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第六三話 白起、再び韓を攻める

 司馬錯とともに巴蜀の統治を行っていた白起は、秦王の命で再び韓を攻める。

 同年 咸陽


 秦王は、魏冄を政界から排除してから、心情に変化があった。戦をして祖業を継ぎ、国を導きたいという思いが、日毎強くなっていっていた。それは王としての自覚ともいえるものであった。しかしそれ以上に、彼の中に燻る怪物が、目を覚ましたような感覚に近かった。

 簡単にいってしまえばそれは、なにかの為にという理由を後付けして、ただ戦をし、高揚感を得たいということであった。

 朝議で彼は「魏や韓を攻め滅ぼしたい」と発言し、臣下を(どよ)めかせた。今七雄を滅ぼし、他の国が合従軍として秦へ攻め入れば、次こそは滅亡の憂き目をみることになると、誰もが考えていた。

 だが秦王は、タガが外れたように、「戦をしたい」といい続けた。

「余は、穣候の息がかかった軍神を用いることに抵抗があった。だが今となってはそれは過去のことだ。聞けば白起は、巴蜀で司馬錯と灌漑作業にふけり、大人しくしているとか。余には、白起は宮殿内での勢力争いに無関心な、ただの戦上手に思える。故に、巴蜀の兵を率いらせ、出兵させることとする!」



 同年 白起


 白起は、巴蜀の兵を率いた韓攻めの命を受けた。

 幸い、巴蜀の感慨作業は軌道に乗っており、数万の人夫を戦地へ送っても、作業が停止することはなかった。

「白起殿、巴蜀のことは私に任せてください」

「はい、司馬錯殿。必ずや奴隷を連れ帰り、巴蜀の人夫を増やしてみせます」

「それを手懐けるのは、罪人よりも大変そうだな。ではこれにて」

「はい、これにて」

 挨拶を済ませ、白起は成都宮から屋敷へ戻り、直ぐ様出兵の準備に取りかかった。

 巴蜀の兵は、この役一年で、よく白起に馴染んでいた。一度も戦地を駆け巡ったことはないが、それでも白起はあまり心配をしていなかった。それは巴蜀の将官たちが、蜀煇の乱を戦った兵士だということもあるが、それ以上に、将として自らが訓練を主導した兵への信頼があった。兵もまた、白起の統率力に魅了され、彼を信頼していた。


 白起は韓の国境を侵犯すると、瞬く間に城を陥していった。重要拠点である苑や葉をも陥した。

 白起は前回同様に、韓は有事の際の対応が鈍いと感じていた。それが罠であると勘ぐって、偵察を四方に放ち、進軍を停止する慎重さを見せもしたが、時間の無駄であった。韓王は優柔不断で、対応が遅いだけなのだと悟った。各城の粘りの弱さも、連携不足から来る諦めの速さが原因だと、彼は学んだ。

「そうだ。これは真理なのだ。戦いは個の武ではなく、統率が取れた集団の力が物をいうのだ」



 前290年(昭襄王17年) 司馬錯


 咸陽からの使者が、大将軍司馬錯の下へ訪れた。定期的に、臣従の意志を示す為に咸陽宮へ参内することはある。だが今は、その時期ではなかった。

 使者が王の勅を読みあげる。布に墨で書かれた文字を読みあげるあいだ、司馬錯は膝を突き、拱手をしていた。

 使者が勅を読み終える頃には、大将軍司馬錯は震えていた。それは老将の膝が弱っているということではない。彼は勅にて、数十年ぶりに巴蜀から敵国への出兵を命じられたことに、震えていたのだ。

「血が(たぎ)るのを感じます。この歳になって……再び将軍らしく、戦で指揮を執ることをできるとは……なんたる幸運か!」

 大将軍司馬錯は命に従い、巴蜀から漢中郡へ北上し、同地の兵を率いて東へ出兵した。

宛……現在の中華人民共和国河南省南陽市宛城区。


葉……現在の中華人民共和国河南省平頂山市葉県。


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