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推しの余命が残り30日!?婚約破棄のおかげでフリーになったので、推しの死亡ルートを回避する「全力の推し活」始めます!〜冷血公爵様は私の猛烈アタックでとろとろの溺愛公爵になってしまいました〜

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/01/05

 

「アイリス・ラ・ベルフルール! 貴様のような性悪女との婚約は、今この時をもって破棄とする!!」


 王立学園の卒業パーティー。

 数百の蝋燭が灯るシャンデリアの下、第一王子エドワードの怒声が、優雅なワルツの旋律を切り裂いた。


 ホール中の視線が一斉に突き刺さる。

 嘲笑、憐憫、軽蔑。

 色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが扇子で口元を隠し、燕尾服の令息たちが眉をひそめる。


 その中心で、私は立ち尽くしていた。

 頭のてっぺんから爪先まで、冷水を浴びせられたように冷え切っている。

 でもそれは、王子に怒鳴られた恐怖からではない。


 ――カシャン。


 脳内で、硬質なガラスが割れるような音がしたからだ。


 その音と共に、濁流のような記憶が溢れ出してくる。

 ここはどこ? 王立学園のホール。

 私は誰? アイリス・ラ・ベルフルール。

 ……ううん、違う。


 私は、アイリスであって、アイリスじゃない。

 前世は日本の、どこにでもいる平凡な会社員。

 唯一の趣味は、乙女ゲーム『聖なる乙女と薔薇の王国』をプレイすること。


 来る日も来る日も、飽きもせずコントローラーを握りしめ、画面の向こうの『彼』に会いに行っていた、あの私だ。


(……思い、出した)


 蘇る記憶。

 同時に、理解する。

 ここはゲームの世界で、今はエンディング直前の断罪イベントなのだと。


 目の前では、エドワード王子がヒロインの腰を抱き寄せ、勝ち誇った顔で私を見下ろしている。


「何も言えないのか? 図星なのだろう! 聖女マリアの教典を隠し、階段から突き落とそうとした罪、認めるのだな!」


 身に覚えのない罪状。

 典型的な冤罪。


 本来の『悪役令嬢アイリス』なら、ここで泣き叫んで無実を訴えるか、あるいは逆上してヒロインに掴みかかる場面。


 けれど、私の心は、驚くほど冷めていた。


 王子? 婚約破棄? 冤罪?


 ……どうでもいい。

 本当に、心の底からどうでもいい。


 私の視線は、王子を通り越し、煌びやかな会場の隅々を彷徨っていた。


 いない。


 いない。


 どこ?


 心臓が早鐘を打つ。

 嫌な汗が背中を伝う。


 今日が悪役令嬢アイリス断罪イベントということは、ゲームのシナリオ通りなら『()』はもうすぐ死んでしまう。


 リュカ・フォン・アイゼンベルク公爵。


 私の最愛の人。


 そして、このゲームで最も不遇で、最も愛されず、どのルートでも絶対に死んでしまう悲劇のキャラクター。


 前世の私は、彼を救うためだけに1000回以上ループした。

 死ぬ日付はプレイごとに異なる。明日死ぬこともあれば、2週間後に死ぬこともある。

 でもどんなルートでも、共通しているのは、彼は1ヶ月後には必ず死んでいるということ。


 攻略サイトを読み漁り、バグ技を試し、運営に嘆願書まで送った。


 それでも、彼は救えなかった。


 どんなルートを選んでも、彼は孤独の中で心をすり減らし、誰にも看取られることなくひっそりと息を引き取ってしまう。




 ――会いたい。



 今すぐ会って、確かめなきゃ。


 まだ生きていることを。


 まだ、間に合うことを!


「おいアイリス! 聞いているのか! 王族への不敬罪で牢に……」


 王子の声がうるさい。黙れ。

 私はドレスの裾をギュッと握りしめ、猛然と顔を上げた。


「……さい」


「は?」


「うるさいっ!!」


 会場中の空気が凍りついた。

 王子が金魚のように口をパクパクさせている。


 私は構わず、踵を返した。


 探せ。


 この広い会場のどこかに、彼は必ずいるはずだ。

 彼は人付き合いが苦手だから、きっと目立たない場所で、気配を消して……。


 ――いた。


 会場の北側。巨大な柱の陰。

 喧騒から逃れるように、壁の花となって佇む人影。


 夜の闇を溶かしたような、艶やかな漆黒の髪。

 この世の全てを諦めたような、凍てつく氷河色の瞳。


 彫刻のように整った顔立ちは、病的なまでに白く、触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。


 リュカ。


 リュカだ……!


 視界が滲んだ。


 生きてる。立ってる。


 画面越しじゃなくて、本物がそこにいる。


 彼を見つけた瞬間、私の頭の中で、不吉なカウントダウンが始まった気がした。


 残り時間、30日。



 どう足掻いても、彼を救う道はなかった。


 世界そのものが彼を殺そうとしているかのように、彼の命はあまりにも脆い。


 私は知っている。


 彼の死因は――『寂しさ』だ。


 彼は孤独だ。


 幼い頃から病弱で、部屋に軟禁されていた彼は、親の愛も、友人の温もりも知らずに育った。


 若くして公爵位を継ぎ、膨大な仕事と責任を押し付けられ、周囲からは「冷血公爵」「疫病神」と陰口を叩かれる日々。


 彼の心には、ぽっかりと大きな穴が空いている。

 冷たい風が吹き荒れる、空虚な穴。


 その寂しさを埋めるために、彼は自分を虐めるように仕事に没頭する。


 睡眠を削り、食事を忘れ、痛みを無視して。


 そうしていれば、寂しさを忘れられるから。


 そうして心と体をすり減らし、最後は誰にも気づかれないまま、独りぼっちで死んでいく。


 そんなの、嫌だ。


 もう、あんな思いはしたくない。


 画面の前で「死なないで」と泣き叫ぶだけの無力な私は、もういないんだ。


 今の私には、足がある。


 手がある。


 声が出る。


 ここは……ゲーム世界であって、ゲームの中じゃない。

 決められた選択肢しか選べなかったあの時と……違う!


 頭は良くないかもしれない。

 特別な魔法も使えないし、権力もない。

 でも、彼を想う気持ちだけは、誰にも負けない!


 私はヒールを強く踏み込んだ。


「リュカ様……!」


 つぶやきは、すぐに叫びになった。


 私は走り出した。


 淑女の作法? 知るか!

 ドレスが重い? そんなもの、持ち上げればいい!


