八年後。
『具体的にいつ死んじゃうかまでは見当もつかなかったけど、少なくともおばあちゃんになるまでは絶対に生きてられないだろうなとは思っていました。あたしの病気は一定のラインで穏やかに安定していたので今すぐに死ぬってことは想像がつかなかったけど、それでもあたしがギリギリのところで生きているのは普通に考えれば明らかだったと思います。この病気が少しでも悪くなって、栄養素の吸収率が少しでも落ちれば、それだけであたしは死んでしまうような、絶妙なところにいたと思います。でもまあ、ある日体調が悪化して死んでしまうことくらい、あたしじゃなくてもありえる話だとも思ったので、もう十六年間生きてきてるんだから、ここまで生きてこれたんだったら、あたしも他人も急死する確率なんて実際おんなじくらいなんじゃない?と楽観したりもしていました。ぶっちゃけ楽観してないとやってられなくない? 死ぬ死ぬ思ってたらつまんないでしょ。そういう点では、学校のみんなもあたしの病気を重く捉えずに接してくれてありがたかったです。学校の先生達も。ありがとう。メッチャ普通に楽しく過ごすことができました。学校のみんながこれに目を通す機会がなかったら、代わりに伝えてあげてほしいです。ありがとうって。で、だからあたしは自分の病気を過度に心配されるのが苦手だったわけです。だって、食べてさえいればなんともないし、病気は病気なんだけど体がしんどいとかいうこともないし。というか、今まで心配されたことがなかったのね。親にも、それから歴代の友人達にも。まあ心のどこかでは心配してくれてたのかもしれないけど、だからってその心配を口にしてもあんまりどうにもならないし、それにやっぱり現状は心配するほどのものじゃないしあたしの好きにさせておこうと思ってくれてたんだろうね。そもそももしかしたら、病気っていう認識があんまりないのかも。ちょっと面倒な体質くらいに捉えてたのかもね。病気は病気で間違いないんだけど、みんながそんな感じだと、あたしも言葉にするときはつい体質!って言っちゃうよね。まあ体質って呼んだ方がポジティブだし、なんかそれ以上悪化しないような気にもなって、優しいよね、あたし達の心に対しては。でも。でも健希は、あたしの病気に関して細かいところまで気にしてくれて、心配してくれたね。今までそういう人に出会ったことがなかったからびっくりしちゃった。健希はたぶん、あたしのこれを体質じゃなくてはっきり病気なんだと見なして聞いたり気にかけたりしてくれたんだと思う。無意識だったかもしれないけどね。ありがとう。……さっきは心配されるのが苦手だって言ったクセにどうしてありがとうなんだ?と思ったね? 思ったよね? そうだよ。心配されるのは苦手だったんだけど、健希と出会って少し変わりました。気付きました。健希が心配してくれることで、あたしっていう人間が、あたしではない別の人間に、丸々全部、見つけてもらえたみたいな、そんな気になったんです。体質だなんだの言ったところであたしの病気は病気だし、病気って怖いものだし、抱えてるだけで辛いものじゃん? だけど絶対に切り離せないものです。あたしはあたしだけど、病気も含めて馳川桜香なんです。逃げきることは今のところできないし、楽観して暮らしてはいるけど、いずれこの病気があたしを死なせるってことはなんとなく自覚してる。だから普通、病気を持ってる人ってのは、心配してもらえて当たり前なんです。心配しろって言ってるんじゃないよ? 大切な人が病気だったら心配するでしょ?普通。そんな当たり前のことをしてもらえて、あたしは嬉しかったんです。あたしのこれを病気だとわかった上で、でも避けるわけでもなく、そばにいて心配してくれてたことに、あたしは救われたんです。病気から目を背けてあたしと付き合うんじゃなく、病気も含めてあたしの全部を見てくれて、嬉しかったよ。ありがとう。まあでも、そうは言ってもみんながみんな、あたしを心配ばかりしていたらそれはそれでやっぱり疲れるので、学校でのあの状態っていうの? 健希はあたしの心配をしてくれて、他のみんなはあたしを食いしん坊扱いしてくれて、っていうあの状態、あれはよかったです。最高の環境だったかも。あたしを心配してくれるのは、あたしにとって本当に大切で大好きな人だけでいいの。だけど、ごめんなさいとも思います。あたしと親しくなってしまったからこそ、健希はきっと、あたしが死んでしまうことで悲しくなると思います。その悲しみがすぐに晴れてくれればいいんだけど、あたしがそんなことを言う資格はないってこともわかっています。