♯02 日常の裏に隠れた非日常
その後も時は流れるが天宮寺さんと話す機会は得られなかった。
転校初日で天宮寺さんが忙しかったと言うのもあるが、何よりも彼女が拒絶しているのである。
クラスの女子が話しかけてみても『……よろしく』と言うだけ。
しかも転校初日にも関わらず本を用意し広げている。
一人の方が好きだと主張する様に。言葉ではよろしくと言いつつも自分に関わるなと示唆する様に。
現に何度も話しかける火野はもう完全に相手にされていない。
授業が終わる度に、火野一人のやかましい声が聞こえる。
……あれは天宮寺さんじゃなくても鬱陶しいが。僕でも無視したくなるレベル。
けれどそんな態度を取っている内に彼女に話しかける人はいなくなった。
近づきがたい……近づいてはいけないと肌で感じたのだろう。
孤立し、孤独。
そんな状況を彼女は自ら望んだ。
それに逆らうの火野と折原くらい。
僕は素直に圧倒され、疑問を抱えながらも沈黙。
彼女と僕の席は前と後ろ。実際の距離は近いのに、何故だか彼女がとても遠くにいる気がする。
手を伸ばしても届かないほど遠くに。
そして、そこに決して辿り着く事も近づく事もしてはいけない。
……そんな気がした。
だから僕は授業が全て終わると一目散に帰ろうとした。
一秒でも早く背後に存在する異端分子から逃げ出したかった。
なのに――現在僕は放課後の屋上にいる。
夕日を背に目の前には女子。
この場面だけを切り取れば、よくありそうであまりない告白シチュエーションの一つにも見える。
僕も緊張でかなり心臓がドキドキしている。……いや、バクバクかな。
鼓動で心臓が破裂しそうだ。
僕がこうなるのもしょうがない事だと思う。
誰だってこうなる。
人間としての性だ。本能だ。
だって、その女子――天宮寺さんがあの黒い鎌を構えて、恐ろしいほどに冷気の篭った目で睨んで来るのだから。
恐怖で背筋が凍てつきそうだ。
見間違える事無く、昨日見た死神の鎌。
悪魔を有無も言わさず斬り殺したあの。
これで昨日のは夢だとか人違いだとかを主張するのは難しくなった。
目の前にいる死神は間違いなく現実だ。
「……あ、あの」
震える口に鞭打ち、なんとか声を出してみた。
状況打開の為にも沈黙は避けたかった。だが、いざ喋れとなっても何を言えばいいのかさっぱり分からない。
何か言わなければと焦るだけで、その度に一層混乱を起こすだけ。
やがて僕の脳内は真っ白となり――
「……その鎌本物?」
そんな非常にどうでも良い言葉が口からこぼれた。
まあ現実問題、本当はどうでもよくはないのだけど、そんな事を知ってどうするんだと言う話だ。
おそらく何も出来やしない。
むしろ――
「偽物のといえば偽物だし、本物といえば本物ね。でも安心して、殺すことはできるから」
不安要素が増えるだけだ。
何を安心すればいいのか理解不能。
僕が唯一理解出来るのは、再び命が危険だと言う事だけ。
昨日の事も含めて、今も夢だったりはしないのだろうか?
この鎌に貫かれたら、ハッとしてベッドの上で目を覚ます……そんなオチは有り得ないのだろうか?
