凡人な子爵家次男、妾腹の侯爵令嬢を手入れした結果「褒美は彼との結婚で」と国王の前で言われる話
連載している身でどうしても執筆が進まず、短編のイメージばかり湧くので衝動で書き上げました。反省はしてないです!後悔はしそうですが…。
人は、自分のことをいちばん分かっていない──なんて言うけれど。
少なくとも俺は、そこそこ分かっているほうだと思う。
俺の名前はリオン・アルベール。アルベール子爵家の次男坊だ。次男、という立ち位置は実に気楽だ。家督は兄が継ぐ。政略結婚も、まずは兄にお鉢が回る。俺に求められているのは、ほどほどの成績と、ほどほどの社交性と、ほどよい忠誠心。
突出した武勇も、天才的な魔法の才もない。打たれようが叩かれようが我を通せるだけの"特殊性"も、残念ながら持ち合わせていない。ただ、一般より少しだけ恵まれた環境と、少しだけ優れた適応力がある。
場の空気を読むのは得意だし、上に逆らうつもりもない。向けられた期待の範囲内で、それなりに結果を出し、無難に評価される。そうして組織の中で優等生として生きていく──それが、今のところの俺の人生設計だった。
たぶん、そういう人間はどこにでもいる。優劣はあっても。
だからこそ、俺は自分を"凡人"と呼ぶのに抵抗はない。ただ、自分の凡庸さをちゃんと自覚している分、少しマシだと思っているだけだ。
そんな俺の、他の人たちと違うところを挙げるならば、一つ。色眼鏡を通して人を見ないことだ。
家柄、成績、噂話。そういったラベルを参考にはするが、それで人間をまるごと決めてしまうのは、どうにも性に合わない。良くも悪くも達観している、と言われたことがある。
人は案外、どうしようもないし。案外、思っているよりマシでもある。
だから俺は、人物や物事に対してフラットに対応する。そして、結果として、なぜかはみ出し者に好かれやすい。
問題児、劣等生、変わり者。そういう連中が、いつの間にか俺の周りに集まっていることが多い。
……そんな自覚が芽生えたのは、この王立学院に入ってからだ。
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彼女のことを、最初に意識したのは、入学してすぐの頃だった。
俺の右隣の席に座っていた少女。乱れた髪を無造作に縛り、制服の着こなしもどこかだらしない。猫背気味で俯きがち、教科書の端は折れていて、筆記具は安物。
ただ、その横顔の輪郭と、薄く伏せられた睫毛の長さだけが、妙に目を引いた。
名簿で名前は知っていた。彼女はセレスティア・ヴァーレン。宮廷貴族名門と呼び名高いヴァーレン侯爵家の末娘。
侯爵家の令嬢にしては、あまりにも生活感のある所作。貴族令嬢たちの輪にも入らず、昼休みはいつも一人で本を読んでいる。
「妾腹らしいわよ」
そんな噂話を耳にしたのは、入学三日目のことだ。
「正妻様に嫌われてて、家の中でも浮いてるんですって」
「だからあの格好? やだ、見てるだけでこっちが恥ずかしいわ」
そう囁き合う令嬢たちを横目に、俺はなんとなく彼女を見た。彼女は教科書の端を指でなぞりながら、遠いところを見ているような目をしていた。
ああ、多分、あまりいい扱いを受けてこなかったのだろうな……と、そこだけは妙に納得した。
ただ、それだけの存在だった。少なくとも、その時までは。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「おい、待てよ、汚ねえんだよお前」
それを聞いたのは、雨上がりの中庭だった。
薄曇りの空の下、水たまりが残る石畳の中央で、数人の男子生徒が輪になっている。嫌な予感しかしない構図だったので、とりあえず近づいてみれば…案の定。
輪の中心に、セレスティアが立っていた。
長い黒髪はいつもよりぐしゃぐしゃで、制服の裾には泥が跳ねている。足元には、わざと蹴り落とされたのだろう、教科書とノートが泥水に浸かっていた。
「拾えよ、ほら。どうせ汚ねえんだし、気にならねえだろ?」
「侯爵家様なんだろ? そんな格好でよく言えるよなぁ」
性格の悪そうな笑い声が弾ける。見覚えのある顔だ。三年の伯爵家三男坊と、その取り巻き連中。