 ビリッ、とスカートの裾が裂ける音がした。


 周囲の令嬢たちが「キャッ」と悲鳴を上げて道を開ける。

 私は人混みをかき分け、弾丸のように突っ走った。


 リュカは、騒ぎに気づいて顔を上げたようだった。


 私と目が合う。

 その氷のような瞳が、驚きに見開かれる。


 逃げないで。


 お願い、行かないで。


 今ここで貴方を捕まえなきゃ、貴方はまたあの孤独な屋敷に帰って、一人で死に向かってしまう。


「リュカ様ぁぁぁーーっ!!」


 なりふり構わない絶叫。

 彼がビクリと肩を震わせる。


 あと5メートル。







 あと3メートル。




 あと1メートル!


 私は勢いのままに、彼の目の前に滑り込んだ。

 止まりきれずに、ドンッと彼の胸にぶつかってしまう。


「ぶっ!?」


 冷たい。

 ドレス越しに触れた彼の体は、氷のように冷え切っていた。


 細い。

 今にも折れてしまいそうなほど、華奢な体躯。


 ぶつかってよろけて、慌てて彼に触れようとした私の手を、彼は振り払った。


「……な、なんだ。君は……それに、そのドレス……ボロボロだぞ……」


 拒絶の声に似た、人を遠ざけるための鋭い棘を含んだ声。

 ゲームで何度も聞いた、心が折れそうになる冷たい声だ。


 でも、今の私にはわかる。

 これは拒絶じゃない。


 恐怖だ。


 彼は、人とどう接していいかわからなくて、傷つくのが怖くて、必死に威嚇している野良猫と同じなんだ。ゲームの中での彼は、そういう人だった。


「はぁ、はぁ……っ、リュカ様……」


 息が上がって、喉が痛い。

 心臓が破裂しそうだ。


 言わなきゃ。

 私の全部を、今ここで伝えなきゃ。


 上手い言葉なんて浮かばない。


 計算なんてできない。


 駆け引きなんて高等技術、私には無理だ。


 ただ、この溢れ出しそうな想いを、そのままぶつけるしかない!


 私は、彼の震える袖口を、両手でギュッと掴んだ。


「す、好きです!!」


「……は?」


 彼が目を丸くする。

 会場中の時間が止まった。


 エドワード王子も、ヒロインも、楽団の人たちも、みんな口を開けて固まっている。


 当たり前だ。

 婚約破棄された直後の悪役令嬢が、別の男――それも『冷血公爵』と恐れられる男に告白なんて。

 頭がおかしくなったと思われるに決まってる。


 でも、止められない。


 一度口に出してしまった想いは、もうダムが決壊したみたいに止まらない。


「ずっと、ずっとお慕いしておりました! 貴方が誰よりも優しくて、誰よりも頑張り屋さんで、でも本当はすごく寂しがり屋さんなことも、全部知ってます! 貴方が毎晩、眠れない夜に窓の外を見ていることも、本当は甘いものが好きなのに隠していることも、全部、全部!!」


「な……何を、言って……」


 リュカが青ざめて後ずさる。


 不気味だろう。怖いだろう。


 初対面の女に、自分の秘密を言い当てられたんだから。まるで私はストーカーだ。


 でも、引けない。


「結婚してくださいなんて、おこがましいことは言いません! 恋人になれなくてもいいです! ただの……そう、ただのファンの片思いでいいんです!」


 私は涙目で、彼を見上げた。


 涙が溢れて、視界が歪む。


「お願いです、リュカ様。……私を、貴方のお側にいさせてください。お仕事のお邪魔はしません。ただ、貴方がちゃんとご飯を食べているか見守ったり、寒い時に毛布をかけたり……そういうことを、させてほしいんです!」


「い、意味がわからない……。君は、錯乱しているのか?」


 彼の手が、私を引き剥がそうとする。

 その手は氷のように冷たくて、そして……小刻みに震えていた。


 ――震えてる。


 嫌悪じゃない。

 これは、戸惑いだ。


 誰かに真正面から「好きだ」と言われたことがなくて、どうしていいかわからないんだ。


「錯乱してます! 頭がおかしいんです!」


 私は泣き笑いのような顔で叫んだ。


「正気じゃありません! 正気じゃないから、言えるんです! ……リュカ様。私、貴方に生きていてほしいんです。明日も、明後日も、その先もずっと!」


「……っ」


 リュカが息を呑む。

 その氷河色の瞳が、大きく揺らいだ。


 貴方は知らないでしょう。

 自分がどれだけ簡単に死んでしまうか。


 自分がいない世界で、私がどれだけ絶望したか。


 もう嫌なの。


 あなたのいないバッドエンドなんて、もう見たくない!