「はは……無いよなぁ……」
僕は自嘲する様に、諦める様に軽く笑う。
有り得ないと……これが夢ではなく現実だと、本当は分かっていた。
自分で考えてなんだが、いくらなんでも無理があるでしょ。
現実逃避をするにも程がある。
してもなんの意味も無い。
「……どうしたの?」
急に笑ったのが気になったのか、天宮寺さんは更に厳しい視線を送ってくる。
「なんでもない」
僕は息を吸って吐く。深呼吸。
そして、髪を無意味に弄り――天宮寺さんの目を真っ向から見返す。
俗に言う開き直り。
恐怖は依然とあるが、今は不必要。胸の奥で眠って貰う。
「で、何の用なの? 今日が初対面なんでしょ?」
抑揚の無い、淡々とした語りだが、思ったより普通に喋る事が出来た。
自身の度胸に、驚きの拍手。
少し挑発じみてしまった事を非難。
天宮寺さんは、そんな僕を見て、鎌を持つ手に力を込める。鎌が僅かに震え、何度か鎌の冷たさが首に触れる。
「……やっぱり忘れてなかったのね」
暗く、重い声。
彼女の冷たい視線は、ただそれだけで僕を萎縮させるのには十分だ。
同級生に向けられる声や目ではない。
「……忘れられる訳ないでしょ。あんな事……」
瞼を閉じれば鮮明に浮かぶ昨日の異常な光景。
その度に恐怖も同時に思い出し瞼を開く。
「あなた……何者?」
「何者って……」
見ての通りの普通の人間だ。平凡で、どこにでもいるただの人間。そんな取り柄と言えば、身体が丈夫な事位しか無い僕が、何故こんな不可思議で異常な状況に立たされているのか……教えてくれるのなら教えて欲しい。
僕が無言のまま目でそう訴えかけると、天宮寺さんは鎌をクルリと指先で回し勢い込めて僕の首元に差し出す。
風を切る音が聞こえ――思考が正常に働き始めた頃には、死がすぐそこまで迫っていた。
後ろに退く事も、息を呑む事さえ許されていない。
「この鎌はね……悪魔を殺すためのモノ。そして、これの力の一つにはね、悪魔に関わる記憶を消すってのがあるの」
深く関わってしまっている者の記憶は消せないけどと補足。
……記憶を消す? どこが?
僕の記憶は全く消えていない。
そこまで思考が辿り着いてようやく、この天王寺さんの態度にある程度合点がついた。
要するに警戒しているの訳だ。
通常なら記憶が消えて、彼女の言うとおり今日が初対面となる筈だった……なのに僕が覚えていた。
「い、言っておくけどさ……僕は悪魔なんてもの、昨日始めて見たからね」
恐怖で身体の自由が聞かない。
けれど、言わなければ首が胴体と別れてしまうと直感で感じ、無理やり動かして弁解……と言うか事実。
「なら、何故覚えているの?」
「そ、そんなのこっちが知りたいよ……本当に」
未だ天宮寺さんは腑に落ちないらしく僕の話を信じていない。
彼女からしたら僕は怪しい不審人物でしかないのだろう。
悪魔を知らないのが事実ならば尚更覚えているのが不可解だと、疑いの目が僕に向けられ離れない。
クールと言うより冷酷――冷血。
全く……どうして僕は覚えているんだろう。
何故忘れられなかったんだろう。
彼女以上に僕は納得出来ない。
「……まあ、いいわ」
天宮寺さんは、そう呟くと、鎌を僕から離して下ろす。
その顔はまだ全然納得出来ていない事が明らかな程に冷たいまま。
おかげで僕はまだ安心出来やしない。
まだ首元に鎌を突きつけられているままな気がする。
「悪魔について、少しだけ教えてあげる。そして今度は自分の意志で忘れなさい」
天宮寺さんは告げる様に……押しつける様に語り始める。
烏がカァと鳴く空の下、逆らえば僕を襲うと鎌が黒く妖しく輝いた。
◇
人は皆、欲望や願望を内に秘めている。夢って言ってしまえば綺麗だけど、それは実際は綺麗事でしかない。
欲や願いを望んでしまったばかりに、道を踏み外した者も少なくはない。
それでも人は望んでしまう。
「そんな時……どこからか悪魔が現れるの」
望んでしまった者の前に、甘い誘惑を土産に。
地獄か魔界……人の知る由の無い場所から。
天宮寺さんは、悪魔の事を僕に教えてくれる。