貴族として家督を継がない同じ気楽な立場でありながら、権勢に取り憑かれ、強者に媚び諂い、弱者をいびり倒す道に走った、相容れない哀れな奴らだ。
セレスティアは無言で俯いている。震えているのは、怒りか、恐怖か、それとも両方か。
……ため息が出た。
関わらないのが一番だ、という思考と、まぁ見過ごすのも寝覚めが悪い、という思考が、頭の中で静かに綱引きをする。
そして、俺は我ながらお人好しだと思いながら、輪の中に踏み込んだ。
「…あまり感心しないな。」
背後から声を掛ける。
連中は振り向き、鬱陶しそうな視線を向けてきた。
「なんだ?お前は…二年のアルベールか。下級生が何の用だよ。」
ネクタイの色と胸のバッジで、連中は俺が只の下級生だとわかると、態度を改めることなく俺のことを取り囲み始める。
「授業用の教本を泥水に浸けるのは感心しないなと言ったんだ。こんなところ、鬼のレグルス先生に見つかったら、お前ら、タダじゃ済まないぞ。」
淡々と言うと、ソイツは一瞬言葉に詰まり、それから鼻で笑った。
「はっ。別にいいだろ。こいつのだぞ? 誰も困らねえよ。」
「困る。担任が、だ」
俺は肩をすくめた。
「学園は秩序と成績を重んじる。教材を大事にしない生徒は、それだけで減点対象だ。…今ここにいる全員の顔と名前、俺は覚えておくよ。」
取り巻きの一人が、小さく息を呑む。
「ま、待てよアルベール。冗談だってば。別に本気でいじめてるわけじゃねえよ。」
「そうそう。ただの、ほら、からかいってやつだ。」
「そうか。」
俺は頷き、セレスティアの足元にしゃがみ込む。
泥水に浸かった本を拾い上げ、ぱんぱんと軽く水気を払った。
「からかいにしちゃ、教材への扱いが少々雑だ。……次は気を付けろよ。俺も、学園に余計な報告はしたくない。」
そう言って、本をセレスティアに手渡す。
彼女は驚いたように俺を見上げていた。
瞳は、思っていたよりもずっと澄んでいた。
「い、いえ……そんな……」
か細い声が漏れる。
連中は舌打ちをして、去っていった。
残されたのは、俺とセレスティアと、水たまりだけ。
「……立てるか?」
手を差し出すと、彼女は一瞬ためらってから、その手をそっと取った。
軽い。思っていたよりも、ずっと。
「ありがとう、ございます……」
「別に。泥水は嫌だろ」
それしか言えなかった。
だが、その日を境に、彼女はときどき、隣席で俺に話しかけてくるようになった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「君さ」
翌週、授業の合間の小休憩。俺はセレスティアの横顔を見ながら、ふと思った疑問を口にした。
「その髪、ほどいたらどうなる?」
「えっ」
長い黒髪を、彼女は無造作に紐で括っている。ぼさぼさで、ところどころ跳ねていて、そのまま寝癖ですと言われても信じるレベルだ。
だが、額の形や首筋のラインからして、整えれば相当映えるはずだと、俺の眼が告げていた。
「い、いや、その……これしか、やり方が分からなくて」
「じゃあ、試してみるか?」
「え?」
「髪、整えてみよう。ついでに制服も。……もったいない。」
最後の一言は、完全に俺の本音だった。
セレスティアは目を瞬かせ、それから小さく首を横に振る。
「わ、わたしなんて、どうせ……」
「ほら、それだ」
「え?」
「どうせ、ってやつ。君、自分のこと、かなり低く見積もってるだろ」
じっと見ると、彼女は視線を彷徨わせた。
妾腹で、家族に愛されずに育った。そんな噂を裏付けるように、彼女の仕草には"自分を小さく見せる"癖が染みついていた。
身長を低く見せるような猫背。
相手を見ないよう目を背ける態度。
ボタンを一つ外したままにして、だらしなく見せる服装。
……その全てが、俺には"防御"に見えた。
「君は、目立ちたくないんだろう? それで、こんな格好をしてる。」
彼女はびくりと肩を震わせる。
「どうして、そう思うんですか……?」
「家柄の割に、安物のペンを使ってる。靴も磨いてない。でも、教科書のページは端だけが折れてて、書き込みは丁寧だ。成績は中の上。ちゃんと勉強してる。」
俺は淡々と指を折っていく。
