凍った川
────。
どこからか聞こえるその声が女を目覚めさせた。気づけば女は白い世界の中にひとりで立っていた。辺りを見渡しても誰も、何も、地平線すら無く、ひたすらに白が続く世界。
───ぃ。
その声は聞き覚えのない男の声で、声が鮮明に聞こえ始めるにつれて世界が浮かび上がり、見え始める。
女は何人もの人々と食卓を囲んでいる。女はテーブルの脇の方で、リーダー格であろう明るい茶髪の男───目鼻立ちが整っており、瞳は深く安心を与える緑で、伸ばした髪は髪を後ろに束ねている───となにやら話をしている。その中には見知った顔もいれば、覚えの無い者もいる。あるいは、人でない者たち───〝耳の長い者〟〝鉄を打つ者〟〝獣に類する者〟彼らとも同じ食事を食し、他愛もなく話し、笑い合っている。存在しない記憶だが、不思議と心地良い景色だ。
(これは…夢?)
場面は変わって戦場へ。勝敗は分からない。あるいはそもそも戦であったのかも分からない。ただ、幾千の屍の上に居る一人の女に目が惹き付けられる。
肩ほどの長さで風に揺れるオレンジの髪に、見た者を引き込みそうなほどに透き通る琥珀色の瞳。服は血だらけで元の色が何色であったかすら分からない。
───他でもない女自身だった。
女は、たったひとりで屍の上に腰を下ろしていた。
先程のリーダー格の男が死体の山を登り、座り込む女の背後へ立つ。振り返った女は諦めたような、悲しいような、困惑したような顔で男を見た。
女が口を開く。
「私が『───おい』魔『──────い、おい、起きろ』死『起きるんだ』」
何を言っているか聞こうとするが、女を呼ぶ誰かの声がそれを遮る。
おい、起きろ。
次の瞬間、女は、声に魂の手を引き起こされるようにして目覚めた。
───目が覚めて視界に飛び込んできた景色は、採光窓から漏れ出た月明かりに照らされて立ち昇った埃の舞う粗末な小屋の中だった。静かな小屋で、ぱちぱちと燃える暖炉の薪の音がとても大きく聞こえる。窓の外には雪が降っているようだった。
寝汗をびっしょりとかいていたようで、息は少し上がり気味で、体が驚くほど暑く気だるい。喉がかさかさと乾いており痛いくらいにひりつく。
「起きたか」と、声がする。
「お前は2日前の晩に川辺に打ち上げられていたのをたまたま見つけた。俺の家まで運んで寝かせていたところを、さっきから呻き声を上げ始めたから心配したぞ」
声のするほうを見ると、先程の夢に出てきた明るい茶髪の男がいた。聞こえていた声の主も彼の声に間違いない。
薄暗い部屋の中で、彼の持つ斧はぎらぎらと光り輝いていた。手入れをしていたようだが───。ひとまず何か話をしなくてはと、乾いた口で何か発声しようとする。
「ぁ……ヒュッ……ヒュー」
声がかすれて出ない。男はそれを見て水差しを差し出した。器がなかったので、私はちらと男に目をやってから、口をつけて一気に水を飲む。
久しぶりの水だからかむせ返ってしまう。こぼした分をもう一度取り戻そうと、また水差しをぐいと仰ぐ。そうして空になった水差しを脇に置く。
「…その、斧はしまってくれないか。私は君が考えるような怪しい者ではない」
「すまん、そういうつもりはなかったんだが……」
男はそのつもりはないと言いながらも、磨く手をとめない。固唾を飲み込む。女は普段の癖から腰に手をやり、剣の在り処を探るが、手が空を切る。辺りを見ると、ベッドの脇に着ていた皮鎧と外套が几帳面に畳み置かれ、その傍には剣が立てかけられていた。
部屋自体が暗いため、男の顔が不気味に見えていたが───「意外と優しいのかもしれない」と女は思った。
「助けてもらい本当に感謝している。その……」
「レオだ」
「レオ殿。私がうなされている間、『起きろ』と呼びかけてくれたのはそなたか?」
男が訝しむような目でこちらを見る。
「いや、俺は何も言っていない。ただここに座っていただけだ」
「…そうか…ところで、その、また変なことを聞いているのは分かっているが……私たちどこかで会ったことは……?」
「………………ないな」
「……そうか。変なことを聞いてしまい申し訳なかった」
やけに長い間が気にはなったが、お互い面識が無いのは確からしい。声は確かに男のものであったし、その事は気にかかるが、ひとまず命を繋いだ事に女は神に感謝した。
「───ところでだ」
男の声が低くなる。
「お前、俺が斧を持っているとわかった時、腰に手を回して剣を抜く素振りを見せたな。着ていた皮鎧もそうだが、身なりからしてただの市井人という訳でもないだろう」
もとよりほっそりとした彼の目が、それまでとは違い、訝しみ、睨みをきかせた細い目になる。斧を磨く手が止まる。女が体を僅かに震わせ、壁際に背中をじりじりと寄せる。
「お前は何者だ?」
男の生業が何かは分からないが、答えを間違えれば女の命は無いと思わせるような雰囲気が流れる。
「…待て、早まらないでくれ…私は冒険者だ。だから武装をしていたんだ。見ず知らずの他人、まして命の恩人に危害を加えるつもりは全く無い」
女は彼と敵対するつもりはなかった。夢の中とは違い、まだ男も女自身も幼さの残る顔つきではあったが、彼が恐らく彼女の人生にとって重要な存在であることを直感的に感じていた。女はその直感を信じて、自らの命を賭けることにした。
「……名を名乗れ」男が言う。
「私の名はアシュリーン。銅等級冒険者にして、七曜神が一柱・オズナル神の洗礼を受けし者───」
「私はアドバズの迷宮を攻略する仲間を探している」
女は言う。
「その、君が良ければだが、仲間になってはくれないだろうか?」
男は少し黙った後、重い口を開き始めた。




