 司祭たちが下がる。


 私の足元で光が弾け、息ができない。熱い。苦しい。目の前が白く潰れる。


 そのとき、誰かが私を強く抱きしめた。


 冷たいはずの腕だった。


 「呼吸をして」


 耳元で、低く、落ち着いた声が言う。


 ヴィオレッタだ。


 彼女は私を抱え込み、自分の上衣で私の顔を覆った。香りを遮るためだと、混乱した頭でも分かった。


 「目を閉じて。数えて」


 「くる、しい」


 「知っています。だから数えて」


 彼女の手が背を叩く。一定の間隔。幼い頃、発作みたいな咳が止まらなかった夜にも、同じように叩かれたことがあった。あれは嫌がらせではなかったのだと、そんな場違いなことが頭をよぎる。


 光がもう一度跳ねた。


 その瞬間、私の中の聖属性が、抱きしめられた一点へ向かって集まった。


 誰を守りたいのか、考えるより先に分かった。


 ヴィオレッタだ。


 ずっと冷たいと思っていた。私を閉じ込める人だと思っていた。けれど今、苦しい中でも分かる。彼女の腕は逃げるためではなく、私のためにここへ飛び込んだ腕だ。


 私は必死に彼女へしがみついた。


 「お、かあさま」


 口をついて出た言葉に、自分で一番驚いた。


 次の瞬間、白い光が柔らかくほどけた。暴れていた線が一つの大きな輪になり、私たちを包む。眩しさの中で、ヴィオレッタの肩から黒い染みのようなものが浮き上がって消えていくのが見えた。


 後で知ったことだが、それは長年、彼女が私の代わりに浴び続けた微量な毒と刺激の蓄積だったらしい。


 儀式場は静まり返っていた。


 司祭も、父も、叔母様も、誰もが目を見開いている。


 私はまだ咳き込みながら、ヴィオレッタの服を握っていた。彼女もまた、信じられないものを見るように私を見下ろしている。


 「……今、何と」


 私は顔を上げた。


 涙でぐしゃぐしゃだったと思う。


 「お母様」


 もう一度、はっきり言った。


 それだけで胸の奥にあった何かが崩れた。怖かった時間、嫌いだと思い込んでいた時間、触れられなかった距離。全部がなくなるわけじゃない。けれど、違った名前を持っていたのだと分かる。


 司祭が震える声で告げる。


 「聖女認定の徴です」


 周囲がどよめいた。父がよろめくように一歩出る。叔母様は青ざめ、何か言おうとして声にならない。


 ヴィオレッタだけは、私を抱いたままだった。


 「立てますか」


 こんなときまで、最初の言葉がそれなのかと思ってしまう。


 けれど今は、その厳しさが少しも嫌ではなかった。


 「……はい」


 「本当に?」


 「少しだけ」


 すると彼女は小さく息を吐き、ほんの少しだけ、唇を和らげた。


 「では半分だけ立ちなさい」


 私は泣き笑いしそうになった。


 儀式はそのまま中断された。私が回復用の部屋へ運ばれ、司祭たちが調べを始める。香油へ混じっていた花粉と毒草の痕跡が見つかったのは、夕刻になってからだった。叔母様付きの侍女が持ち込んだものだと分かり、屋敷はひっくり返ったような騒ぎになる。


 父は青ざめたままヴィオレッタへ何度も謝った。


 「君が正しかった」


 「知っていました」


 「どうしてもっと」


 「何度も言いました」


 その返事に、父は黙った。


 そうだ。彼女はいつも言っていた。花粉、香油、毒草、人混み、熱。私はそれを全部、嫌がらせの言葉だと思って聞き流した。父もまた、厳しすぎる言い方だと思って受け流したのだろう。


 私が部屋で目を覚ましたとき、窓辺にヴィオレッタが立っていた。


 夕方の光が、横顔を薄く染めている。初めて見るほど疲れた顔だった。


 「お加減は」


 「……よくなりました」


 「そう」


 それで会話が終わりそうになって、私は慌てた。


 今ここで黙ったら、また昔へ戻ってしまう気がしたのだ。


 「お母様」


 呼ぶと、彼女の肩がわずかに揺れた。


 「その呼び方は、儀式の混乱で出たものだと思っていました」


 「違います」


 私は毛布を握りしめた。


 「……違いたく、ありません」


 彼女はしばらく何も言わなかった。


 私は怖かった。ここで、それは錯覚ですと否定されたらどうしよう。ずっと嫌われていたと確定したらどうしよう。今さらそんなことが怖いなんて、自分でも滑稽だと思うのに、身体はまた少し震え始めていた。