「努力はしてる。けど、あえて評価されにくいところを選んでる。……目立ちたくないのに、実はきちんとやってる人間の特徴だ。」
セレスティアは、しばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。
「……目立つと、ろくなことがないので。」
「ああ。だろうな。」
貴族の家は、よくも悪くも"他人の目"で動く。
妾腹の末女が目立てば、正妻筋の誰かの機嫌を損ねる。その結果が嫌がらせと冷遇であることくらい、想像に難くない。
「でもな」
俺は少しだけ身を乗り出す。
「君は、素材がいい。これは事実だ。俺はそこそこ人を見る目がある。だから…、手入れしたくなる。」
「……ていれ?」
「そう。髪を整えて、制服をきちんと着て、姿勢を正す。それだけで、君は多分、並の令嬢を軽く上回る。」
「や、やめて。わたしを、からかっても……」
「からかってないさ。俺は、淑女をからかうほど軽薄な人間じゃない。」
俺は笑った。
「勉強も、ダンスも、魔法も。君はきっと、やればできる。ただ、自分を信じる訓練をしてこなかっただけだ。」
「…………」
「よかったら、一緒にやってみる?」
それは衝動に近い提案だった。
でも、俺の中で、それなりに確信があった。この少女は、きっと伸びる。伸びたら、きっと楽しい。俺が。
セレスティアは、唇を噛んだ。そして、おそるおそる、こくりと頷いた。
「……リオンさんさえ、よければ。」
その瞬間、彼女の運命が変わるとは、このときの俺は思っていなかった。
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最初に手を付けたのは、外見だった。
「まず、鏡を見ろ。」
「毎朝、見てますけど……」
「ちゃんと、見るんだよ。」
女子寮の一室を借り、鏡の前にセレスティアを立たせる。乱れた髪を一度ほどき、櫛を通す。
驚くほど素直な黒髪だった。少し手を入れるだけで、艶が出る。
「目の下の隈は、少し寝れば消える。姿勢は、意識すれば治る。」
肩に手を置き、そっと背筋を伸ばさせる。
「……どう、でしょう?」
「自分で見てみろ。」
セレスティアは、おそるおそる鏡を覗き込み──固まった。
「……わたし、じゃないみたい。」
「いいや、これが本来の君だ。」
制服のボタンをすべて留め、リボンをきちんと結ぶ。最低限の整えただけの姿だが、それでも十分に目を引く。
大きな瞳。通った鼻筋。頬の線も、顎の形も、申し分ない。
「隠しているのが、実にもったいない。」
思わず漏れた言葉に、セレスティアは耳まで赤く染めた。
「……こんなふうになったら、また……」
「目立って、叩かれるかもしれない?」
「……はい。」
「なら、叩かれたとき、どうするかを一緒に考えればいい。」
俺は軽く笑ってみせる。
「目立つのが怖いなら、目立つことを恐れなくなるくらい強くなればいい。……幸い、君には才能がある。」
「さ、才能なんて──」
「あると言ってるだろ。」
ぴしゃりと言い切ると、彼女は困ったように笑った。
その笑顔は、なぜか胸に残った。
次に取り組んだのは、勉学と魔法、そしてダンスだった。
勉学は、正直なところ、俺より彼女のほうが筋が良かった。
理解が早い。教本の意図を正しく読み取り、自分の言葉で言い換えられる。
問題は、そこまでやっておきながら"自分はできない"と思い込んでいること。
「この問題の答えは?」
「……たぶん、五十二、だと思います。」
「正解だ。」
「えっ」
「なんでそんなに驚く。」
「い、いえ……当たるとは。」
「毎回当たるなら、それはもう実力だ。自信を持て。」
そう言って何度も問題を解かせるうちに、彼女の答案用紙は、自然と満点に近づいていった。
魔法は、座学得意で実技苦手…という典型的なパターンだった。
「頭で理解できるなら、あとは型の問題だ。」
俺は、学院に伝わる古い魔法教本をいくつか持ち寄り、共通部分を抜き出す。
「ここ。『魔力の流し方』の説明が、全部ちょっとずつ違うけど、言いたいことは同じだ。」
「え……」
「要するに、『意識の焦点を一カ所に集めながら、呼吸と合わせて魔力を循環させる』ってだけだ。もっとシンプルに書けるのにな」
