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第百四四話 范雎、張禄と名を改める

 秦に入国した范雎は張禄と名前を変え、秦王へ推挙するわう、王稽へ頼む。

 前275年(昭襄王32年)


 咸陽に入った後の范雎ら一行は、王稽が魏冄に話を通すのを待った。無論それは、あくまで逃亡としてではなく、正規の手段で国へ入った、魏の賢人としてである。

 しばらく時が経った後に、范雎は王稽に尋ねた。

「私の推挙はして頂けましたかな。咸陽へ来て、既に数ヶ月が経過しておりますが」

「既に推挙しておる。なん度もな。だがな范雎殿」

「王稽殿、私は范雎ではなく、張禄です」

「あぁそうであったな。厠に捨てられた范雎殿は既に死に、ここにいるのは、私が招いた魏の賢人、張禄殿であった」

「そうです。どうかお忘れなきように。私が范雎であると知られれば、いつの日か、あなも不利益を被ることになりかねません」

「しからば聞こう張禄殿。どのようにして、穣候に取り入るつもりか。范雎殿は教えてはくれなかったが、そなたにはその策があるのだろう。もしや出世払いというのも、私が粉骨砕身して、そなたの魅力を穣候に語り尽くした後に支払う訳ではあろうな」

「まぁそう焦らずに。私には確かに策があります。私はただ、推挙をしてくれたのかが知りたかったのです。今はまだ、それだけで良い」

「おかしなものだ」

「私の出世払いの前に、もう一つだけ、お願いがあります。これが最後のお願いです」

「なんだ、申してみよ」

「秦王様にも、穣候同様に、私を推挙してください」

「なんだと……! そんなことをすれば、私は穣候に疑念を抱かせてしまう」

「それもやむを得ません。一度乗った船です。最後までお付き合い下さい。いつかあなたは私に感謝するはずですので」

「どういう意味だ」

「穣候の失脚は……近うございます」



 前274年(昭襄王33年)


 秦王は、魏冄が魏と和平を結んだことにより、魏への侵攻ができなくなったことに、不満を抱いていた。戦略として妥当であるか、ずっと考えていた。だが、最もその利益を享受しているのは、魏冄であることに気付いたのである。

「母上よ。魏冄は、和平を結ぶ条件として、秦兵の駐屯と、秦の商人が商いをする際に税を免除させる合意を魏王にさせた。だが、秦の将兵は魏冄の息がかかったものであり、商人も穣や陶の豪商が主である。魏冄は中原の動向に余よりも早く気づくことが出来、また商人から賄賂を受け取り、懐を肥やすことが出来るのだ。またしても奴は、余を蔑ろにしておる!」

「もう私も、冄の肩を持つことはできないわ。でも冄が派手に権勢を強めているのも、実力あってこそよ。代わりを務められる人間が居ればいいけど、そんな人は、この秦にはいないわ」

「この広い秦に、才能が埋まっていないとは思えぬ。ましてや、今や天下に並ぶものがいない強国ぞ。秦にて栄達しようと、咸陽を訪れる賢人もいるはずだ! 余がその後ろ盾となれば、その者は咸陽に地盤を築き、魏冄の勢力を一掃できるであろう」

 秦王は、武の白起と並び立つ、もう片方の翼を探し続けていた。

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