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第一話 白家村の少年

 秦の国西端にある白家村は、蛮族に襲われる。起は家族を殺され、故郷を失う。

 紀元前314年(恵文王11年) 秦国西端 白家村


 は、初めて人を刺した。槍で人を刺したあと、槍伝いに人の肉がえぐれる感覚がある。刺し込むときとは違い、抜くのはそう簡単ではないようだ。勢いがつきづらいし、一心不乱でもない。なにより、目の前で苦悶の表情を浮かべて血を垂らす人間に絶句してしまい、力が抜けるのだ。

 男が倒れると、彼は槍を手放した。武器がなくなったと思うと、途端に不安に駆られ、床に落ちている誰かの槍を拾った。

 気がつけば周りにいた顔見知りの仲間たちは血を流し倒れており、彼は孤立していた。

! こっちへ走れ!」

 亭長のけいが、起を呼んでいた。この小さな白家村の主として、彼もまた懸命に槍を振るい戦っていた。

 起は桂のもとへ走りだしたが、敵は馬上から剣を構え、彼を斬り殺そうとしてきた。それに気づいた桂は弓を射て、敵を射殺した。

板楯ばんじゅんの蛮族どもめ、一人残らず皆殺しにしてくれる!」

 板楯ばんじゅん族は馬に乗り槍やげきを振り回す異民族だ。他にもそういう異民族は多いが、彼らは神兵とも評されるほど暴力に秀でた、ならず者集団であった。

 士気が高くとも、ただの村人がそんな集団に勝てるはずはない。気がつけば桂ともども大勢の村人が殺され、起は村を逃げだしていた。家族もすでに散り散りとなっていて、村に留まる理由もなかった。

 素足で、とにかく遠くへ遠くへと進んでいく。衣は泥水で汚れていた。先日の雨が水溜まりを作っていたので、それが跳ねたのだろう。

 息が切れても、それでもなお止まることはない。ただ遠くへ遠くへと走っていった。


 やがて日が傾き、夜となっていた。どこまで走ってきたのか、ここはどこなのか分からなかった。夜は獣に襲われかねないので、留まることはできず、トボトボと歩きつづけた。

 すると前方に火が見えた。松明の火があり、彼はのようにその火に吸い寄せられた。

「おい少年、どこからきたのだ。その血はどうした?」

「村が、襲われました。みんな……殺されました……!」

「なんだって……西の村ということは白家村か。白家村は秦国の西の端……賊は板楯か、それともきょうか!」

「亭長の桂さんは板楯と言ってました」

「な……なんだと……!」

 村のおじさんは腰を抜かし尻もちをついた。松明に照らされた顔は、恐れおののき青ざめているようだった。

 起はそれからの記憶がない。気がつけば日が昇っており、百名余りの秦兵が、村人とともに白家村を目指し出発しようとしていた。


 目が覚めた起に気づいた秦兵の一人が声をかけてきた。

「待っておれ少年、必ず白家村を取り戻してくれよう」

 秦兵らは西へ向かった。事の次第を村人の女性が親切に教えてくれた。

「あんたが倒れてから、私の旦那が夜通し関所まで行って兵士を呼んできてくれたのさ。あの人たちは強い。数年前に、司馬錯しばさく将軍と一緒に義渠ぎきょ国を滅ぼした強者つわものたちなんだから。猿にも劣る蛮族がなによ」

 女性は自らの腰に手を添え、少し口角を上げた。えらく自慢げだったが、彼女が強者と読んだ兵士や村の男どもは帰ってこなかった。

 傷を負って戻った一人の秦兵はいい残した。「みんな殺された。ここまで来る……東へ逃げろ」。

 村人たちの顔はたちまち絶望に覆われ、膝から崩れおちるもの、あるいは逆に倒れることすらなく、棒立ちになったものなど様々いた。

 膂力りょりょくのある秦兵たちがかえり討ちにあった事実は、希望の光を奪うには十分すぎる闇であった。その日の内に村民たちは荷物を持ち、東へ向かっていった。


 村には火をつけた。もうこの村に帰ってくることはないのだから、せめて賊に利用されないように、できる抵抗として燃やすしかなかった。

 東へ向かう、絶望に浸る人の群れ。起は見知らぬ人に混じり、またトボトボと歩きだした。頭の中にあるのは、馬の上にまたがった大男。血祭りとなった村を見て歓喜していたその大男は、トサカのようなものがついた被り物をしていて、顔中に刺青がある醜い顔であった。

 突然、横を歩く女性に名を尋ねられ、見あげた。「起です」と名乗ると、女性は「私はげんよ」と応えた。

「生まれ育った上邽じょうけい村は燃えてなくなった。旦那も、一人息子も、板楯に殺された」

「元さん、これから僕たちはどこへ行くのですか」

「東のようへ行くよ。ここいらじゃ一番大きなお城さ」

「お城に入れるのですか?」

「あぁ、異民族どもに住処を追われたんだ。匿ってもらわないと困る」

 そういうと元は、起の手を握った。薄い衣のすそで目元を拭ったから、彼女が泣いていることに、起はやっと気づいた。

「白家村の起、あんたは今日から私の息子だ。いつか板楯の連中に報復してくれ。私らの無念を、晴らしてくれ……!」

 彼女の声は震え、握られた手は少し痛みを感じ、怒りや無念さが伝わってきた。

本作は史実をベースにしておりますが、記録に残っていない部分は筆者の想像になります。


板楯族……『神兵』と評される程の高い戦闘力を誇り、後の時代に成漢を建国した。


義渠国……オルドス地方に存在した国で、幾度となく隣国の秦に牙を向いた。


司馬錯(生没年不詳)……秦国の将軍で、秦国南方に広がる巴蜀を征服し、成都城を築いた。

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