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第二九話 主たるもの

 秦王は朝廷の権力争いに際し、魏冄にばかりへりくだる臣下の忠言に、耳を傾けられずにいた。

 咸陽にて秦王は、合従軍を迎え撃つべく準備していた。しかし文武百官は、若き秦王の采配を訝しみ、魏冄の一挙手一投足に注目していた。文武百官のその態度に、秦王は、憤懣(ふんまん)やる方ない様子だった。

「そなたらは、余の命令に理由をつけて背くのみならず、叔父上の魏冄大将軍の指示を待っている。申せ! この秦の主は余か、あるいは大将軍か!」

 激高する秦王の怒号を、魏冄は髭を撫でながら聞いていた。そして秦王の問に対し、冷静に「申し上げます」と返した。

「秦の主は秦王様であります。それは疑いようがない事実です。しかし、いかなる時も名君の許にはそれを輔弼(ほひつ)する臣下がいるものです。その言葉を聞き入れる広い耳をお持ちの方こそ、名君と言えましょう。また逆に臣下の忠言に耳を貸せず独断に頼れば、いつかはその身を滅ぼすことになりましょう」

「余は名君であるゆえ、聞いてやろう。申してみよ、此度の戦、誰を総帥とすべきか」

「我が弟、羋戎です」

「そなた……羋戎に功を挙げさせ、一族の名誉を高めようというのか。やはりそなたは身内にばかり拘り、いつか余の王位を廃して、自らがその器に収まるつもりなのだな……!」

 秦王は疑心暗鬼となっていた。兄が連続して反乱を起こし、臣下らは、自らが招いた孟嘗君を追い出すように讒言を繰り返し、この窮地を招いた。身内に煩わしい思いをさせられつづけ、すべてが敵に見えていた。

「幾多の戦いで敵を撃破した樗里疾右丞相殿が病没され、秦はまた一つ宝を失いました。その穴を埋めるためにも、今は経験豊富な将に兵を率いさせ、副将に経験を積ませることが肝要なのです……!」

 魏冄の説得に、文武百官は口々にいった。

「秦王様、ご明察下さいませ……!」

 その光景は、秦王にとっては、議会ですら魏冄に支配されているように感じた。大事なのは勝つことではなく、誰が主であるか。だから彼は、うなだれるしかできなかった。

「ならぬ……ならぬぞ魏冄よ」

「秦王様……。未曾有の危機なのですぞ……!」

「今日は解散とする。また明日の朝議にて話そう」



 同年 郿県郊外


 公孫起は田畑を耕す農村へ、再び足を運んでいた。

「公孫の旦那、今日もいらしてたんですかい!」

(てん)さん、どうもこんにちわ!」

 寒空の下でも、力づよく実る作物がある。公孫起はその生命力に魅入られていた。

「一つ一つの作物は小さくすぐに腹の中に収まってしまうが、この田畑一面に実れば、多くの人を長く満腹にしてやれる」

「また当たり前のことを、さぞ大切なことのように呟いておられる」

「まるで……戦のようだと感じました」

「戦……ですかい?」

「ええ、大事なのは一人一人の武勇ではなく、仲間の数とその練度。皆がこの作物のように緑色に育ち、枯れることなく実れば、敵を挫く巨大な波になる。大事なのはその波を操る、船頭という名の主なのだ」

 大真面目に野菜を見つめながら語る公孫起をみて、農民の恬は笑った。

 そして「いつかこの天下を、荒地のない田畑で埋めつくして下せぇ」と、彼はいった。


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