自分でも呆れながらまとめていくと、セレスティアの目が輝き始めた。
「それなら……ここと、ここも、同じことを言っているのでは?」
「そうそう。……君、こういう整理が得意だな。」
「そ、そうでしょうか。」
彼女は遠慮がちに笑う。
実技に関しても、一度コツを掴むと、伸び方がおかし…凄まじかった。小さな火球から始めた練習は、一ヶ月後には、学院基準で中級に分類される魔法を安定して撃てるようになっていた。
ダンスは……最初は壊滅的だった。
「無理です……足が……!」
「落ち着け。リズムを感じろ!」
学院の舞踏室で、俺はセレスティアの手を取りながら苦笑する。だが、これも二週間もすれば、人前で踊れるレベルまで持っていけた。
覚えが、異常に早い。やはり、この子は天才だ。…羨ましいというか嫉妬するレベルだが、それ以上に業腹なのはこの子の無自覚っぷりだった。
だから俺は、彼女が才能豊かである事実を突き付け続けた。
「君は、できる。」
「できているのに、"できない"と言うのは、実にもったいない。」
「自分を卑下するのはやめろ。」
セレスティアは最初、戸惑っていた。だが、日々、成果が目に見える形で積み上がっていくにつれ──少しずつ、表情が明るくなっていった。
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そして、学院の季節舞踏会の日。
セレスティアは、世界を変えた。
「だ、誰……あれ……?」
会場の入り口で、ざわめきが起きる。視線の先には、深い群青色のドレスに身を包んだ一人の少女。
長い黒髪は丁寧に結い上げられ、光を含んで艶めいている。背筋はすっと伸び、歩くたびにスカートの裾が優雅に揺れた。
膝を少し曲げて挨拶する姿は、教本に載せたいほど完璧だ。
「ヴァーレン家の……末女、だよな……?」
「嘘でしょ。いつものあの子?」
「なに、それ……あんなに綺麗だったの?」
囁き合う声が、彼女の周囲に渦巻く。
セレスティアはその中心で、ほんの少しだけ不安そうに俺のほうを見た。俺は目で「大丈夫」と伝える。
音楽が流れる。俺は、彼女に手を差し出した。
「お手を、セレスティア嬢」
セレスティアは一瞬だけ照れた顔をして──それから、しっかりと俺の手を取った。
一曲踊り終える頃には、彼女の周囲には、すでに数人の男子が待機していた。
「次の曲は、ぜひ私と」
「いや、私が──」
争奪戦だ。
あれだけ避けられていた少女が、いまや誰もが目を奪われる存在になっている。
俺は一歩引き、壁際からその光景を眺めていた。
悪くない。
いや、正直に言うと、ちょっとだけ複雑だったが……まぁ、それは胸の奥にしまっておこう。
その日を境に、セレスティアの名声は爆発的に高まった。
成績は常に上位。魔法実技でも頭角を現し、先生たちからも注目される。
妾腹だとか、みすぼらしいだとか言っていた連中は、手のひらを返した。
「もしかして、前から頭が良かったのか?」
「さすが侯爵家。隠し玉を持っていたわけだ」
「はは、前は冗談でからかってただけさ。なぁ?」
彼女の周りには、人が集まるようになった。
一方で、俺の周りの空気は、徐々に変質していく。
「なんだよ、あいつ。セレスティア様の隣に座ってただけじゃねえか。」
「改造計画とか、騒いでたらしいぞ? 本人が優秀だから伸びただけだろ。」
「いいよなぁ。適当に口を出して、『僕が育てました』みたいな顔してさ。」
やっかみ。嫉妬。そういったものが、静かに積もっていく。
俺は、別に"育てた"つもりはなかった。ただ、"もったいない"から、少し背中を押しただけだ。
……だが、周りはそんなふうには見てくれないらしい。
嫌がらせは、最初は小さかった。
ノートが消える。
図書室で借りた本に、いつの間にか汚れが付いている。
掲示板に貼られた成績表から、俺の名前だけが剥がされている。
それくらいなら、気にしなかった。
もともと俺は「好かれたい」とか「評価されたい」とか、そこまで強く思っていない。
ただ、セレスティアの負担にだけはなってほしくなかった。