「お願いです。……今日だけでいいから。私を、一人にしないでください」


 それは、とても卑怯な言い方だった。


「貴方を一人にしない」じゃなくて、「私が寂しいから一緒にいて」と縋るなんて。


 貴方の優しさに漬け込むような、最低なやり方だ。


 でも、私はバカだから。


 こうやって泥臭く、なりふり構わず縋り付くことしかできない。


 気持ち悪くても。


 不気味でも。


 こういう風にしか……私にはできない。今日を逃してしまえば、彼とはもう一生会えない気がするから。


 リュカは、長いこと黙り込んでいた。


 困ったように眉を寄せ、周囲の視線を気にし、それから私の必死な顔を見て……。

 深く、深いため息をついた。


 その吐息すら、愛おしい。


「……はぁ。訳がわからない」


 彼は私の袖を掴んでいた手を、そっと離した。


 ああ、ダメか。


 やっぱり、迷惑だったか。そりゃ、そうだよね。いきなり、自分の事色々言い当てられたり、私みたいな悪役令嬢に好きだとか言われたり。


 ただの頭のおかしい奴だよ。ストーカーだよ。



 目の前が暗くなりかけた、その時。


「……送る」


「え?」


 彼は視線を逸らしたまま、ボソリと言った。

 耳の先が、ほんの少しだけ赤い。


「こんな、婚約破棄されたばかりで錯乱している令嬢を、一人で放り出すわけにはいかないだろう。……君が落ち着くまで、馬車に乗せていくくらいなら、してやる」



 ――あ。



 ああ、神様。


 やっぱり、この人は。

 私の知っている、世界で一番優しいリュカだ。


 不器用で、素直じゃなくて、損ばかりして。

 でも、困っている人を放っておけない、お人好しな貴方だ。


「……はいっ!!」


 私は顔をくしゃくしゃにして頷いた。

 涙がボロボロとこぼれ落ちる。


 よかった。


 繋がった。


 まだ、蜘蛛の糸のような細い繋がりだけど。

 でも、これで今夜、彼が一人で寂しく死に向かうフラグだけはへし折った。


「泣くな。……みっともない」


 リュカが、懐からハンカチを取り出して、無造作に押し付けてくる。


 その手つきは乱暴だけど、指先が微かに私の手に触れて、その温もりにまた泣けてきた。


「おい、行くぞ。……みんなが見ている」


 リュカが、逃げるように歩き出す。

 その背中を、私は小走りで追いかけた。


 ドレスの裾は破けてるし、お化粧も涙でドロドロかもしれない。


 スマートな「救済」なんて程遠い、泥だらけで傷だらけのスタートだ。


 でも、私の心は燃えていた。


 絶対に死なせない。


 これから毎日、貴方の元に押しかけてやる。

 美味しいご飯を食べさせて、散歩に連れ出して、たくさん笑わせてやるんだから。


 エドワード王子が背後で何か叫んでいたけれど、そんなのもう耳に入らなかった。どうでもいい。好きに喚いていたら?


 あなたから私に婚約破棄を言い渡しておいて、その後私がどうしようと、あなたごときにとやかく言われる筋合いなんてない。


 今の私に、あなたのことなんて気にしてる余裕はないから。




 ◇◆◇




 会場を出て、冷たい夜風が頬を撫でる。


 馬車寄せには、公爵家の紋章が入った黒塗りの馬車が待っていた。


「家は、この近くか?」


「……リュカ様のお屋敷にお邪魔してはいけませんか? 失礼なことを申しているのは分かっています……! ですが……! 一緒に……居たくて……」


 彼は少し戸惑った表情を見せてから、私には返事をせず、御者に短く告げる。


「屋敷へ戻る」と。


 私たちは馬車へと乗り込んだ。


 狭い密室。

 向かい合わせの席。


 ガタン、と馬車が動き出す。

 車輪の音だけが響く沈黙の中で、彼が気まずそうに窓の外を見ている。

 その横顔は、やっぱり儚くて、消えてしまいそうで。


(……生きてる)


 改めて、実感が湧いてくる。

 今、私は彼と同じ空間にいる。同じ空気を吸っている。


 コントローラー越しの遠い存在じゃなくて、手を伸ばせば届く距離に彼がいる。


 じわり、と胸が熱くなる。

 これは、ゲームじゃない。


 現実だ。


 やり直し(リセット)はきかない。


 だからこそ、この一分一秒がたまらなく愛おしい。


 私は、ハンカチを握りしめたまま、心の中で誓った。


 これは、なんの力もない平凡な私が挑む、彼を死なせないための、最初で最後のRTA(リアルタイムアタック)


 クリア条件はただ一つ。

 ――貴方が、幸せに生きてくれること。


 そのためなら、私はなんだってする。


 嫌われても、疎まれても、ストーカー扱いされても構わない。


 貴方の隣に、私の居場所をこじ開けてみせる。


 1ヶ月後まで、あなたを生かして見せる。


 ふと、リュカが視線を感じたのか、こちらを向いた。

 氷河色の瞳と、目が合う。


「……なんだ。まだ何か言いたいことでも?」


 不機嫌そうな声。

 でも、その瞳の奥には、隠しきれない戸惑いと、ほんの少しの安堵が見えた気がした。

 一人じゃないことに、ホッとしているような。


 私は涙を拭って、精一杯の笑顔を作った。


「いいえ! ただ、リュカ様のお顔色が少し良くなったなと思って!」


「……は? 君は本当に、わけがわからないな」


 彼は呆れたようにため息をついたけれど、その口元が、わずかに緩んだのを私は見逃さなかった。


 私の戦いは、まだ始まったばかりだ。

 私は無能だから、ただ泥臭く、必死に、どこまでも図々しく。そうやって、無理やりにでも彼の心をこじ開けていくしかない。


 そう決意して、私はそっと、膝の上の彼の手を見つめた。



 まだ遠いその手に、いつかきっと、私の熱が届くことを信じて。





 ◇◆◇





 馬車に揺られること数十分。

 窓の外の景色から街灯の明かりが消え、深い森の気配が濃くなってきた頃、馬車が速度を緩めた。


「……着いたぞ」


 リュカの低い声と共に、重厚な鉄門が開く音がした。

 アイゼンベルク公爵邸。

 ゲームでは『沈黙の城』とか『幽霊屋敷』なんて呼ばれていた場所だ。


 馬車を降りた私は、目の前にそびえ立つ屋敷を見上げて、息を呑んだ。


 大きい。

 けれど、暗い。


 広大な石造りの屋敷には、ほとんど明かりが灯っていなかった。


 まるで主人の心を映すように、ひっそりと、冷たく沈黙している。

 使用人の気配も希薄だ。

 出迎えに出てきたのは、年老いた執事が一人だけ。


「おかえりなさいませ、旦那様。……おや、そちらのお嬢様は……?」


 執事が目を丸くして私を見ている。

 スカートの避けたボロボロのドレス、崩れた髪、腫れた目。

 どう見ても、公爵家のお客様としてふさわしくない。


 リュカは気まずそうに視線を逸らした。


「……事情があって保護した。客室を用意してくれ。一番、暖かい部屋を」


「は、はい……承知いたしました」


「それと、何か温かいものを。……彼女は震えているから」


 リュカ……。


 自分だって顔色が悪いのに、真っ先に私の心配をしてくれるなんて。


 やっぱり貴方は天使だ。

 黒い服を着ているけど、背中に白い翼が見える。


「ありがとうございます、リュカ様」


「……礼には及ばない。当然の義務だ」


 彼は素っ気なく言うと、執事に目配せをして、そのまま足早に奥へと歩き出した。


 その背中が「執務室」の方角へ向かっているのを、私は見逃さなかった。


 ――待て。

 そこにはいかせない。


 ゲームの知識によれば、彼はこのまま執務室に籠もり、深夜まで何も食べずに書類と格闘するつもりだ。


 そして冷え切った部屋で、一人でコーヒーを啜り、孤独を噛み締めるんだ。


 そんな「死へのRTA」、私が許さない。

 今すぐ追いかけなきゃ!


