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第九七話 屈原、涙する

 対斉合従軍が成功した後を考え、意見する屈原。しかし老臣の昭陽は反論し、楚王は屈原の意見を退ける。

 楚 郢


 令尹屈原は朝議にて、かつての令尹であり今でも対立派閥として影響力を持っている老臣の昭陽とともに、対斉合従軍という時代のうねりに、どのように対処すべきか論じあっていた。

 屈原は楚国内が一つになり、斉亡き後に秦と天下の二大強国として並び立つことを狙っていた。秦に遅れをとることだけは、あってはならないと思っていた。だからこそ、大将軍となった項叔を派遣し、武の項叔、政の屈原という強固な体制を作り上げる必要があると、考えていた。

「この戦は、必ず合従軍が勝ちます。秦は斉から遠いが、我が国は隣国。その領地の統治を行いやすく、戦後に台頭することができます。勝ち馬に乗ることは容易なれど、その後を見据えるならば、我らは大将軍を派遣して功績を立て、国内外に項叔大将軍の名を轟かせるべきと存じます」

「ならんぞ令尹。それは愚策というものだ」

「なぜでしょう。昭陽殿、理由をお聞かせください」

「そなたは楚の足並みを揃えたい故、そのような案を出すのだ。しかしもう少し考えてみよ。誰が田舎者の項叔大将軍の下で、一つになって戦いたいと思うのだ」

「今朝の議題は対斉合従軍への対処法であり、既に決まった大将軍への任命に関する話題は不要と存じます」

「儂はその時、朝議に参内していなかった。楚王様も上申書の山を崩すのに時間がかかり、ほとんど不眠であり判断が正しくなかったやもしれぬと申しておるのだぞ」

「子供のような言い訳はやめていただきたい」

「貴様、楚王様になんたる無礼を!」

「私はそなたに申しているのです。なにはともあれこの時間は不毛です。意見がないのであれば、他の臣下の意見も聞き、方針を決めようではありませぬか」

 周囲を見渡した時、不満そうな臣下はいなかった。今となっては地方の有力者たちも、派閥に組み込まれていて、自分の地方や意見よりも、全体の意見に合わせるだけの烏合の衆になっていた。

 面倒くさいと思いながらも、彼はこれで今日の議題が前に進むと思い、楚王の方を見た。すると楚王は曇った顔をしながら、頭を抱えていた。

「令尹よ……そなたの見識の深さには日々助けられている。しかし……余は大将軍を斉へ向かわせたくはない」

「それは……なに故でございますか……?」

「大将軍はそなたの推挙だ。そしてそなたのその姓は羋であり、楚の王族。余は……疑念を捨てきれぬ……!」

「楚王様……!」

 隣で昭陽はなんともいえない顔をしていた。秦王の心情を察して心を痛めているようにも、恥をかいた屈原をほくそ笑んでいるようにも見えた。

「臣下を……信じられぬのですか……?」

「そなたは優れている。それ故……余はそなたを信じきれぬ……! そなたは実利を追い求める余り、幾度となく余を軽んじてきた!」

「それはあくまで楚の実利を追い求めた為、礼が二の次になっただけのこと……!」

「黙れ減らず口!」

 屈原は言葉を失った。閉口できず目に涙を浮かべ、ただ楚王を見詰めることしかできなかった。

 楚王は合従軍に際しての方針を、半ば独断で決定した。

「将軍淖歯を総帥とし、軍を派遣する。しかしそれは偽りであり、我らは斉を攻撃しない。甘い顔で斉に味方し、東帝の信任を得た後、東帝に近づきこれを殺め、権力を奪い楚と共闘して合従軍を撃退するのだ!」

 あまりに突拍子もなく無謀なその策略に、屈原は唖然とした。

 朝議は終わり、楚王や臣下が部屋を出ていく中、屈原のみはその場に立ち尽くしていた。

「我が敵は、未だ側にいたのか。ここまでなん年……。なれど夢は叶わず、我が命の炎は、人知れずこの楚にて消えることになるのだろう……」

昭陽(生没年不詳)……楚の将軍、政治家。

楚へ遊説に来た張儀を楚から追い出し、張儀が秦へ行くきっかけを作った。また蛇足の故事成語でも有名。

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