お題 糸
難しかった……。
電話が鳴る。一件の着信履歴を確認していた時だった。
『久しぶり、元気してた?』
数年ぶりに聞く彼女の声は朗らかで、あの日のことを思い出させる。
「……香奈こそ。仕事帰り?」
『そ。これから一人寂しい夜の晩酌でーす』
電話口越しにカラカラと軽快な音が響く。グラスに入った氷のような音。酒好きなのは相変わらずなようだ。
とっくに別れて縁も切れたと思っていたのに、千種香奈という人はどうも人恋しい生き物らしい。
「楽しそうじゃん」
『本当にそう思ってるー? 独り身の女子が誰ともつるまずお酒に明け暮れる毎日のどこが楽しそうなのさ』
「そういうとこ。ちゃんと趣味のある人生送れてるんなら十分でしょ」
『翔ちゃんさ、趣味さえあれば人生楽しく生きられるって思ってるでしょ。それ間違いだからね? 毎日毎日クソみたいな上司にこき使われて、後輩のフォローもしなきゃなんない私の人生、酒でも飲まなきゃやってらんないわ』
「……ははっ、言えてる」
数年ぶりだと言うのに、彼女の声は変わらず明るくて。変わらず、俺のことを〝翔ちゃん〟と呼んだ。
俺は、香奈のことを大事に出来るほど、優れた人間ではなかった。
たいした趣味もなく、やることと言えば、仕事場と家の往復ばかり。お金はたまる一方だったけど、使い道も特になかった。
香奈と出会ったのも、そんな俺を見かねた同僚によるコンパへの無理矢理な誘いの場でだった。むしろ、そんな機会でさえなければ、会うことなどなかっただろう。
そして、その時の香奈はと言えば。
「ちょ、香奈? 飲みすぎだって! もう! せっかくの機会だってのに台無しじゃない!」
「別に、いいじゃらい、私、好きで来たわけじゃらいしぃー?」
今と変わらず、酒飲みだった。始まる前だってのにもう既に出来上がっていた香奈の姿を見て、俺は。
「……ぷっ。ふふ、あっはは……!」
笑いが堪えられず、吹き出してしまった。ホント、何やってんだって思った。
同僚からはしばかれたし、香奈以外の女性からも距離を置かれたことで、コンパそのものはほぼお通夜みたいなものだった。
その後、飲んだくれた香奈を介抱するように俺は彼女を家まで送り届けた。正直言うと、下心もあった。
「ごめんねぇ、……翔太さん、でしたっけ? あー、もー、いいや。翔ちゃんて呼んでいい?」
あまりにも軽く話すものだから、俺もなんだか気が抜けた。
「なら、俺も香奈って呼んでいいかな」
「いいよぉ」
そんな風にして。俺たちは付き合うことになった。単純なものだ。
だってのに。
付き合ってからすぐに、俺は無茶なことをしたと後悔をした。
水族館に行った。二人だけで旅行に行った。高級なレストランに行った。
それでも、俺は満たされなかった。
元々、趣味人ではない俺には、何かを享受することに対する喜びが、欠けていた。
「翔ちゃん?」
「……ごめん。香奈」
「別れよう」
隣を歩く香奈の声に、耐えきれず逃げ出してしまっていた。
俺の、人生の唯一の後悔だった。
『……翔ちゃん。覚えてる? あの日のこと。別れた日のこと』
「あの時は、本当にごめん」
『謝ってほしい訳じゃなくてね。……ただ、私も、翔ちゃんにちょっと依存してたのかなって』
違う、そんなはずは絶対にない。
ただ俺が憶病だっただけなんだ。
『また会いたいな。今度は、友達で良いからさ。今度は海とか行こうよ。二人でさ』
香奈はそれでも。俺との縁を繋ごうとする。一度切れてしまった糸を、固く結び直そうとする。
「……そんな資格、俺にはもう……」
『翔ちゃん』
香奈が俺を呼ぶ。ヒビになりそうな俺の心にメスを入れるように。
『私が、また会いたいの。勝手に会いに行きたいの。一度でいいから』
そう言う香奈の声は、震えているようだった。
「……」
『寂しいんだよ。私、自分で思ってるより翔ちゃんが好きだったみたい。バカみたいかな、でも止められない』
電話越しなのに、泣いている顔が見えた気がした。鼻をすするような音も聞こえないのに。
『痛くってさ。ずっと。胸やけが酷いんだ。酒のせいじゃない、心がね。欲しがってるみたい、翔ちゃんのこと』
「香奈……」
『……、返事、待ってるね』
それきり。
ツーツー、と、無機質な効果音が耳元でうるさかった。
「香奈……」
──俺は。
気付いたら、香奈の家まで、足を運んでいた。
チャイムを鳴らし、パタパタと駆ける音に心を馳せる。
「翔ちゃん……!」
「……ごめん。……ただいま」
この糸は。今度は簡単には、ほどけそうもない。