 ……でもその前に、一つだけやっておかなきゃいけないことがある。


「あ、執事さん! お願いがあります!」


 私は、リュカの後を追おうとしていた執事さんを呼び止めた。


「私の実家に使いを出して、『アイゼンベルク公爵に保護されているので、探さないでください。後日、必ず説明に上がります』と伝えていただけますか? 捜索願が出されると、リュカ様にご迷惑がかかりますので!」


「は、はい……承知いたしました」


 執事さんが深々と頭を下げる。


 これで実家からの追っ手は防げるはず。外堀は埋めた!


 よし、次は本丸だ!


「お待ちください! リュカ様ーッ!」


 私は、呆気にとられる執事さんに一礼すると、リュカの後を全力で追いかけた。


「リュカ様もご一緒に! ご飯、食べませんか!」


「は?」


 彼が振り返る。

 心底嫌そうな、というか「意味がわからない」という顔だ。


「僕は仕事が残っている。食事はあとで執務室に運ばせるから……」


「ダメです! 『あとで』って言って、絶対食べないつもりでしょう!?」


「なっ……」


 図星だったらしく、彼が言葉を詰まらせる。


 やっぱり。


 ゲームでもそうだった。「食欲がない」と言って食事を抜き、胃を壊して体力を削っていくのが彼の黄金パターン(死亡フラグ)だ。


 私は彼の前に立ちはだかり、両手を広げて通せんぼをした。


「一人で食べるご飯なんて、美味しくありません! せっかくリュカ様のお屋敷に来たんですから、一緒に食べてください! ……じゃないと、私、寂しくて泣いちゃいます!」


「……っ」


 また、卑怯な手を使った。


「貴方の身体が心配」と言うより、「私が寂しい」と言った方が、彼は断れないと知っているから。


 お人好しの彼は、捨て猫みたいな私を放っておけない。


 リュカは眉間のシワを深くして、しばらく私を睨んでいたけれど。

 やがて、根負けしたように肩を落とした。


「……少しだけだぞ」


「はいっ!!」


 勝利。

 第一関門、突破。

 私は心の中でガッツポーズをした。




 ◇◆◇




 通された食堂は、屋敷の大きさに反比例するように、ガランとしていた。


 長すぎるテーブル。

 高すぎる天井。


 飾られた花もなく、ただ冷たい空気が漂っている。


 こんな場所で、彼はいつも一人で食事をしていたの?

 それとも、食事さえもろくに摂らずに、あの暗い廊下を歩いていたの?


 胸が痛くなる。

 でも、感傷に浸っている暇はない。


 運ばれてきたスープは、野菜がたっぷり入ったポトフだった。


 湯気が立っている。温かい。

 執事さんが気を利かせてくれたのだろう。


 リュカは、私から一番遠い上座ではなく、私のすぐ隣の席に座っている。


 私が「遠いと声が聞こえません!」と無理やり椅子を引っ張ってきたからだ。


「……近すぎる」


「そんなことありません! ほら、温かいですよ?」


 彼は居心地悪そうに身じろぎしながら、スプーンを手に取った。


 その手は、やっぱり白くて細い。

 一口、口に運ぶ。

 ゆっくりと嚥下する喉仏が動く。


 食べた。

 一口、食べた!


 それだけで、涙が出そうになる。

 画面の向こうでは、この「食べる」という動作さえ、イベントスチルで数回見られるかどうかだったのに。


「……なにを、ニヤニヤしているんだ」


「えへへ。リュカ様がご飯を食べてるのが、嬉しくて」


「……変な女だ」


 彼は呆れたように呟いたけれど、スプーンを置こうとはしなかった。


 二口、三口。


 ゆっくりだけど、確実に食べてくれている。


 私もスプーンを動かしながら、話しかけた。

 他愛のない話だ。


 今日のパーティーの料理が美味しかったこと(私は食べてないけど)。


 学園の中庭に咲いていた薔薇のこと。

 最近読んだ本のこと。


 彼は、ほとんど喋らなかった。


「あぁ」とか「そうか」とか、短い相槌を打つだけ。


 でも、拒絶はしなかった。

 私の拙いお喋りを、静かに聞いてくれていた。


 それが嬉しくて、私は調子に乗って、スープのおかわりまでしてしまった。


 食後の紅茶を飲み終える頃には、彼の顔色も少しだけ良くなっているように見えた。


 少なくとも、会った時のような「闇」のような気配は薄れている。


「……そろそろ、いいだろう」


 リュカが立ち上がる。

 時計の針は、もう深夜を回ろうとしていた。


「君も疲れているはずだ。今夜は泊まっていくといい」


「リュカ様は?」


「僕は……少し、整理するものがある」


 視線が泳いだ。


 嘘だ。


「整理」なんて可愛いものじゃない。ガッツリ仕事をする気だ。


 このままじゃ、食後の消化もそこそこに、またストレスの海にダイブしてしまう。


 どうする?


 どうすれば、彼を休ませられる?


 私の頭脳(偏差値50)をフル回転させる。


 閃いた。


 名案ではない。またしても、泥臭い強行突破だ。


「リュカ様。私、眠れません」


「は?」


「怖くて、眠れないんです。……さっきの王子の怒鳴り声が耳に残ってて、一人になると震えが止まらなくて」


 嘘じゃない。

 半分くらいは本当だ。


 でも、一番怖いのは、貴方が私の目の届かないところで死への経験値を積み重ねていくこと。


 私は立ち上がり、彼の袖をギュッと掴んだ。


「お願いです。……私が眠るまで、そばにいてくれませんか?」


「なっ、男女が同じ部屋で……!?」


「何もしなくていいんです! ただ、椅子に座って、本を読んでいるだけでいいんです! 誰かの気配があれば、安心できるから……」


 上目遣いで、懇願する。

 彼は困り果てていた。


 常識的で真面目な彼にとって、それはあり得ない提案だ。

 でも、彼は「か弱い令嬢(自称)」を突き放せない。彼のことなら何でも知ってる。1000回プレイは伊達じゃない!


「……扉は開けておくぞ」


「はい!」


「執事も、廊下に待機させる」


「もちろんです!」


「……君が寝たら、僕はすぐに出ていくからな」


 根負けした彼の言葉に、私は今日一番の笑顔で頷いた。




 ◇




 客室のベッドは、雲みたいにフカフカだった。

 でも、私は眠気なんて微塵もなかった。


 だって、ベッドのすぐ横の椅子に、あのリュカが座っているんだもん!


