2.魔獣の咆哮
4月中旬まで毎日投稿します。
土煙が視界を阻み、足元の血だまりが燃えている。肺を満たす蒸せ返るような金気の臭いが幾度目かの嗚咽を誘った。
「あー、まずい。今度こそ死ぬ」
腕は痙攣を繰り返し、脚の裂傷からは血が噴き出す。それでも刃こぼれが目立つ刀の切っ先を倒すべき敵に向けて構えをとった。満身創痍の体を叱咤して、戦意を高ぶらせる。己よりも強大な敵と対峙することはそれ自体が極度に体力を消耗させられてしまう。
「くそっ、血が止まらねえ」
男の割れた額から流れた血が右目を塞いだ。いつもなら視界が閉ざされようと、戦いの最中に集中力が欠くことはなかったはずだ。しかし、男はよろめき崩れ、立つこともままならない。それほどまでに集中力も体力も擦り切れていた。
対峙する魔獣はこの好機を逃すはずはなく、冷えた魔獣の眼光が舌舐めずりをしている。そして、勝利を確信したのか獰猛な咆哮を上げた。その魔獣―――炎角狼が四肢の筋肉を隆起させ、大地を蹴り上げる。瞬間、炎を纏っていた炎角狼が男の視界から消えた。
「左? いや、右だ」
襲い掛かる炎角狼の渾身の噛みつきを、男は重心を左にずらして躱した。ぞっとする死の滑りを含んだ魔獣の生臭い息が男の頬を撫でていく。
「っ! ぎりぎり躱せたか」
男にはこれまでの戦闘経験を積み重ねてきた矜持がある。その矜持をもって自らを鼓舞する。
戦闘が始まってどれくらいの時間が経ったのか。魔獣の攻撃を躱し続けて優に10分は経過しただろう。
わずかに炎角獣の動きが鈍った。獣の攻撃を躱す度に刀で魔獣の体を傷つけ出血させていたのだ。戦いの高揚で気が付かない程度の傷が、ここにきてようやく効果を表し始めた。それに、魔獣は自らの渾身の攻撃を躱され続けてきたのだ。魔獣も男と同じように体力が削られているのは当然だった。
「‥‥‥時間は十分に稼げたはず、だよな」
ぐるる。
と、炎角狼の低い唸り声が地面を震わす。炎角狼とって致命傷を避け続ける獲物に苛立ちを覚えていたのだ。自分よりも脆弱である小物に手をこまねいている。その事実が強者である自負に傷を付けている。だが、それもここまでだ。獲物は崖を背にして、既に逃げ場はない袋小路にいる。ようやく獲物を追い込んだのだ。もう逃がすことは有り得ないと全身に力を込めた。わずかに身を屈め、その体躯に力を溜める。ありえない程の力が凝縮していくのが見え、周囲の空間が歪んだ。
炎角狼の真っ赤な大口を中心にして、複雑な制御式が形成されていく。
―――高位聖霊魔法(平面複合制御式:火)ガ・ヴィング
炎角狼の真っ赤な灼熱の炎が口元から轟と吹き上がり、一直線に巨大な炎の牙が男の体を焼き払ったかに見えた。
男は地面の窪みに体を入れて器用にも直撃を避けた。だが、背中は熱波によって焼かれていく。
「っ!」
男は痛みを噛み殺して地面を転がったが、それでも熱波で燃え上がる衣服の炎を掻き消すには至らなかった。そして、そのまま動きが止まる。それもそのはず、男の背中の肉がドロリと溶け落ちていたのだ。絶命していなことの方が不思議なほどに。ただ、左手首から奇妙な真紅の文様が浮き上がり、脈動するように左腕を這っていく。
「くっそ。ざまあねえな、俺は。このクソったれの飼育場から自由になるんじゃなかったのかよっ、武の神髄を掴むんだろうがっ」
手足の感覚は途絶え四肢の痛覚は完全にない。掠れた声だけが喉奥から零れるだけ。それでも刀だけは手から離したくはなかった。刀の使い手として異世界で最強になるという誓いは死を直前にした今でも揺るぐことはなく、ただ閉じていく視界が果てぬ夢の道すじを消していく。
意識が薄れ、手から滑り落ちていく刀をベルジェごと強引に持ち上げる少女がいた。
「おっさん! しっかりしろよっ」
「リ、ッリ? ど‥‥‥うして、ここにいるっ? 逃げ‥‥‥ろっと言ったはず、だ」
「べっ、べつに、オレがどうしようが関係ないだろ。そ、それに、ザコいおっさんに命を助けられたまま先に死なれちゃ、気持ち悪りいだけじゃん。今が借りを返すには絶好の機会ってわけ。見れば分かるよね」
戦いの場で激しく上がる炎煙の間隙に分け入ってきたのは、肩口で髪を切り揃えた少女。歳の頃は14歳といったところだろうか。大剣を軽々と持つ少女は乱暴な口調でベルジェを奮い立たせる。
「リリッ。待つんだ。あ、れは実存強度3の魔獣だ。お前では敵わん。いいから、早く逃げろっ。俺がもう一度、時間を、稼ぐっから、早くっ!」
「うるっさい! そんなことは知ってるよ。いつもいつも、ザコおじが一番強い奴を引き受けて、オレらを生かしてくれてるってことぐらいさ。オレらはあんたのおかげで十分強くなったんだ。少しは信用しやがれってーの」
「そうだにゃあ。私らはベルジェさんに生きて欲しいわけにゃ。それに黒の信徒の闘技場から逃げることが出来たんだから、勝てはしなくても魔獣から逃げ切ればいいんだけにゃんにゃー」
「モ‥‥‥モ。お前まで戻って来、たの、か!?」
「当たり前にゃ。なんたって、私らはベルジェ組にゃのだから! だから、早くこの特性の再生薬を飲み込むんだにゃ!」
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