心の距離
「仲間になってくれないか」とアシュリーンと名乗る女は言った。
白銀月の雪の降る中で、凍りかけた川に人が流れてきた。
雪の積もった顔を手で払うと、存外美しい顔が現れた。白い雪の中でオレンジの髪はいっそう映えて見えた。ただでさえ白い顔は真っ青になって、息も絶え絶えにかすかに呼吸をし、川の中に長いこと浸かっていたのか震えすらしていなかった。
そして突然のことだが、目を覚ました彼女は俺の助けを必要としている。
「アシュリーン、お前は疲れている。今日のところはもう寝ろ」
そう言うと、女は食い気味に大声で喚いた。「疲れてなどいない!」「本当なんだ」「私のことを変なやつと思っているのか!?」とか、終わりの方は半ば絶叫のようで、何を言っているか分からなかった。
俺にこの話をする前に余程酷い断られ方をしたのか、神経質なまでに反応する。
「分かった、分かった」
なだめて窘めると、アシュリーンは俯いたまま固まってしまった。
「私は、私は」とぶつぶつ言っている。
どうしたものか迷っていると、大きな腹の虫が鳴った。俺ではなく、女の方だ。
気が抜けて、ふ、と小さな笑いが出た。アシュリーンはそれでも俯いたままで、強情なやつだと少し呆れた。
俺は鍋にあった夕飯の余りのリゾットをすくい、皿に注いだ。次いで雑穀パンを数切れ、干し肉をひとかけら、別の皿に盛り付けた。アシュリーンの俯く寝台の横に机を持っていき、皿を置く。水差しの水もまた並々に戻す。
「アシュリーン、顔を上げろ」
そう言うとアシュリーンは顔を上げた。川辺で見つけた時よりも血色の良い顔は、目の端が赤かった。またぐうと腹の虫が鳴った。
目が見つめあっている。
「お前の考えをバカにした訳では決してない。ただ、お前は目覚めたばかりだから、まずは体を回復させることを考えろ。ここいらもそろそろ雪に閉ざされて人里へはしばらく降りられなくなる…先を急ぐのでないならば春になるか、せめて体力が回復するまでうちで休んでいけ。その間に話し合う機会もどこかで設けよう」
「……本当か?」
「100ドゥカート賭けてもいい。俺にとっても急なことだし、お前も目覚めたばかりでまとまらない考えもあるだろう」
会話が終わると再び女は沈黙した。しかし先程とは違い、ずっと穏やかな沈黙で、呆然というより、一息ついていると言った方が正しい。
ともかく、落ち着いた彼女はスプーンを手に取ると、リゾットをひとすくいして口へ運んだ。
ほのかに暖かい粗末な麦だけのリゾットが、彼女の心にどう響いたのかは分からないが、涙がひと粒頬を伝って皿の中に滴り落ちた。
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俺は床に藁を敷きそこで寝た。翌日の朝、アシュリーンは太陽が昇りきる前ほどに起きてきた。
俺は内職の手を止め、おはようと声をかける。アシュリーンも少し眠そうな声でおはようと返した。寝崩れた服を整えて、家に引いた川の水で顔を洗い、朝食に黒パンを勧めると美味しそうに食べた。歯磨きの枝を渡すと、これも戸惑いながら噛んだ。いちいちが面白い人間だ。
一通り落ち着いたアシュリーンは寝台の上に腰を下ろし、椅子に座る俺に対面すると、再び感謝の言葉を述べ始めた。命を失うところだったと、まだ体が恐ろしさで震えているのだと彼女は言った。
俺は全く気にしていないこと、滞在中基本的に自由にしていいがもしかしたら雑用を少し手伝ってもらうことがあるかもしれないことなどを話した。
「ちなみに、いつまで滞在していいのだろうか。私は…食い扶持を減らすだけになってしまわないだろうか」
「気にするな。人ひとり増えてもしばらくは食料も薪も蓄えがある。雪に閉ざされる前に出発したいならそうすればいいし、雪解けを待って春まで療養するならそれでもいい」
「ちなみに雪が本格的に積もるのはいつ頃か?」
「例年通りなら、10日中には。だが今年は冷えた込むのが早かったから、明日本降りになっても驚きはしない」
「分かった。なるべくレオ殿に迷惑はかけないようにする。いつ出発になるか分からないが、暫く世話になる」