 彼は約束通り、持ち込んだ分厚い魔術書を読んでいた。

 ランプの灯りに照らされた横顔は、彫刻みたいに美しい。

 長い睫毛が、頬に影を落としている。


 時折、ページをめくる音がするだけの静寂。


 でも、それは「寂しい静寂」じゃなかった。

 誰かがそばにいる温かさを含んだ、優しい静寂。


(……生きてる。私の隣で、彼が生きてる)


 布団から目だけを出して、私は彼を見つめ続けた。


 胸が上下している。

 時々、小さく咳払いをする。


 そのすべてが、彼がここに「いる」証拠だ。なんて愛おしいんだろう。


 しばらくして、彼が本から目を上げ、私と視線が合った。


「……まだ寝ないのか」


「リュカ様が綺麗すぎて、見惚れてました」


「っ……! き、君は本当に、恥じらいというものを……」


 彼が顔を赤くして、本で顔を隠す。


 かわいい。


 冷血公爵なんて嘘だ。

 彼はこんなに表情豊かで、初心で、愛らしい人なんだから。


「リュカ様」


「……なんだ」


「明日は、いい天気だそうですよ」


「そうか」


「私、リュカ様と行きたいところがあるんです」


 本から顔を出した彼が、怪訝そうに眉を寄せる。


「行きたいところ?」


「はい。……お屋敷の裏にある、丘の上。そこから見る朝焼けが、すごく綺麗だって聞いたんです」


 それは、ゲームの中の『思い出イベント』の一つ。


 彼が幼い頃、一度だけ両親と見たという景色。


 でも、今の彼はもう何年も、プライベートでは屋敷の外に出ていない。太陽の光さえ、カーテン越しにしか浴びていない。


 彼には、光が必要だ。

 薄暗い部屋で枯れていく彼を、外の世界へ連れ出したい。


「……僕は、忙しい」


 予想通りの拒絶。


「朝は会議があるし、書類も山積みだ。そんな遊んでいる暇は……」


「10分でいいんです!」


 私は布団から身を乗り出した。


「たった10分! 早起きして、散歩するだけです。……私、リュカ様と一緒に、朝を見たいんです」


 貴方が、明日を迎える瞬間を。

 今日という一日を生き延びて、新しい朝を迎える奇跡を、一緒に祝いたい。叶うことなら毎日だって、祝いたい。


 リュカは、本を閉じた。

 膝の上で、手を組む。

 その指先は、もう震えていなかった。


「……君は、強引だな」


 呆れたような、でもどこか諦めたような声。


「まるで、台風みたいだ。……僕の静かな生活を、土足で踏み荒らしていく」


「ふふ、ごめんなさい。私、掃除と洗濯は苦手ですけど、土足で踏み込むのだけは得意なんです」


「自慢することじゃない」


 彼が小さく笑った。


 ――笑った。


 唇の端が、ほんの数ミリ上がっただけ。

 でもそれは、私が初めて見る、彼の本当の笑顔だった。


 心臓が、トクンと大きく跳ねた。


 守りたい。尊い。離したくない。


 この笑顔を、絶対に。

 死なせてなるものか。


「……6時だ」


「え?」


「明日の朝、6時にテラスだ。……起こしても起きなかったら、置いていくからな」


 ツンデレだ!


 私は歓喜のあまり、ベッドの上で飛び跳ねそうになるのを必死で堪えた。


「はいっ! 絶対に起きます! 目を開けたまま寝て待ってます!」


「……寝る時は目を閉じろ。怖い」


 彼がランプの光を少し絞った。

 部屋が薄暗くなる。

 でも、怖くない。

 すぐそばに、大好きな人の気配があるから。


 私は安心して、目を閉じた。


 泥のような眠りに落ちる直前。

 不器用な手が、私の頭をポン、と撫でた気がした。

 それは、とても温かくて、優しい感触だった。




 ◇◆◇




 翌朝。

 私は、激しい頭痛と共に目を覚ました。


 昨日の今日だ。緊張の糸が切れたのかもしれない。


 でも、寝ている場合じゃない。


 6時! 約束の時間!


