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第二三話 幻影

 山中で突然の雷雨による雨宿りを余儀なくされた奇襲部隊。突然、轟音が周囲に幾度となく響き、彼らの精神を崩壊させてしまう。

 雷雨の中、兵士らは火を焚き暖をとっていた。そこには、公孫起の姿もあった。

「そなた、公孫起といったな」

 公孫起に声をかけたのは、馬遂であった。

「馬遂百将殿。なにゆえ私の名をご存知なのですか」

「配下の兵の名は覚えておる。それに、そなたの武勇や胆力は、李雲様に一目置かれておるようで、私も今日のそなたの活躍に、見入っておった」

 それから、少し身の上話をした。馬遂もまた庶民の出だが、実力で成りあがったようだった。馬遂は「そなたのような男は秦国の宝。生きて戦いつづけるのだ」と、期待の言葉をかけた。

 焚き火の揺らめきと輝きが、心地いい。少しだけ穏やかさを感じていたが、外の雷雨の音は少しずつ大きくなり、その轟音に皆が怯えだした。

 それはまるで獣が唸るような、いやそれよりももっと恐ろしい、恐怖そのものが声を出し襲いかかってくるような、なんともおぞましい音だった。幾度となく響くその音は、彼らの平常心を蝕んでいった。

「馬遂様、兵が怯えています。私もかような……耳をつんざく轟音など……聞いたことがありません……! 他の洞窟にて雨宿りしている兵が心配です」

「そなたは兵が気になるのか。己の配下は全てそばにいるというのに、そなたは、(まこと)に屯長か?」

「かようなことを申している場合では……」

「よかろう。公孫起よ、外へ出て様子を見てくるのだ。くれぐれも、足を滑らせたりせぬように注意せよ」

「御意」

 数名を率いて洞窟の外へ出た公孫起は、怯える数名を落ち着かせようと声を掛けながら、なにも見えない夜の森林を歩いた。

 雨は闇の中の微かな視界さえも防ぎ、体温を奪い、不安を煽った。離れれば、二度と会えぬような気がした。少し道を踏み外し滑れば、奈落の底へと落ちていく。その危険を肝に銘じ、一歩一歩の足取りを重くした。

 しかし次の瞬間、轟音に恐れおののき錯乱した兵が急に走り出し、目的地である洞窟の、焚き火のゆらめきに向かっていった。

「危ないぞ!」

 公孫起の声は届かなかった。兵の狂気は周囲に伝播し、ギリギリのところで保っていた平常心には、竹のようにまっすぐなヒビが入り、割れた。

 兵が我先にと洞窟へと駆けだしバラバラになった瞬間、悲鳴が響き渡った。一寸先は闇。なにも見えぬが、確かに聞こえた。兵を襲った虎の咆哮(ほうこう)が聞こえたのだ。しかもそれは一匹ではなかった。

 公孫起は槍を構えた。虎はまだ公孫起に気づいていない。神経を研ぎ澄まし、一瞬にも永遠にも感じられるような時間、待機した。すると次の瞬間、目の前から一匹の虎が襲いかかってきた。運良く槍で一突きする形となったが、その勢いに押され、背中から倒れた。虎はまだ生きており公孫起を食おうと、地面に倒れる公孫起めがけて、上からヨダレを垂らしながら暴れている。

「誰か! 誰か手を貸してくれ!」

 傷を負った虎はなおも暴れる。雨風に晒され、公孫起の体力も限界に近づいていた。槍を支える力が、徐々に抜けていく。

 虎の息の熱が、顔に感じられる。死を覚悟した直後、兵が洞窟から(いで)て、虎を殺した。

「まだ死ぬでないぞ! 獣に囲まれておる! 固まるのだ!」

 無数の虎が襲いかかってきた。洞窟へ走り、迎撃の構えを取った。

 雪崩込む虎の群れに殺されないよう、ただ槍を突き出し殺していく。虎の咆哮は轟音と重なり、兵士の心を蝕んでいった。公孫起は恐怖に震える己に鞭を打つように、先頭に立って、盾や壁でできた防御壁の内側で率先して槍を振るいつづけた。 

 幻覚だろうか、周囲に炎が広がっている。虎の口から放たれた火が、周囲に燃え盛っている。公孫起は悩めば不安や恐怖に心を壊されると感じ、ただ無心で、戦った。その姿に、周囲の兵士も勇気づけられ、ともに朝まで戦いぬいた。

 やがて日が昇り嵐が去ったあと、気づいたときには松明は地面に倒れ、大量の兵士が横たわっていた。急いで韓章ら馬遂らがいる洞窟へ戻った。するとそこには、虎に食い殺され無惨な姿となった兵士らが、横たわっていた。

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