だから、彼女には一切言わなかった。俺と彼女の距離は、少しずつ、離れていった。彼女の周りにはいつも誰かがいて、俺はそこに加わる理由を見つけられなかった。セレスティアも忙しくなり、改造計画は、自然解散のような流れになった。
それでいい。俺の役目は、終わったのだろう──と、思っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……どうして、教えてくれなかったの?」
その声が、寮の裏手の中庭で飛んできたのは、そんなある日のことだった。
振り向けば、そこにセレスティアが立っていた。以前とは比べものにならないほど堂々とした姿勢。だが、瞳の奥には、怒りとも悲しみともつかない色が宿っている。
「何を?」
とぼけてみせると、彼女は一歩、近づいてきた。
「あなたへの嫌がらせのことよ。」
心臓が、一瞬止まりかけた。
「……ああ。あれか。大したことじゃない。」
「大したことじゃない、なわけ無いわよ!」
セレスティアが声を荒げたのは、…初めて見た。
「ノートを破られたり、授業の邪魔をされたり、陰口を叩かれたり。全部、わたしのせいでしょう?」
「違う。それは、俺が上手く立ち回れていないだけだ。」
「いいえ。違わないわ。」
彼女は強い口調で言い切る。
「わたしが急に目立つようになって、あなたの名前が一緒に出るようになって……。それで、あなたのことを妬んだ人たちが、くだらないことをしてる。」
「まあ、そうだろうな。」
否定はしなかった。
セレスティアの拳が震えている。彼女の魔力が、怒りとともに揺らいでいるのが分かった。
「どうして黙っていたの?」
「君に、関係ないからだ。」
「関係、あるわよ!」
涙が滲んだ瞳で、彼女は叫ぶ。
「わたしに、自分の価値を教えてくれたのは"あなた"よ。わたしをここまで連れてきてくれたのも、"あなた"。そんな"あなた"が傷つけられていて、わたしが関係ないなんて、そんなわけないでしょ!」
「……セレス」
思わず、名前を呼んでしまう。
彼女はきっと歯を食いしばった。
「わたし、全部、知ったのよ。誰が何をしていたのか。あなたのノートを破ったのは誰か。先生に嘘の噂を流したのは誰か。」
「調べたのか。」
「当たり前でしょう。……わたしを誰だと思っているの?」
そこには、もう昔のような卑屈さはなかった。
代わりに、研ぎ澄まされた知性と、烈火のような怒りがあった。
「全部、潰してくる。」
低い声でセレスティアが言う。
「家の力も、学院の規則も、全部使って。あなたにくだらないことをした連中を、一人残らず理解らせてやるわ。」
ゾクリとした。
それは、まるで"魔王"のような宣言だった。
だが、その矛先は、他人に向けられた憎悪ではない。理不尽に傷付けられた誰かを守るための、鋭い正義感だった。
「待て!」
俺は、慌てて手を伸ばした。
「やめろ。そこまでしなくていい!」
「よくないわ!」
セレスティアは即座に言い返す。
「ここで黙っていたら、彼らは『やってもいい』と思う。あなたを傷つけることを、『仕方ない』って笑って済ます。わたし、それが一番嫌なの!」
「セレス…」
「あなたは自分のことを、ただの凡人だと思っているかもしれない。でも、わたしにとっては違うの。わたしの世界を変えた人よ。わたしに、『わたしは価値がある』って教えてくれた人。」
淡々と語るその声に、胸の奥が熱くなる。
「そんな人を、泣き寝入りさせるなんて、絶対に嫌!」
「……俺は、別に泣いてないけど」
「心の話よ。」
セレスティアは、少しだけ笑った。その笑みには、どこか危うい光も宿っている。
「だから、止めないで」
「…いや、止める。」
「…どうして?」
「俺が嫌だからだ。」
セレスティアが目を見開く。
「君が、そんなことで時間と労力を使うのが。君には、もっとやるべきことがある。」
「やるべき、こと……?」
「君なら、もっと大きなものを変えられる。」
自分でも何を言っているのか分からなかった。だが、言葉は止まらない。
「君の頭の良さと、魔法の才能と、根に持つ力を持ってすれば──」
「最後のは余計ね?」
「学院でちまちま報復するより、もっと建設的なことに使ったほうがいい。」
セレスティアは黙り込み、それから、ふっと目を細めた。