 慌てて飛び起きると、窓の外はまだ薄暗かった。

 東の空が、ほんのりと白み始めている。


 私は簡単な身支度を整え(ドレスは侍女長さんが貸してくれた。ちょっとサイズが大きいけど気にしない!)、廊下へ飛び出した。


 約束の場所、裏庭へ続くテラス。

 そこに、彼はいた。


 朝霧の中、黒いコートを羽織って佇む姿。

 冷たい空気に、白い息が溶けていく。

 その背中は、やっぱり寂しそうで、今にも消えてしまいそうで。


「リュカ様!」


 名前を呼ぶと、彼が振り返った。

 朝の光を浴びたその顔は、昨日よりもずっと、人間らしく見えた。


「……遅い」


「ご、ごめんなさい! 3分遅刻しました!」


「……行くぞ」


 彼は私の手を取らなかった。


 でも、ゆっくりと歩き出したその歩幅は、明らかに私に合わせてくれていた。


 屋敷の裏手にある、なだらかな丘。

 草露に濡れた道を、二人で歩く。


 会話はない。


 でも、沈黙が苦痛じゃなかった。

 ただ、隣を歩いているだけで、胸がいっぱいだった。


 丘の上にたどり着いた時、ちょうど太陽が顔を出した。


 黄金色の光が、世界を染めていく。

 冷たかった空気が、じわりと温む。


 夜が終わる。


 朝が来る。


 彼が、また一日、生き延びた。


「……綺麗」


 私が呟くと、隣でリュカが目を細めていた。

 太陽の光を浴びて、その白い肌が輝いている。

 氷河色の瞳に、朝日の色が映り込んでいる。


「……ああ。……悪くない」


 彼がボソリと言った。


 その言葉を聞いた瞬間、私の目から、ポロポロと涙がこぼれた。


 生きてる。


 貴方は、ここにいる。生きてるんだよ。


 太陽の下で、美しいと思える心を持って、生きている。


「な、なんだ。また泣くのか?」


 リュカが慌てて覗き込んでくる。


「ち、違います……眩しくて……」


「……嘘をつけ」


 彼はため息をつくと、昨日のハンカチではなく、自分の指先で、私の涙を拭ってくれた。

 その指は、昨日よりも少しだけ温かかった。


「……アイリス」


 名前を、呼ばれた。

 初めてだ。彼が私の名前を呼び捨てで呼んでくれた。


「君は、不思議な人だ。……僕の凍った時間を、無理やり溶かしていく」


「溶かしますよ。ドロドロに溶かして、熱々にしてみせます」


「……熱すぎるのは、苦手なんだがな」


 彼が苦笑する。

 その笑顔を見ながら、私は確信した。


 いける。


 このRTA、絶対にクリアできる。


 彼の中には、まだ「生きたい」と願う種火が残っている。


 私が薪をくべ続ければ、きっと大きな炎になる。


「大好きです。リュカ様」


 私は彼に聞こえるか聞こえないかも分からないほどの声量でそう呟いて彼の手を、勇気を出して握った。


 彼の手は一瞬、ピクリと跳ねたけど、もう振り払われなかった。


 それが、たまらなく心地よかった。




 ◇◆◇




 それからの毎日は、まさに『推し救済RTA』の本番だった。


 私はあれこれと理由をつけ、公爵邸に居座り(一応、日当たりの良い客室を使わせてもらっている)、彼の生活を根本から叩き直す作戦に出た。


 作戦名は、『思い出上書き保存』。

 彼の中に巣食う「孤独で辛い記憶」を、私との「騒がしくて楽しい記憶」で塗り潰すのだ。


「リュカ様! 今日は市場に行きますよ! 美味しいクレープ屋台が出てるんです!」


 ある晴れた日の午後。

 私は執務室に突撃し、書類と睨めっこをしている彼の手を引っ張った。


「……待て、アイリス。まだ決裁が残っている」


「仕事は逃げませんけど、限定クレープは売り切れたら逃げます! 休憩も仕事のうちです!」


 私は強引に彼を連れ出した。

 彼は渋々といった様子だったけれど、その足取りは拒絶していなかった。


 王都の市場は、活気に満ちていた。

 スパイスの香り、焼きたてのパンの匂い、人々の笑い声。


 幼少期から引きこもりがちだった彼にとって、そこは別世界だったようで、最初は落ち着かなさそうに周囲を警戒していた。


「……人が多いな」


「大丈夫です。はぐれないように、こうしますから!」


 私は彼の手をギュッと握りしめ、自分の腕を絡めた。いわゆる、恋人繋ぎに腕組みのコンボだ。

 リュカがビクリと肩を震わせる。


「こ、これは……歩きにくくないか?」


「リュカ様を感じられて幸せなので、問題ありません!」


「……君という人は」


 彼はため息をついたけれど、私を振りほどくことはしなかった。


 それどころか、人混みが激しくなると、さりげなく私を庇うように立ち位置を変えてくれたりして。


 その不器用な優しさに、私はクレープを食べる前から胸がいっぱいになった。


 二人で食べたクレープは、甘酸っぱいイチゴ味。


「甘すぎる」と眉をひそめながらも、私の口元についたクリームを指で拭ってくれた時の、あの優しい目は一生忘れない。




 ◇◆◇




 またある日は、天気が良かったのでピクニックを決行した。

 屋敷の裏手に広がる森を抜けた先に、静かな湖があるのだ。


「ジャーン! 見てくださいリュカ様、特製サンドイッチです!」


 湖畔の芝生にシートを広げ、私は早起きして作ったお弁当を披露した。


 正直、料理は得意じゃない。


 パンの耳はガタガタだし、具材もちょっとはみ出している。

 貴族の令嬢が作るものとしては、落第点かもしれない。


 リュカは、その不格好なサンドイッチをじっと見つめていた。


「……君が、作ったのか?」


「はい。毒見は済んでますから、安心してください!」


「毒など疑っていない。ただ……」


 彼はサンドイッチを手に取り、一口かじった。

 咀嚼して、飲み込んで。

 それから、ふわりと目を細めた。


「……美味しいな」


 その一言で、私の早起きの苦労はすべて報われた。

 彼は全部食べてくれた。


 私が「無理しないでください」と言っても、「君が作ったものを残すなんて、できるわけがない」と言って。


 食後は、ポカポカ陽気の中で昼寝タイム。


 リュカは私の膝枕で……というのは流石に恥ずかしがって断られたけれど、私のすぐ隣で、木にもたれてウトウトし始めた。


 風が木の葉を揺らす音。

 湖面のさざ波。

 そして、リュカの穏やかな寝息。


 私は、眠っている彼の顔を盗み見た。


 目の下の隈は、もうほとんど消えている。


 眉間のシワもなくなって、幼い子供のような無防備な顔。


(……今日も、生きてる。私の隣で、生きてくれている)


 胸が上下しているのを見るだけで、涙が出そうになる。

 画面の中の彼は、いつも一人で、冷たい部屋で死んでいった。

 でも今は、こんなに暖かい場所で、私の隣で眠っている。


「……ん」


 彼が寝返りを打ち、その手が無意識に私のスカートの端を掴んだ。

 まるで、私がどこにも行かないように確かめるみたいに。


 私はその手に自分の手を重ねた。

 温かい。

 生きてる温度だ。

 この温度を、絶対に冷たくなんてさせない。




 ◇◆◇




 そして、ある日の夜。


 王都で花火大会が開かれると聞いて、私たちは屋敷の屋根に登った。


 お行儀が悪いと執事さんには怒られたけど、ここが一番の特等席だから。


 ヒュルルル……ドンッ!