あたしは自分がいつか死んじゃうってわかってて健希に親しくしちゃってたし、それにごめん、いつか必ず死んじゃうってわかってて、それでも、それまでは健希とずっといっしょにいたいと思ってしまった。書かなきゃいいんだけどね、こんなこと。自分勝手すぎる。でもひとつだけ我慢できたんだよ。もう書きたいことは書いちゃったからこれ以上は読んでもらわなくてもいいんだけど、一応書いとく。読んでも読まなくてもいいし、読まない方がいいんだろうけど、あたしも書かない方がいいんだけど、書いときたいこと。あたしが何かを遺せる機会はもうないかもしれないから。たぶん健希は覚えてないと思うんだけど、あたしが初めて健希に好きって言って、健希も好きだよって言ってくれたとき。あたしはどうしても「付き合ってほしい」が言えなかった。言えなかったっていうか、我慢して言わなかった。あたしは健希といろんなことがしたかったの。そりゃもう、ただの友達同士じゃできないことをたくさん。でも、最終的にはそれが全部、健希にとって悲しみに変わっちゃうのが申し訳なくて、言わなかった。恋人らしいことを何もしなくても、付き合ってたっていうだけでも健希の悲しみは何倍にも膨れ上がると思ったし。だけど本当は健希と付き合いたかったです。短い期間になったかもしれないけど、大好きな人と好きなことをやり尽くしてから、さよならしたかったです。同時に、付き合ってなくて本当によかったとも思いました。今、もしも健希と付き合ってたパターンのあたしを想像して、本当に、本当にあたしは健希と付き合わなくてよかったと思いました。健希がこんな思いをするんだとしたら、それはあたしには耐えられないことです。ごめんなさい。この箇所を健希が読んでいないことを祈ります。読んでたとしても、こんな、自分勝手な女のことはすぐに忘れて、残りの人生、しっかり生きてください。体調が悪化する確率なんて、あたしもあなたもおんなじ。五分五分。後悔のないように生きてください。大好き。愛してる。馳川桜香』
俺は桜香からの手紙を読み、少し目を閉じる。何度となく読み返したし、書きながら泣いていたんだろう、そもそも最初から涙の跡で読みづらい部分があったんだけど、くたくたになってきていよいよ判読しにくくなってきている。八年の月日はアナログを相当に傷ませる。コピーを取っておくべきだったかもしれない。そんなこと、今の今まで思いもつかなかった。こうなっては、文章をデータとしてPCに保管するくらいのことしかできそうにない。しかし、この手紙の質感と、桜香の手書きの文字でないと、なんとなく味気なくて寂しい。
俺は二十三年間ほどの人生において何かを間違えただろうか? 間違えてしまったことがあっただろうか? 振り返ってみるに、ない!と断言できる。何も間違えていないし、すべて正しかったと自信を持てる。時間が巻き戻ったとしても同じように行動するだろう。『同じように』? いや、そんな程度じゃダメだ。寸分の狂いなく行動し、必ず同じ未来を引き寄せてみせる。だって今の俺には道程に微塵の後悔もないし、現状には満足しかない。最高なのだ。すべてが。
俺は閉じていた両目を開く。我が家のリビングが広がっている。マンションの一室なので広がるほどのリビングじゃないかもしれないが、それでも愛すべき我が家なのだ。しかしやっぱり一人ぼっちだと落ち着かない。
自分用の引き出しに手紙を隠し、俺は部屋を出る。鍵をかけて、六階から地上を目指して階段を下りる。エレベーターもあるんだけど、すぐに地上まで行きたいわけでもないし、ゆっくり歩いていくことにする。やれやれ。
桜香は生理を迎えたあと、しばらくして一気に体調を崩した。あんな手紙を書かなければならないほど、瞬く間に死へ急接近した。だけど考えてみれば当然の結果だったのかもしれない。生理なんて、女子の体にとっては最大レベルの変調だ。健康体の女子ならば難なく受け入れられるかもしれないけれど、なんとか体内のバランスを保っていた桜香にとっては大災害のようなものだったんだろう。バランスは崩れ、長らくかろうじて維持されてきていた体は、破壊された。
生理が来なければどうなっていただろう? 考える。生理が来なければ死と向き合うこともなかったから、あの手紙が書かれることもまたなかっただろう。しかしそれは困る。あの手紙は俺にとって非常に重要なものなのだ。あの手紙がないと俺はやっていられないのだ。やっていられないと思う状況が、たびたび訪れる。