「……分かったわ。」
「止めてくれるのか?」
「ええ。"ちまちま"は、やめる。」
ほっと息をつく俺に、彼女は続けた。
「代わりに──もっと大きく、引き離してやるわ。」
「は?」
「同年代なんて、見上げることしかできないくらい。あなたに教えてもらった全てで、誰も手出しできないところまで行く。」
ぞくりとするほど冷たい笑みだった。
「格の差を理解させてから、自分のしたいように動くわ。」
「…ちょっと待て、俺の話を聞いてた?」
「ええ。とっても参考になったわ。」
嫌な予感しかしなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それからのセレスティアは、まるで才気が火花のように弾け、もう誰にも止められなかった。
勉学は全科目首席。魔法は、既存の教本を片っ端から読み漁ったうえで、「使いやすくまとめ直す」という離れ業に取り組み始めた。
「この国の魔法教育、酷すぎるわ。」
「急に国単位の話?」
「同じことを、わざと難しい言葉で書いて、分かりにくくしてる。これ、貴族の利権と結びついてるわね。『魔法は一部の才能ある貴族だけのもの』っていう、あれ。」
彼女は山積みの書物を前に、冷静に分析していた。
「だったら、その前提をぶち壊す。誰でも使えるように、体系化し直す。」
「そんなことしたら、貴族が黙ってないぞ。」
「だからこそ、やる価値があるわ!」
彼女はさらりと言ってのける。
同世代との距離は、あっという間に開いた。気が付けば、誰も彼女と同じ卓で議論できる学生はいなくなっていた。
彼女を狙っていた公爵家の次男や伯爵家の嫡男とかは、最初こそ熱烈にアプローチしていたが…。
「セレスティア嬢、ぜひ我が家と縁を──」
「あなたの家は、魔法師団にどれだけ古い教本を押し付けているのかしら?」
「え?」
「利権と古い慣習で、どれだけ国の足を引っ張ってきたのか。──その数字を出してから、話しかけてくださる?」
「…………」
完膚なきまでに論破され、退場した。
「セレスティア嬢、あなたほどの才があれば、わたくしの家の──」
「あなたの家は、妾腹の子どもをどう扱うの?」
「えっ……」
「わたしのような立場の人間に、席を用意してくれるのかしら。それとも、『存在しなかったこと』にする?」
「そ、それは……」
「答えられないなら、わたしにふさわしくないわね。」
伯爵家嫡男も、似たような形で沈黙させられた。
同世代の男子たちは、次第に彼女から距離を取るようになった。近づこうとして、すべて返り討ちにされるのだから、仕方ない。
その代わり──彼女の視線は、いつも、俺のほうを向いていた。
授業の合間。
廊下の角。
図書室の窓辺。
ふとした瞬間に、目が合う。
そのたびに、彼女は満足げに微笑んだ。
…どうにも、外堀を埋められているような、周りを固められているような気がする。
彼女の目には俺しか写ってない気がする。
たぶん、間違いない。
俺は暖かな日差しの中で、身震いした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そして、決定的な日が来る。
国家魔法研究院主催の学術発表会。
セレスティアはそこで、「魔法体系大全」という論文を発表した。それは基本魔法の体系を刷新した、世界を震撼させる文書だった。
難解だった既存の教本をすべて読み解き、「共通する本質」を抜き出し、誰でも学べるように整理した、新しい教本。
デモンストレーションとして、魔力の少ない平民出身の学生に簡易魔法を習得させてみせたとき──会場は、どよめきから静寂へと変わった。
「こんなにも、簡単に……?」
「馬鹿な。魔法は選ばれた血筋のものでは……」
「いや、理論的に見れば、これは……」
重鎮たちが顔を見合わせる。
やがて、壇上に立った王が、ゆっくりと口を開いた。
「セレスティア・ヴァーレン。そなたの功績は、王国にとって計り知れぬ価値がある。よってここに、そなたに国家名誉賞を授ける。」
王冠と同じ紋章が刻まれた勲章が、彼女の胸元に掲げられた。
盛大な拍手。その中で、セレスティアは少しだけ俺のほうを見て、微笑んだ。