 夜空に大輪の花が咲く。

 赤、青、緑。

 光の粒子が降り注ぐような光景に、私は歓声を上げた。


「わぁ……! すごい! リュカ様、今の見ました!?」


「……ああ。大きい音だな」


 リュカは少し驚いたように肩をすくめた。

 大きな音や強い光は、彼にとって少し刺激が強いのかもしれない。

 私は心配になって、彼の顔を覗き込んだ。


「大丈夫ですか? 怖くないですか?」


「……君が隣にいるなら、平気だ」


 彼は、夜空ではなく私を見て言った。

 その瞳には、花火の光よりもずっと優しい色が宿っていて。


「一人で見上げていたら、きっと孤独を感じただろうな。……世界中で、自分だけが暗闇に取り残されたような気分になって」


「リュカ様……」


「だが、君がいると……この光も、綺麗だと思える」


 彼の手が、そっと私の髪に触れる。


「ありがとう、アイリス。……僕の世界に、色をくれて」


 その言葉は、どんな愛の言葉よりも深く、私の心に刺さった。


 彼が「綺麗だ」と言ってくれた。

 世界を愛してくれた。

 それは、彼が生きることを肯定し始めた証拠だ。


 少しずつ。


 でも確実に、運命は変わり始めている。


 死へのカウントダウンは、幸せな時間の積み重ねに上書きされている。


 でも。

 私の『RTA』には、まだ最後のピースが足りなかった。


 彼が生きたいと願うための、決定的な理由。





 ◇◆◇




 ――運命の夜。


 今夜は、年に一度の『精霊祭』。


 この世界の精霊たちがつがいを見つけ、愛を誓い合う日。


 精霊たちが結ばれる時、その光は地上に溢れ、世界で一番幻想的な夜になると言われている。


 この日は……。1000回以上プレイした中で、彼の死亡数が一番多かった日だ。


 川沿いには無数の屋台が並び、多くの恋人たちが手を繋いで歩いている。


 そんな幸せな風景の中に、私とリュカもいた。まるで恋人同士のように。


「すごい……! リュカ様、見てください! 光の川みたい!」


 私は川辺の芝生に座り込み、はしゃいで声を上げた。


 目の前を流れる大河の上を、無数の小さな光――精霊たちが、蛍のように舞っている。


 青、ピンク、金、銀。


 色とりどりの光が水面に反射して、まるで宝石箱をひっくり返したみたいにキラキラと幻想的に輝いてる。


「……ああ」


 隣に座るリュカが、静かに相槌を打つ。


 今日の彼は、いつもの黒い服ではなく、私が選んだ濃紺のジャケットを着ている。それが夜の空気に溶け込んで、恐ろしいほど綺麗だった。


「綺麗ですねぇ……」


 私はうっとりと精霊たちの光の舞を見つめた。


 こんな景色を、彼と一緒に見られるなんて。


 ゲームの中では、彼はこの時期、すでに病床に伏せっていたり、冷たい棺の中にいたりした。


 でも今、彼はここにいる。

 私の隣で、同じ風を感じている。

 それが嬉しくて、胸がいっぱいで、自然と言葉が溢れた。


「……ああ。綺麗だ」


 リュカの、低く、甘い声。


 でも、その声の響きが、精霊たちに向けられたものではない気がして。


 私はふと、横を向いた。


 ドキリ、とした。心臓が、ぎゅぅってなった。


 リュカは、精霊なんて見ていなかった。


 彼は、私のことを見つめてた。


 その氷河色の瞳に、熱っぽい光を宿して。

 瞬きさえ惜しむように、じっと、私だけを見つめていた。


「リュカ、様……?」


 あまりの熱視線に、頬がかぁっと熱くなる。


 ど、どうしたんだろう。


 私、何か変な顔してたかな?


「あ、あの……私の顔、なにかついてます?」


 誤魔化すように頬をぺたぺたと触る。

 すると、リュカがふっと笑って、身を乗り出した。


 え?

 近い。


 整った顔が、目の前に迫る。

 長い睫毛が触れそうな距離。


「……ここだ」


 彼の指先が、私の唇をなぞった。

 ビクン、と背筋が震える。


「アイスクリームが、ついている」


「え、あ……嘘……」


 さっき屋台で買ったアイス。夢中で食べてたから、つけちゃったんだ。


 恥ずかしい!


 穴があったら入りたい!


 慌てて拭おうとした、その時だった。


 リュカの顔が、傾いた。


「ん……」


 唇に、柔らかくて温かいものが触れた。


 思考が停止する。


 これ、……え?


 甘い痺れと、彼の唇が掬いあげた微かなソフトクリームの味が脳髄を駆け巡る。


 彼がゆっくりと唇を離すと、その瞬間――。


 カッ……!


 世界が、白銀に染まった。


「わぁ……ッ!」


「なんだ、あれは……!?」


 周囲から、どよめきと歓声が波紋のように広がる。


 川面を漂っていた無数の精霊たちが、まるで私たちのキスを合図にしたかのように、一斉に舞い上がったのだ。


 青、金、桃色、銀。


 数えきれないほどの光の粒子が、重力に逆らって夜空へと昇っていく。


 それはまるで、地上に天の川が逆流したような、息を呑むほど幻想的な光景だった。


 キラキラ、キラキラと。


 光の渦が私たち二人を包み込み、螺旋を描いて高くまで登っていく。


 その輝きは、街灯の明かりさえ霞むほど眩しくて、温かい。


「きれい……」


 思わず漏れた私の声は、光の音に溶けていくようだった。


 精霊は、真実の愛に惹かれ合うという。


 番を見つけた精霊たちが、私たちの周りで歌うように瞬き、祝福の鐘を鳴らしている。


 そのあまりの美しさに、周囲の喧騒が消えた。


 屋台の客も、他の恋人たちも、誰もが言葉を失い、この奇跡のような光景に見入っていた。


「アイリス」


「……リュカ、さま……?」


 光の中で、彼が困ったように、けれど泣き出しそうなほど愛おしそうに微笑んでいる。


 逆光に縁取られたその姿は、どんな絵画よりも神々しく、美しかった。


「はは……」


 リュカが、観念したように乾いた笑い声を漏らした。


 そして、舞い散る光よりも熱い瞳で、私を射抜く。


「アイリス、僕は……君を愛してしまったみたいだ」


「……」


 ドクン、と心臓が早鐘を打つ。


 愛してる。


 彼が、私を。


 幻聴じゃない。


 あの孤独だった彼が、自分の意志で、私への愛を口にしてくれた。


 そんな愛の言葉に、私はもうなんの抵抗もできない。


 さっきのキスの余韻がまだ唇に残って、唇も、顔も、身体も火照ってる。


 きっと私は今、どうしようもなく甘ったるくて、どうしようもなくとろとろして、誘惑するような、いやらしいような目をしてるんだと思う。


 それくらい、うっとりとして、彼を見つめてることが自分でもわかる。


 思考が、とろけそう。脳が溶けそう。それくらい頭がポーっとして……愛おしさと幸福に支配されてる。


「……君のその目……反則だ。僕は……もう、抑えきれない」


 彼の手が、私の頬を包み込む。


 逃げ場なんてない。


 逃げるつもりもない。


「んっ……」


 二度目のキスは、さっきよりも深く、甘く、長かった。


 精霊たちの光が、さらに強く瞬く。


 降り注ぐ光の粒子が、私たちの肩や髪に触れては、雪のように溶けていく。


 世界中が私たちを祝福しているみたいに。


(……ああ、幸せ)