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しばらくすると、レオ殿は狩りの時間だと言って断りをいれて外へ出かけて行った。
レオ殿は狩人か森人なのだろうか?私は彼のことを全くと言っていいほど知らない。この小屋が彼のものなのかも、一人で暮らしいているのかや、あるいはそもそもここがどこなのかも…。
いずれにしても、暫く共に暮らすレオ殿の事は知っておきたい。彼は見たところ優しそうだし、誠実だ。一応今のところの彼の寸評はそういったところだ。
「それにしても…埃だらけだ……」
部屋の中は埃が舞っている。昨晩も雪明かりと暖炉に照らされていたが、日中の明かりでは余計にそう思える。
私はひとまず昨晩の食器を洗い、その後に部屋を歩き回り、部屋中があまり掃除されていないことを確認すると、元々持っていた布巾を使い部屋中を掃除し始めた。居候の身としてせめてそれくらいはしようと思ったのだ。
まずは机、椅子、棚、作業台、最後に床…家具らしい家具もあまりない家とはいえ、ものの上にはそれなりの汚れや煤や埃が付いている。外にあった氷の張ったバケツを持ってきて、洗って拭き取るを繰り返す。
そしてそのうちに気づく。この部屋の家具は基本的に3つあるのだと。ふたつは大人用。そしてひとつは小さな子供用と思われるもの。そして大抵、子供用の家具は部屋の隅にまとめて置かれ、そのうえで一番埃が積もっていない。
それに、仮にレオ殿が狩人や森の民だとして、その割に本が多い。本は羊皮紙ではあるが、みたところ30冊ほどが棚の中に収納され、どれも日の当たらない日陰にあるように丁寧に管理されている。紙魚避けの薬草まである。
狩人、というより城の外の人で本を読むのは貴族か聖職者か商人、魔法使いくらいのものだ。本が高く、文字も読めないものも少なくないこの世界で、レオ殿はどうやら文字を読むらしい。
もしや、レオ殿は高貴な生まれなのだろうか?
色々なことを考えながら床を拭いていると、本棚脇の隙間から布に包まれたナイフの束が出てきた。埃まみれで包んでいた布はかびていたが、中のナイフはサビも少なく柄も無事だった。ナイフにはJの文字が彫られ、特に小さな1本にはLが刻まれている。玄関先に砥石があったのを思い出し、拭き掃除を終えると私は2日ぶりに外へと出た。
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「…何をしている」
外でナイフを研いでいると、蓑虫のように着込んだレオ殿が帰ってきた。太陽が地平線に半分沈み、空が暗がりかかって、微かに星が滲んでいた。
右手には穴うさぎが2匹。座っていた私は彼を見上げる。
「レオ殿のナイフを研いでいたんだ。私はこう見えて結構うまいのだぞ?」
そう言って既に研ぎ終わったナイフを何本か見せる。レオ殿は白い息を吐きながらしゃがみこみ、ナイフを空にかざして見つめる。
「無くしたと思っていた」
そう言って静かにまた息を吐いた。
レオ殿は悲しいような、なつかしんでいるような、笑っているような目をしている。あのイニシャルのLは恐らくレオ殿のもの。Jの文字のものは…大切な誰かのものなのだろうか……。
「どこにあった?」
「棚の脇の隙間に落ちていた」
レオ殿は目を一瞬見開いて、ふっと鼻でひと笑いした。
「確かに、そこは親父殿がよく物を落としていたな」
呆気にとられていると、レオ殿はおもむろに私の手を取った。手は冬場の水場をやっていたから当然だが、あかぎれが出来、水に濡れた傷口が薄く血で滲んでいた。
「お前の手、あかぎれができてるじゃないか。冬の夕暮れの寒さは体に悪い。手の傷の薬を塗ってやる、中へ入れ」
「だが、まだ研ぎかけで…」
「そんなもの明日でも明後日でも間に合う。さあ、遠慮せずに」
「では明後日までいようかな」と口に出しそうとしてやめた。そういうことを期待して掃除したのではない。人の好意に甘えているようで自分が少し嫌になった。
それでも、善意で始めたナイフ研ぎがレオ殿との心の距離を一歩縮めたように感じた。