表彰式の後、王から下問があった。
「望む褒美があれば、申してみよ。」
誰もが息を呑む中、セレスティアは一歩前に出る。
「では、二つ、お願いがございます。」
「申してみよ。」
「一つ。わたしとヴァーレン侯爵家との、法的な親子関係の解消を。」
ざわめきが走る。
「妾腹として生まれ、愛されることなく育ちました。今回の功績に、侯爵家は一切関わっておりません。……ですので、これを機に、きっぱりと縁を切りたいのです。」
「セレスティア!」
侯爵が叫ぶ声が聞こえたが、彼女は振り返らなかった。
「二つ目。わたしの将来の結婚について、周りの意向ではなく、わたし自身の意思を優先する旨を、王命として認めていただきたい。」
王は目を細め、それから、愉快そうに笑った。
「面白いことを言う。よかろう。その二つ、余が認める。」
「ありがとうございます。」
静かな答礼。
だが、この瞬間、ヴァーレン侯爵家は、国中の笑い者になることが確定した。
妾腹の末女を冷遇し、才能を潰しかけた挙げ句、その娘が国の魔法体系を刷新し、家との縁を切って独立した。
その話は、瞬く間に広がっていく。
侯爵家の権威は失墜し、政敵たちに好き放題突かれるようになったと聞く。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
数日後。学院にて。
いつもの教室のドアを開けた瞬間、視界いっぱいに、黒髪が飛び込んできた。
「リオン!」
セレスティアが、勢いよく抱きついてきた。
いや、ちょっと待て。人前だ。
「お、おい、セレス。ここ教室──ぐえ」
「やっと、自由になったわ!」
彼女は上機嫌だった。
「王命で、結婚は自由。実家とは縁切ったし。つまり、わたしの将来は、わたしが決めていいってことよね!」
「ああ。そうだな」
「じゃあ、決まり!」
「何が?」
「結婚相手。」
セレスティアは、どこか誇らしげに胸を張る。
「リオン。わたしと結婚して?」
「はあっ!?」
教室中の視線が一斉にこちらを向いた。
やめてくれ。
「ちょ、ちょっと待て。いきなり何を──」
「いきなり、じゃないわ。」
セレスティアは、真剣な目で俺を見つめる。
「"あなた"が、わたしの価値を教えてくれた。"あなた"が、わたしに立ち上がる力をくれた。わたしがここまで来られたのは、"あなた"のおかげ。」
「それは、君自身の──」
「謙遜はあとで聞くわ。」
ぴしゃりと遮られた。
「わたしは、"あなた"がいいの。派手な才能はないかもしれない。でも、人をフラットに受け止めてくれる。必要に応じて親身に対応してくれる。それが、どれだけ稀有な事か分かってる?」
「…………」
「わたしにはもう、"家格"も、"血筋"も関係ない。王命で、自由結婚が認められた。だったら、あとはあなたを口説き落とすだけ。」
怖い宣言が飛び出した。
「ま、待て。俺は、たかが子爵家の次男坊だぞ。君は名誉賞持ちで、王国随一の魔法理論家で、元とはいえ侯爵家の令嬢だぞ。……身分も何もかもが釣り合わない。」
「そうね。」
あっさり認められた。
「だからこそ、わたしは身軽になったわけなんだけれども?」
「は?」
「名誉賞?箔として十分ね。理論家?学者っぽくて格好いいかしら?侯爵家令嬢?実家とは縁切ったし。今のわたしは、貴族籍無しの一個人。……アルベール子爵家の次男に嫁ぐには、ちょうどいいでしょ?」
「…そういうものか?」
「そういうものよ」
なんという力技。
「それに──」
セレスティアは、いたずらっぽく笑った。
「あなたの領地、伸びしろが多そうだから」
「俺じゃなくて、領地目当てか?」
「あなたがいて、わたしがいる領地よ。繁栄させるの、楽しそうじゃない?」
言い合っていると、突然、割って入る声があった。
「待っていただきたい!」
振り向けば、公爵家次男と伯爵家嫡男が、なぜか揃って立っていた。
「セレスティア嬢! どうしてあんな凡庸な子爵家次男なんかと──」
「ああ?」
セレスティアが、氷点下の視線を向ける。
「凡庸ね。その『凡庸さ』で、どれだけの人が救われているか、あなたに分かる?」
「な、何を──」