 唇から伝わる彼の熱が、私の冷え切っていた記憶――1000回のバッドエンドの絶望を、跡形もなく溶かしていく。


 長い長い口づけが終わって、ようやく唇が離れる。

まだ離したくない。ずっと、口付けていたい。


 二人とも、息が上がっていた。


「ん……。みんなが……見ています……」


「僕も恥ずかしい……。だが、それでも抑えきれない」


 リュカは私の背中に腕を回し、強く抱きしめてくれた。


 彼の心臓の音が、私の耳元で力強く響いている。


 生きている音だ。


「君を愛していることを、僕は今、この光の中で叫びたいくらいだ」


「……嬉しい……っ」


 涙が溢れた。


 リュカが、私の顔を覗き込んだ。


「……泣かないで。アイリス」


 彼の親指が、私の涙を優しく拭う。


 その指先は、もう冷たくなかった。


 私と同じ、温かい体温を持っていた。


「僕は君を泣かせたいんじゃない。君をずっと笑顔にしたいんだ」


 ああ。


 この言葉を待っていた。


 1000回のループの中で、ずっと、ずっと聞きたかった言葉。


 私は涙に濡れた瞳で、彼を真っ直ぐに見つめた。


 RTAの、最後の仕上げだ。


 彼に、一番大切な約束をさせなきゃいけない。


「なら……お願いがあります」


「なんだ? なんでも言ってくれ」


 彼は優しく微笑んだ。


 星が降ってきても叶えてくれそうな、頼もしい笑顔。


 私は、深呼吸をして、魂からの願いを口にした。


「生きてください」


 彼の動きが止まる。


 周囲を舞う光の粒子さえ、一瞬その動きを止めた気がした。


「私のために。愛を受け入れて、生きることを諦めないでください」


「アイリス……」


「もう、一人で死のうとしないでください。私は……これ以上、貴方の死をみると、心が壊れそうです」


 1000回以上。


 彼の死を見てきた。その理不尽さが、ずっと許せなかった。


 ゲームのキャラだとしても、彼は今、私の目の前に実在してる本物の人間だから。


「生きろ……か」


 私の悲痛な叫びに、リュカはハッとしたように目を見開いた。


 彼は強く、痛いくらい強く、私を抱きしめた。


「……すまない。君を、そんなに不安にさせていたんだな」


「リュカ様……」


「……誓おう」


 彼は私の肩を掴み、少し離して、真剣な眼差しで私を見据えた。


 その瞳には、かつての死の影は微塵もない。


 あるのは、燃えるような生への執着と、私への愛だけ。


「僕は、君のために生きる。君と、僕のために、精一杯生きる」


「……絶対、ですよ……」


「ああ。だから……。僕が一生、生きられるように……僕の傍から離れないでくれ」


 リュカが、私の手を取った。


 そして、その場に膝をついた。


 舞い上がる無数の光の中で、私の王子様が跪く。


 まるで、物語の1ページの挿絵のように美しい光景。


「アイリス。……一生僕と、生きてくれ。残りの僕の人生を君に捧げる。だから、君の人生も僕に捧げてくれ」


 プロポーズ。


 震える声での、一生の約束。


 これ以上のハッピーエンドなんて、きっと世界のどこにもない。


 私は泣き笑いの顔で頷いた。


 言葉はいらない。


 行動で示すのが、私の流儀だから。


 私はリュカの頬に両手を当て、身をかがめて、彼にキスをした。


 今度は私から。


 熱っぽく、甘く、強く。


 私の命を分け与えるくらいの勢いで。


「ん……っ」


 リュカが驚いたように息を呑み、それから幸せそうに目を閉じて、私の口づけを受け入れた。


 精霊たちが、祝福の鐘のように一際強く煌めく。


 光のカーテンが揺らめき、観衆から割れんばかりの拍手と歓声が上がった。


「これが、私の答えです」


 唇を離し、私は満面の笑みで告げた。


 リュカは、茹で上がったように顔を赤くして、それから愛おしそうに私を見上げた。


 その目はもう、私にベタ惚れで、トロトロに甘やかされていた。そして、多分私も同じ目をしてる。


「……あぁ。愛している、アイリス。もう僕は君を離せない」


 彼は立ち上がると、私を軽々と横抱きにした。


「精霊たちだけじゃなくて、私たちまで結ばれちゃいましたね?」


「そうだな……。幸せだ」


 精霊たちはその後も、私たちを祝福するように、幻想的な光で祝い続けてくれた。


 数千の美しい光に包まれて、私たちは何度も、何度も甘い口付けを交わした。




 私の『全力の推し活』、これにて完走!


 クリアタイムは――文句なしの「世界記録」!


 そしてここからは、愛しい彼との甘くて長い「エンドレスモード(溺愛ルート)」のスタート!



ここまでお読みいただきありがとうございました!

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【裏話:あの後、元婚約者はどうなった?】


ちなみに、読者の皆様も誰も存在すら覚えていないと思いますが、会場に取り残された元婚約者のエドワードくん……。


アイリスが走り去った後も「逃亡した! 罪を認めた!」と散々喚き散らしていましたが、あまりの騒ぎに国王陛下(お父様)が降臨。


その場で再調査が行われ、アイリスへの冤罪(教典隠し)が「全部王子の自作自演だった」ことが、会場の防犯魔道具の記録から露見しました。ヒロインちゃん(ゲーム内での)と浮気して、その魔性の魅力にコロリとやられちゃって……。本気にしちゃったんですね。

それで、アイリスはもう要らないと。自分の浮気で自分が悪者にならないよう、アイリスにショボい罪を着せ、浮気相手に鞍替えしようとしたんです。浅はかですね……。


しかし、その場で廃嫡を言い渡され、今は地方の修道院で、毎日「反省文を書くRTA」を強いられているそうです。

自業自得ですね……。

本編の方でこの結末を書かなかった理由としては、彼があの二人の世界に入る余地なんて、1ミリも残されていなかったからです……。アイリスはもうエドワードくんの名前も顔も1ミリも覚えてません……。

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まだまだ書き溜めてあるストックございますので


しばらくは毎日短編投稿いたします!時間は12時頃の予定です!

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「面白かった!」「また読みたい!」と思っていただけたら、

下にある【★★★★★】評価やブックマークで応援していただけると、創作意欲が爆発します!

★評価は『星1つ』からでも、とても嬉しいです!泣いて喜びます!


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【スカッとしたい方へ】

『その聖水、ただの麻薬ですよね?』

https://ncode.syosetu.com/n7575lo/


【笑ってキュンとしたい方へ】

『冷徹公爵様の心の声 (テロップ)がピンク色で大暴走している件について』

https://ncode.syosetu.com/n8515lo/


【とろとろに甘やかされたい方へ】

『触れるもの全てを殺す『死神公爵』様、なぜか私だけ触れても平気なようです』

https://ncode.syosetu.com/n7783lo/


他にも短編がございますので、作者マイページよりお好みにあったものを見つけてみてください!

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