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第八四話 秦王、司馬錯を巴蜀へ返す

 司馬錯と会った秦王は、その願いを聞く。

「精が出るな、司馬錯よ」

「こ、これは秦王様。出向かえなかった非礼をお許しください。お越しになるとは聞いておりませんでした故」

「気にするな。誰にも伝えずにきたのだ」

「それはまた、なに故……その前に、お掛けになってください」


 部屋に案内されてから秦王は、畳の上に正座をした。

 司馬錯が向かいに掛けると、秦王は単刀直入に話した。

「司馬錯よ、天下は今、未曾有の局面を迎えようとしている。秦はその中で、強国としての威厳を示していかなくてはならない。しかし実を申せば、この秦の内情は、一枚岩ではない。危機に瀕して結託するのは、弱者の振る舞いだ。秦は常に強国としての振る舞いをしていかねばならない」

「我が秦国は、九鼎を有する唯一の国家。夏より始まった正統なる系譜を受け継ぐ存在です。殷を滅ぼした周や、殷の紂王の血族が統治する宋、ましてやただ強国なだけの斉とは、格が違うのです」

「そうだな。そなたが秦の忠臣でよかった」

「勿論です。私は秦の忠臣にございます。私の主は、我が秦王様のみです」

 秦王は安堵の表情を浮かべた。

「忠臣のそなたに、余はなにかをしてあげたであろうか」

「……秦という故郷と、今日の我が栄光を与えてくれました」

「そういう話ではない。今、そなたの為になにかをしてあげたいのだ」

「なに故……突然そのようなことを思われたのですか」

 司馬錯は、秦王の心の内が理解できていなかった。彼の中では、秦王は残忍なものを好む、戦狂いの王であった。数ヶ月前に朝議に参内し、漢中での練兵を命令された折も、その傍若無人ぶりに辟易したものだった。

 司馬錯が回答に窮するあいだ、秦王もまた、葛藤の表情を滲ませながら、閉口していた。


 沈黙のあいだ、秦王は、葛藤していた。彼はなんとしても、魏冄との政争に勝って、大国の主として威信のある存在にならねばならなかった。国尉の白起を自勢力に引き入れることもできず、その威信は、魏冄に劣っていると感じていた。その玉座が、自分の為のものではないような、そんな気さえしていた。

 だが彼は唐姫や宣太后に支えられ、帝王として秦で立つ為に、自尊心を曲げて口を開いた。

「我が秦は正当な系譜を受け継ぐ大国でありながら、一枚岩ではない。国政や軍さえも魏冄や羋戎を初めとした、奴らの一派に支配されている。全ては余の力不足故だ」

 秦王は、王としての不甲斐なさを吐露した。そして司馬錯に乞うた。

「余に手を貸してほしい。魏冄の増長を止める為、やつには与せぬと……余の味方でいてくれると約束してくれ大将軍よ。余はその為ならば、そなたの願いをなんでも聞き入れる覚悟だ……!」

 やっと秦王の心中を理解することができた司馬錯だったが、彼は呆気に取られていた。巴蜀にいては分からなかった秦の歪な内情を知ったからだ。そしてもう一つ、恐れていた秦王が、ただの人であると感じたからだ。

 司馬錯は躊躇する理由もないと思い、拱手をしながら、願いを伝えた。

「それでは秦王様、私を巴蜀へ戻してください。かの地での統治を、私に一任してください」

「よかろう……! ただちに漢中を離れ、巴蜀へ戻るよう詔を(したた)めよう!」

「感謝申しあげます! 我が秦王様!」

※1月25日、投稿ミスにより本日二度目の投稿です。

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