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第七六話 蘇秦、斉へ戻る

 秦を合従軍に引き込んだ蘇秦は、満を持して対秦合従軍を解散させ、斉へと戻る。

 蘇秦は魏冄との会合を経て、合従軍を引いた。斉王は蘇秦を臆病だと罵った。しかし蘇秦は、理路整然と反論した。

「燕や趙は日和見を決め込み、漁夫の利を得ようとしており、この合従軍は形だけの存在であると見切りを付けざるを得ませんでした。そんな状況で、秦を攻め獲り、その土地を六国で分ける。そんなことをしても、我が斉が被った損害を補えるのかは怪しいでしょう。宋を攻める為の兵力を損なってまで、やる気のない六国の代表として戦う価値はないはずです。宋は攻めるに容易く、その地も、秦の関中と同じ程肥沃で広大です」

「つまり……秦は我らの犠牲は大きくも利益は少なく、宋は我らの犠牲も少なく、利益も大きいと」

「左様にございます」

「しからば……この合従軍は……完全に無駄であったのか」

「いいえ……。そうではありませぬ」

「どうしてそういえるのだ?」

七雄が合従し、大国を攻めるなどというのは不可能であるという事実を、確認することができました」

 蘇秦は、したり顔をした。斉王も、その真意を悟ることはできず、安心しきった表情で大笑いした。


 蘇秦は斉に戻ってから、丞相府で喬と会った。なにもかもが計算通りにいっている蘇秦は、饒舌であった。自慢混じりの話を、喬はずっと笑顔で聞きつづけた。

 夜、二人は丞相府の中庭へ出た。普段は考えに詰まった時、少し外の空気を吸いながら、ただ風に揺られる草を眺めて心を落ち着かせる為に、訪れる場所であった。

 しかし今は、心が踊っていた。燕の復讐を果たすという大志を叶える日が、また一日また一日と、近づいているのを感じていたからだ。しかしそんなことよりも、それを側で共有して誰よりも喜んでくれる喬の存在がいてくれることが、嬉しかったのだ。

 斉には、この大志を分かってくれる人はいない。だからこそ、それを間近で心から喜んでくれる喬の存在が、孤独を癒し、明日への力となっていた。

「水面に映る月が綺麗だね、秦」

「そうだな……。雲の上で燦然と輝く月も、今宵は我らを見下ろしに顔を見せてくれたのだ。月は、我らを見守ってくれている」

「ねぇ秦、あなたの大志が叶えられれば……いつかあなたは……私の前からいなくなっちゃうの?」

「それは分からない。危険が伴うことだからな……。だが……離れたくはないな」

 その言葉を聞き、喬は満更でもなさそうに、屈託のない笑顔を見せた。

「昔は、あなたをどこか弟のように感じていたわ。歳下で、少し子供っぽくて、可愛らしい顔をした弟のようにね……。でも離れ離れになって、あなたが生きていることを知った時、あなたは斉の丞相になっていた。遠い人になってしまったと思ったわ。でもあなたは今でも……素直で可愛らしい、弟のような男の子のままみたいね」

 蘇秦はむすっとして、喬へ目を向けた。目を逸らす喬の長い前髪を、数本の指で優しくどかせ、俯く彼女の顔を覗き見た。

 喬は、蘇秦を怒らせたと思った。しかし蘇秦は、優しく喬の唇に、自身の唇を重ねた。

 突然のことに動揺する喬に、蘇秦は「これでもまだ、可愛い弟のように思うか?」と尋ねた。

 喬は蘇秦に抱かれながら、ゆっくりと、首を横に振った。

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