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第九八話 最後の夜

 蘇秦は喬との最後の夜を過ごす。

 紀元前284年(昭襄王23年)斉 臨淄


 丞相府の吹き抜けの回廊に立ち、蘇秦は月を見上げ、夜風に打たれていた。少し離れた庭園の池からは、(こおろぎ)の鳴き声が聴こえる。暑くも寒くもなく、気持ちのいい夜であった。

「もうすぐだ。もうすぐで……大志が成就する」

 深呼吸をし目を閉じた。

 すると、部屋の奥から、声が聞こえてきた。

「こんな夜にまだ起きていたの? そろそろ眠らないと体に毒よ?」

「毒だとしても、月を見上げたい気分なのだ。そなたとも話したい気分だ」

「ワガママね。やっぱりまだまだ子供じゃない」

 そういって、喬は微笑んだ。

「そこにある琴を弾いてはくれぬか。そなたの琴の音を最後に聴いたのはいつだったか……いまでも耳に残っている。美しい音色だった」

「私なんかのことで良いのなら、なん度でも弾くわ。あなたの為ならば」

 彼は喬に背を向け、彼女が奏でる音色を聴きながら、月を見上げた。

「綺麗だ……この夜も……琴も……。しかしそなたの美しさには……とても敵わぬ」

「なに、なにかいった?」

「なにもいっておらぬ。そのまま弾いて聴かせてくれ」

 蘇秦は体に染み込ませるように、音に耳を傾け、喬の存在を感じた。こんなに穏やかな夜は、これで最後なのだと、そう思っていた。もう二度と、出会うことも別れることもない。これで本当に最後なのだ。

 蘇秦は瞳を閉じ、溢れ出た一筋の涙が頬を伝うのを感じた。

「大志の為ならば自らを偽ることも容易かった。しかし今宵は……揺れ動く心を止めることもできぬ」

「やっぱりなにかいってるでしょ? ぶつぶつとなにをいってるの?」

 蘇秦は、琴の手を止めた喬の方を、振り返った。

「そなたが愛しくて堪らぬのだ」

 彼の顔は澄んでいた。涙ひとつなく澄んだ瞳で、彼は微笑んでみいた。彼は男だった。女に涙など見せるはずもなかった。弱い所を見せることなどあってはならない。それが、志というものを追い求めて生きた男の、美徳なのだ。

 しかし同時に彼は、常識に囚われない純粋な人であった。だからこそ、面と向かって、愛しいなどという言葉を伝えることができたのだ。

 美徳と合理性を実直に追い求め、大志を成就させることに生涯を捧げる。それが真の燕人であり、彼という縦横家の生き様であった。

「私もそう思ってるわよ」

「知っておるわ。喬よ……燕へ戻れ。そして見ていてくれ。私が生涯を賭してくべた薪が、斉を燃き尽くすのを」

「必ず戻ってきてね……待ってるから」

 喬は「おやすみなさい」といって、部屋を出た。一人になった部屋の中で蘇秦は、「それはできない約束だ」と呟いた。

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