 すると彼女は、ゆっくり私のベッド脇へ来た。


 「あなたが幼い頃」


 低い声が落ちる。


 「花冠を編んで倒れたことがありました」


 私は目を瞬いた。覚えていない。そんな小さな頃のこと。


 「香りの強い花でした。あなたは高熱を出して、三日間意識が曖昧でした。医師が、次は命に関わるかもしれないと言った」


 だから庭を禁じたのだ。


 だから香油を避けたのだ。


 だからいつも温度と喉と食べ物を見ていたのだ。


 「嫌われても構いませんでした」


 ヴィオレッタはまっすぐ私を見た。


 「生きていれば、いつか説明できるかもしれないと思っていました。けれど説明するより先に、守る方が早かった」


 私はとうとう泣いた。


 子どもみたいに声を上げるのではなく、じわじわと頬を濡らす涙だった。ヴィオレッタは慌てなかった。ただ、枕元へ座り、泣き止めとも言わずに待っている。


 「ごめんなさい」


 「何に対して」


 「嫌いだと思って」


 「仕方ありません」


 「嫌いって、たくさん」


 「知っています」


 「それでも」


 そこで言葉が詰まる。


 ヴィオレッタは静かに手を差し出した。


 「手を」


 私はそっと重ねた。


 やっぱり少し冷たい。けれどその冷たさは、突き放すものではなく、熱に浮かされた私を落ち着かせる温度だった。


 「これから覚えなさい」


 「何をですか」


 「嫌いだと思っていたものが、別の名前を持つこともあると」


 私は涙のまま笑った。


 「難しいです」


 「ええ。だから何度でも」


 その返事があまりに彼女らしくて、また少し泣けた。


 数日後、私は正式に聖女候補として記録された。教会からは王都での保護と教育の申し出もあった。けれど私は、屋敷をすぐに離れる決断ができなかった。


 理由は簡単だ。


 私には、今さら覚え直したいことが多すぎたから。


 食卓での薬草茶の意味。香り袋を部屋へ置かなかった理由。雨の日に必ず窓を閉める順番。祭りの日ほど外出を止めた事情。私はひとつずつ聞き、ヴィオレッタはひとつずつ答えた。時々、父も同席したが、たいてい途中で肩を落とす。見ていなかった時間の長さが、彼にも分かってしまったのだろう。


 答え合わせは、思っていたよりずっと具体的だった。


 「初夏祭の日、香り花の列の三番目で足を止めましたね」


 ヴィオレッタが帳面を開く。


 「その夜の熱は四十度近くまで上がった」


 「そんなことまで」


 「記録していましたから」


 「茶会の日も?」


 「香油が強い日に限って咳が増えました」


 「叔母様との外出も?」


 そこで彼女は少しだけ間を置いた。


 「あなたが叔母様と出た日は、決まって新しい香が使われていました」


 私は息を呑んだ。


 「わざと、ですか」


 「断定はできません」


 「でも疑っていた」


 「ええ」


 私は膝の上で拳を握った。かわいそう、と抱きしめてくれた人の記憶が、別の色へ変わっていく。


 「どうして教えてくれなかったんですか」


 「証拠が弱かったからです」


 「それでも私は、あなたを……」


 嫌っていた、と言い切る前に喉が詰まる。


 ヴィオレッタは静かに答えた。


 「知っています」


 その言葉はもう刃ではなかった。嫌われることまで引き受けていたのだと分かるからこそ、重かった。


 叔母様は屋敷へ来なくなった。


 代わりに静けさが戻った。私はその静けさの中で、ようやく自分の家の音を聞くようになった。


 廊下を歩くヴィオレッタの足音。薬缶の蓋が鳴る音。帳場でインクを継ぐ音。小さな頃から聞いていたはずなのに、全部が別の意味を持ちはじめる。


 ある朝、私は自分から庭へ出たいと言った。


 ヴィオレッタは眉を上げる。


 「東区画は駄目です」


 「知っています」


 私は笑った。


 「西の薬草庭だけ。香りの弱い株を見分ける練習がしたいんです」


 彼女は数秒黙ってから、頷いた。


 「十分で戻りますよ」


 「はい、お母様」


 その呼び方は、もう混乱でも奇跡の残響でもなくなっていた。


 庭の風はまだ少し冷たい。けれど私は今度こそ、その冷たさを怖いとは思わなかった。


 隣には、厳しい顔のまま歩幅を合わせてくれる人がいる。


 それだけで、私は十分に救われているのだと思えた。


 白い花の前で私は足を止めた。昔なら手を伸ばしていただろう花だ。今は香りの届かない位置から眺めるだけにする。


 「きれいですね」


 「ええ」


 ヴィオレッタも同じ位置で止まった。


 「でもあなたには近すぎます」


 私は少し笑った。


 「はい、お母様」


 すると彼女は、本当にわずかにだけ口元を和らげた。ずっと欲しかったものは、甘やかな言葉ではなく、この小さな緩みだったのかもしれない。


 抱きしめて甘やかしてくれる愛だけが母ではない。命を数え、嫌われ役を引き受け、それでも手を放さないこともまた母なのだと、今の私は知っている。

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― 新着の感想 ―
厳しい継母に見えていた人物が、実はずっと命を守るために厳しくしていた――その真実の反転がとてもきれいでした。短編なのに、誤解と愛情の積み重ねがしっかり効いていて、最後に「母」と呼び直される流れがかなり…
不器用で真っ直ぐで誠実な継母の、無償の愛 実の母でも難しいのに、継母でそれを貫き通したこの方こそ聖女に相応しい気もしますが 甘い言葉で慰めるよりも、痛い言葉で叱る方が何倍も難しいと思います 彼女の想い…
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