隠しているのだろうけど、無表情のその顔からは、怒りや憎しみが容易に感じられる。
「あいつらは存在してはならない絶対悪。人の心を弄び、破滅へ陥れる外道」
望みによって誘われた悪魔は、その望みに付け込み、自らを呼び出したた者――召還者に契約を持ちかける。
望みが叶うと囁いて。
契約を交わす事は、即ち魂を売る事と同意。
契約者の殆どが、人の心を失い、悪魔の傀儡に成り下がるらしい。
身に余る望みの代償は、人が想像する以上に大きい。
「昨日の熊もそうなの?」
誰かが望んだ故に呼び出された悪魔。
「いいえ、あれは使い魔でしょうね。近くに大物がいるはず」
「……使い魔って?」
「人でなく悪魔が呼び出した悪魔。眷属の方が分かりやすい?」
悪魔は序列式の縦社会。
弱いモノは強いモノの下に就く。
つまりあの熊は序の口の末端で、大元がまだ奥に控えてるって事になる。……誰かが呼び出した悪魔が。
ここまで来ると、なんとなく察しがつく。
彼女が僕を警戒する理由。
つまり、僕もその召還者候補な訳だ。
そんな普通から大きく逸脱した異常現象の容疑者。
笑いたくても笑えない。
「悪魔が現れただなんて今まで一度も聞いた事も無いけど」
天宮寺さんの言う事全てを素直に受け入れられる程、僕の脳は柔軟ではないし、常識を捨てる事も出来ない。
僕が当事者だと言うなら尚更。
昨日見た熊が普通でない事も、目の前で鎌を持つ天宮寺さんが異常だという事も理解している。
夢だと言って逃げはしない。
でも――天宮寺さんを簡単に信じる事は出来ない。
こんな……殺気を帯びた視線を送ってくる人間を信用しろと言う方が無理がある。
向こうが僕を信用していないんだから。
「結構頻繁に出現してる。こうしてる今も増えている可能性は大いにある」
少なくとも月に一度は世界のどこかに召還されているらしい。
そんな頻繁に出現してたら流石に噂ぐらいになるだろ――と反論しようとして『そうか』と気づく。
「噂になってないのは、目撃者が記憶消されてるから……って事か」
本来僕がされていた様に。
異常現象を目の当たりにしておきながら、何事も無かったかの様に日常に戻る。
「ええ、祓魔師の連中がね」
自分は違うけどと言った口調。
……死神。
昨日彼女が呟いた言葉を僕はしっかりと覚えている。
自身は人間ではないと暗示する様な言葉。
……しかし、祓魔師って悪魔を退治する人間の事じゃないのか?
話を聞く限り、天宮寺さんは悪魔を殺して回ってるらしい。
ならば祓魔師とやってる事は同じなのでは……と思うけど。
ちらりと天宮寺さんの顔を見ると、そんな茶々じみた事を言える雰囲気では無い事は感じとれる。
その風格は死の神を名乗るだけある。
視線だけで人が殺せそうだ。
「もし本当に無関係だと言うなら、昨日今日の事は綺麗サッパリ忘れる事ね。平和を噛み締めて普通の日々を過ごしなさい」
逆らえば命は無いと忠告。
「……忘れられるのなら、忘れたかったさ」
こんな事……忘れろと言われても、どんなに忘れようと願っても無理だ。
脳裏に焼き付き、落とせない。
夢だと言い聞かす事も叶わない今、僕に出来る事は忘れた振りをする位。
悪魔が街をさ迷っているかもしれないと知っていながら、知らない振り。
天宮寺さんの話が正しいかどうかはともかく、この街に異常が入り込んだのは事実だと言うのに。
その異常の一端が、すぐ目の前にいるというのに――何も出来ない。
舞台を眺める観客の様に、ただ黙って傍観する事しか僕には選択肢が用意されていない。
明らかに場違いなのだ。
「…………そうね」
天宮寺さんは、そう小さな声で言うと、鎌を霧散させた。
禍々しい気を帯びていた黒い鎌は黒い霧となり空気に……闇に溶け込み消えていった。
気のせいなのか、陽の加減のせいなのか、天王寺さんの顔に陰りが出来――寂しそうに見えた。
手を空にした彼女は、夕日を背に歩き出し、そのまま屋上から去って行った。
階段を下りて校舎の中へ。
屋上には、呆然と立ちつくす僕だけが残った。