「あなたたちは、人を『使えるかどうか』でしか見ていない。わたしのことも、魔法体系のことも、ぜんぶ『家の利』でしか測らない」
セレスティアの声は、静かだった。
「でも、リオンは違った。わたしを、最初から『一人の人間』として見てくれた。家柄でも、噂でもなく。妾腹でも、落ちこぼれでもなく。」
「…………」
「あなたたちの隣にいても、わたしは、また『素材』か『駒』に戻るだけ。だからお断り。──それとも、わたしより先に、あなたたち自身を変えるつもりがあるの?」
公爵家次男と伯爵家嫡男は、何も言えなかった。
教室の空気が、完全にセレスティアのものになっていた。
結局、二人は何も言い返せず、しょんぼりと退散していった。
「……見たかしら?」
セレスティアは満足げに笑う。
「これで、わたしを狙う同世代の男共は、ほぼ排除完了♪」
「物騒な言い方をするな。」
「事実よ。」
俺は頭を抱えたくなった。
「……リオン」
不意に、柔らかい声で名前を呼ばれる。
顔を上げると、セレスティアが、真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「あなたは、自分のことを"凡人"だと思っているかもしれない。でも、わたしの人生にとっては、あなたこそが"特別"なの」
胸の奥が、痛いくらいに熱くなる。
「わたしを、一人の人間として見てくれた。わたしが"わたし"を好きになるきっかけをくれた。そんな人は、世界に一人しかいない。」
「…………」
「ねぇ、リオン。わたしと、一緒に生きてくれない?」
それは、これ以上ないほど、まっすぐな求婚だった。
俺は、しばらく黙り──そして、観念したように笑った。
「……勝てる気がしないな。」
「最初から、勝たせるつもりなんてないもの。」
「性格悪いな。」
「そうかしら?」
セレスティアは楽しそうに笑う。
「でも、あなたが隣にいれば、わたしはきっと、悪いほうには転ばないわ。」
その言葉に、また胸が熱くなる。
「……分かった。そんなに言うなら、君からの求婚を受けよう。」
「やった!」
セレスティアは、子どものように顔を輝かせた。
その笑顔を見た瞬間、俺は悟った。
──ああ、俺はもう、とうの昔に負けていたのだ、と。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それから先のことを、簡単にまとめると。
俺は子爵家を継ぐ兄の補佐として領地経営に携わり、セレスティアは魔法体系の改革者として、国内外から引っ張りだこになった。
新しい教本は平民にまで広く行き渡り、魔法師の裾野は一気に広がった。その結果、俺たちの領地も、他の地方も、確かに豊かになっていった。
セレスティアはときどき、危なっかしい提案をする。既得権益をぶっ壊しにかかるたび、敵も増える。
そのたびに、俺は場の空気を読み、落とし所を探す。彼女の才覚と、俺の凡庸な対応力が、妙に噛み合っていた。
子どもにも恵まれた。
上の娘はセレスティアに似て頭が良く、下の息子は俺に似て、やたらと要領がいい。
晩年、孫たちに囲まれながら、セレスティアがふと、懐かしそうに言った。
「ねぇ、覚えてる? 最初にあなたが言ってくれた言葉。」
「どれだ?結構しゃべったぞ?」
「『もったいない』って、あれ。」
「ああ」
ずいぶん昔のことだ。
乱れた髪で、小さく縮こまっていた少女。目立たないように、自分を押し殺していた侯爵家末女。
「あの一言で、わたしの世界は変わったの」
セレスティアは、皺の刻まれた目尻を優しく細める。
「あなたは、ずっと自分のことを"凡人"だって言うけど。わたしにとっては、最初から最後まで、"特別な人"よ。」
「……それは、こそばゆいな。」
「でも、事実だもの。」
孫たちが庭で騒ぐ声を聞きながら、俺は目を閉じた。
自分のことなんて、結局、最後までよく分からなかった。
ただ一つ、確かなのは。
あのとき、あの中庭で。泥水に浸かった教科書を拾い上げて、手を差し伸べたことだけは──。
どうやら、人生でいちばん「分かっていた」選択だったらしい、ということだ。
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