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第三七話 函谷関の戦い 八

 公孫奭が武関内に入るのを支援するため、公孫起は殿となって匡章軍の猛攻を防ぐ。

 匡章軍の突撃に、公孫奭は慌てて兵に撤退の指示を出していた。撤退の銅鑼(どら)が鳴り響き、慌てて後方の山林地帯へ向かう兵士らは、怯えた声を出していた。

 優勢だったはずが、敵は突然に意気揚々と突撃してくるのだ。隴関の奇襲を知らない雑兵からしたら、まったく意味が分からず混乱してしまっても仕方ないだろう。

 公孫起は、殿となって敵軍の先鋒が公孫奭の許へ迫るのを、防いでいた。

「公孫奭様の方へ行かせるな! 命に代えても敵を足止めしろ!」

 公孫起は、日頃から見知った仲である郿県や雍の農民たちを奮い立たせ、高い結束力で壁となった。

「我々も戦いますぞ公孫起殿!」

 驁を含む歩兵部隊が、横に並び敵軍の馬を防いでいた。

「公孫起と申したな。我が隊の勇、驁がそなたをよく讃えていて、どんな男かと気になっておった。そなたとともに戦えること、光栄に思うぞ!」

「こちらこそだ、胡傷(こしょう)百将!」

 公孫起に声をかける百将は、胡傷だけではなかった。

「昨日からそなたの戦いぶりには見惚れてばかりだ。だが私とて、そなたに引けは取らぬ……!」

「手を取り合って匡章を返り討ちにしてやろうぞ……張唐百将!」

 百将たちは自然と、公孫起を中心にまとまりを見せていた。高い連携力を見せた歩兵部隊は、無事に公孫奭が後方の山林地帯で迎撃の構えを見せたところで、ゆったりと後退を始めた。

 合流したところで、公孫奭は進退について考えていた。

「昨晩の内から、一部の部隊を武関の反対に敷き、武関と挟み撃ちになる形で布陣しておくべきだったか……。いたずらに兵を分ければ危険であり、全ての兵を武関に入れれば逃げられるからと、判断を誤ってしまったようだ……。状況は変わり、敵は三つの関の内どこかを破り、侵略しようと、息巻いている。つまり敵に逃げるという選択肢は……ない! かくなる上は、今からでも武関に入り、高所から迎え撃つしかない!」

「公孫奭様! それであれば、私を囮にしてください!」

「そなたは公孫起。先程も百将らを指揮し、見事にこの山林まで撤退してきた。よかろう……そなたに匡章を防ぐ盾になってもらおう……!」

「御意!」


 公孫奭は騎馬兵を含む数千を率いて、武関へ向かった。その盾となるように、公孫起率いる別働隊数千は、匡章軍へ猛攻を行った。しかし、匡章軍の反撃もまた激しいものだった。両軍ともに、空腹と喉の乾きに襲われ、また丸一日以上も激しく戦っており、幻覚を見る兵も出るほど、極限状態であった。

 心身ともに疲弊しきった中で、命をかけて戦う兵は、死に体といわれる状態にあった。人が持てる最大の力を武器に乗せ、限界を越えて、敵に向け振りつづけるのである。

 その状態にあるとき、人は一瞬とも無限ともいえる時間のなかで、力を振り絞るのみである。


 時が止まった。公孫起が、ふと背後に目をやったときだった。公孫奭は冠ごと頭を射抜かれ、馬上から力なく転げ落ちていた。

「公孫奭様ぁぁぁ!」

 公孫起は頭がまっ白になった。ここにいる数千の兵を率いて、強敵の匡章を破るには、彼が必要だった。『敗ける』という言葉が脳裏によぎる。全身から力が抜け、槍を落とした彼には、匡章軍兵士の戟が向けられていた。

 これまでか、と思った。しかし次の瞬間、彼の横にいた驁が戟の刃を指で鷲掴みにし、裏拳で敵兵の顔面を殴りつけた。

「お気を確かに! 公孫起殿!」

 その声に目が覚めた。この勇士のように、まだ戦わなくてはならないのだ。

 公孫起はどよめく友軍をまとめるため、奇策に打って出た。

「公孫はまだいる。……公孫起隊! 公孫奭将軍の旗を持て! 私が武関まで向かう!」

張唐(生没年不詳)……戦国時代末期の秦の将軍、政治家。昭襄王・始皇帝に仕えた。


胡傷(生没年不詳)……戦国時代の秦の将軍。別名、公孫胡傷、胡陽、胡易。

紀元前269年、趙の閼与を攻めるも、趙奢に大敗した。


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― 新着の感想 ―
[良い点]  熱いッ!  特に『幻覚を見る兵も出るほど、極限状態であった』    『公孫はまだいる』  ↑この描写には心震わされました。
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