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第五三話 神

 白起は従者の齕から、大地の果てにある海の話を聞く。

 新城を(いで)て、魏へ向け行軍する。

 これまでは乗馬し移動していた将軍白起も、国尉となればそんなワガママも通らなくなり、傘が付いた馬車に載せられた。

 数匹の(ばん)()が走る音と、車の木材や車輪が軋む音が、妙に心地よかった。

 同乗する従者の齕は、代わり映えもしない雑木林の景色を、飽きもせずに眺めていた。

 普通ならば、一軍を率いる将軍も、こういう馬車に乗る。しかし白起は、乗馬をして風を切る臨場感が好きだった。

 だがこうして重い甲冑も着用せず、なにもせずとも素早く移動するというのも、悪くないなと感じ出していた。


 うとうとしていると、齕がこちらを見ていた。

「将軍は、崖上の敵兵が落水するのを、恍惚としながら見ておられました。なに故でしょうか」

「齕よ、私は以前、友人の恬さんにいわれたのだ。『いつか命を育む水が、戦で人を殺す』のだと。その片鱗を見たような気がしたのだ。天の怒りは川の氾濫を起こし、人を殺す。戦に水を用いるなど、もはや人の領域ではない」

「見たことはありませんが……大地の果てには、海という水の世界が広がっているのだそうです。その先には蓬莱という、仙人が住む島があるのだとか。蓬莱に至るには巨大な海の神を殺さねばならぬようですが、その神は、大波を起こし、どんなに巨大な船であっても転覆させてしまうようです。その船は深く海の底へ沈み、永遠に人々から忘れ去られるのです」

「まさしく、水を使うとは神業だな。なんとも恐ろしい」

「将軍は神のようなお方です。いつか大波を起こし、城を水の底に沈める大業(おおわざ)を、成せるでしょう」

 白起は遠い目をして、呟くように「神か……」と吐き捨てた。



 紀元前292年(昭襄王15年)


 将軍白起は魏に入ると、北上しながら城を攻め、(ことごと)く陥していった。一度たりとも敗戦を喫することはなく、宮廷の中のみならず秦軍の将兵の中にまで、将軍白起を神と呼ぶ者が現れるようになった。白起は将兵からの信頼まで、勝ち取ったのである。

 彼の名声は、徹底的に敵を殺すという残忍さに裏付けされたものであり、味方が彼を尊敬する一方で、敵は彼を恐れた。

 それは将軍白起の軍が近づいただけで、複数の城が白旗を上げるほどであった。

「齕よ……我々は魏を滅ぼすまで、進撃を止めぬのであろうか」

「いいえ、将軍。丞相は、今はまだ国を滅ぼすべき時に非ず……と、文にて仰っていました。秦を脅かす国の牙や爪を、削ぐに留めるべきと考えているようです」

「政というのはまだ私には難しく、よく分からぬ。しかし魏冄殿は楚の王族出身で、幼少の頃より政とは切っても切り離せぬ環境に身を置いて来られた方だ。文に従い、国力を削ぐに留めよう」

「それから、丞相は文にてこのようにも申しておりました。なんでも、極秘に斉へ人をやり、大計の為、斉王と会談を行っているようです」

「戦術として戦場を俯瞰して見ることはできるが、人や国を俯瞰して政として天下を眺めるのは、私はどうも不得手なようだ」

「将軍は神のようなお方。いずれ天下という戦場も、あなたの独壇場となるでしょう」

「どうだかな……。して……丞相からではなく、我が故郷より文は届いていないか?」

「届いておりませぬ。催促の文も送ったのですが……」

「そうか……仕方あるまい」

 悲嘆に暮れる白起を見るのは、初めてのことであった。齕は、神と呼ばれ賞賛される将軍も、人であることに安堵した。

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