全然時間稼ぎにならない。俺は階段を下り終え、地上に到着してしまう。エントランスを抜けて駐車場へ向かう。そこには当たり前だけど俺の車があり、その車内には夫婦喧嘩を経て拗ねてしまった俺の嫁が立てこもっている。マジでやれやれ。拗ねるとすぐに車の中に隠れてしまう。手紙を読んで俺の人生の正しさを再確認しないと、追いかける気にもならないのだ。この嫁のことは。
「おい、開けろ」と言うがドアは最初からロックされておらず普通に開く。運転席の方に嫁がいて、しくしく泣いている。運転席に座っているのが不適切だと感じるほどの小柄さで、泣いているわりにはビッグサイズのチョコバーをサクサク齧っている。この有り様だけを見たら子供だ。よくて女子高生。しかし、どんな場合でも食事をしていなければならないのは生まれたときからの制約なので致し方ない。十六歳の頃に容態が急変して死の淵をさ迷い、そこからなんとか持ち直して復活できたとしても、しかし病気を完全に克服できたってわけじゃない。
「来るなよー」と言って桜香は手をシッシッとやり俺は少しイラッとするけど、イラッとしながらも、でも許せる。ケンカの直後はホントになんなんだコイツはと思うし、ずっと車の中に引きこもってろよとも思うが、手紙に後押しされて顔を見に行くと、なんか許せてしまうのだ。ケンカの原因は俺にもある。ひょっとしたら、昔と比べて我慢が足りなくなってしまったのは俺の方なのかもしれない。
「ごめん」と俺は謝る。「部屋戻ろう」
「嫌って言ったら?」
「そしたら俺もここに住む」
助手席に乗り込む。ドアを閉める。
「すす」と桜香は少し笑う。「あたしは住んでないし」
「じゃあ戻ろう」
「戻ってどうすんの?」
「やりたいことがあるんだよ。友達同士じゃできないことが、たくさん」
桜香はぎょっとしたような顔をするが、たぶん自分で書いた手紙の内容はもう覚えていないはずだ。「なに?それ」
俺がまだ手紙を隠し持っていることももちろん教えていない。「仲直り」
「ごめんなさいって言って」
「さっき言ったけど……ごめんなさい」
「あたしもごめんなさい」桜香は頭を下げて目を擦る。
「じゃあ戻る?」
「ちょっと待って」桜香はチョコバーを食べ終え、ゴミを小さく畳んで結んだあと、次いで饅頭を取り出してくる。「これ食べてから。泣いたらメッチャ疲れちゃった」
「わかったよ」
病気の症状は昔と変わらない。栄養素の吸収率が悪い代わりに何を食べても必要な栄養素に変換される。よくなってはいないが悪くなってもいない。それこそが桜香だとでもいうようにずっと安定している。ただし、生理は薬で抑えてしまっている。生理と共生してやっていくプランもあったが、その過程でたくさんのデータ収集が必要だったし、安全性も確約されていない。やはり桜香の健康こそが最優先だろう。八年前のあんな思いはもうしたくない。
もちろん安全策を取っていても、何かの拍子に病気が桜香を殺すことはありえるだろう。でも、それこそ五分五分だ、ここまで来たら。二十三年、二十四年と生きてきたなら、もう死ぬときは死ぬし生きている間は生きるんだろう、俺も桜香も。
大きな饅頭を口に放り込み、桜香はもきゅもきゅと咀嚼している。他人の食べ方なんていちいち注視しないが、桜香のそれだけは長年ずっと観察していて、相変わらず口いっぱい頬張るんだよなあと内心で笑ってしまう。可愛い。
「なに笑ってんの」
笑みが外まではみ出していたか。「別に」
「そ」
「大好きだよ、桜香」
俺が告白すると、桜香は胸を押さえてわなわな震える。饅頭が詰まりそうになっている。危険だ。俺は桜香に落ち着いて静かに食事をしてもらうべく、口元に人差し指を立てる。
気持ち早めに饅頭を完食した桜香はまだ苦しそうな喉を使って「あた、あたしも……」と返事してくれる。
「なんで顔真っ赤よ」と俺は指摘する。
「だ、だって、久しぶりに好きって言われたし……ケンカしたあとなのに……」
「ケンカしようがすまいがずっと好きだから」
まあ意見がぶつかり合うことはあるし、とんでもなくムカつくこともあるけど、それで普通なのだ。二人で生きていればそういうこともある。それでも変わらないと思えるものがあるなら、そうやって生きているってことは間違っておらず、きっと正しい。
「またお腹空いてきたんだけど」
桜香はこちらに身を乗り出してきて空腹を理由にキスしようとする。三つ子の魂百までってわけでもないが俺はまだあの頃のジンクスを意識していて、桜香に俺のことは食べさせてやらない。桜香を制止し、俺の方から桜香の唇をついばむ。意味のないことかもしれない。でもいい。