3. 5W1Hとは
私は六人の誠実な召使いを持っています。私が知っていることは、みな彼らが教えてくれたのです。彼らの名は「なぜ」「なにを」「いつ」「誰が」「どこで」そして「いかに」です。
ラドヤード・キップリング
さて、5W1Hとは以下の順番で行われる情報伝達の基本だ。
何時《When》>何処で>誰が>何を>なぜ>どうやって
さて、これの説明の前に説明したい事項がある。
論理とはそもそも何か?という点だ。
結論から言うと、論理とは言葉と言葉を接続詞でつなげて『意味』を持たせる」事だ。
その意味が、今自身が伝えようとしている内容との一致度がどれだけ高いか、それが世間一般で言われている論理力が高いということになるだろう。
接続詞は語と語を糊のようにくっつけるだけではなく、
意味を表現するという機能をもつ。
まずは接続詞のリストを以下に示そう。
★★★
接続表現、接続詞
・順接――前の事柄に順当な結果が続く だから、それで、そのため
・逆説――前の事柄に反する結果が続く しかし、けれども、でも
・並立――2つ以上の事柄を並べる また、ならびに、かつ
・添加――前の事柄に付け加える そして、そのうえ、ましてや
・対比――前の事と後の事を比較する 一方、ぎゃくに、それより
・選択――前の事と後のこと、一方を選ぶ また、それとも、あるいは
・説明――原因、理由の補足、説明 なぜなら、というのは、それには
・例示――前のことについて例を挙げる つまり、例えば、裏を返せば
・転換――前の事柄から切り替える さて、ところで
・譲歩――前の事柄を肯定したうえで主張する たしかに、なるほど、もちろん
★★★
例を挙げよう。
この辺にうまいラーメン屋の屋台あるらしいっすよ「だから」高いらしいっすよ。
これは「順接」にあたる。
この辺にうまいラーメン屋の屋台あるらしいっすよ「しかし」高いらしいっすよ。
これは「比較」にあたる。
一見どちらも似通っているように見えるが、接続詞のカテゴリが違う。
そして意味も異なってしまう。
「順接」の場合は高いのが当然であるという接続表現だが、「比較」の場合は否定的なニュアンスが含まれてしまう。
「しかし」高い、というのは他の店、例えばふつうで安い店、うまくて安い店がある、そういった推測の余地を持たせる。
ちなみに「順接」の「だから」は、語同士の相関関係が、実際には間違っていても意味が通ってしまう。
それは順接のイメージがあるからだ。
逆に言えば順接から逆説の関係にしたときに意味が繋がらなければ間違った関係と炙り出せる。
「AだからB」が成り立つのなら「BなぜならAであるから」と言えないといけないからだ。
さて、ここで5W1Hに話を戻そう。
何時《When》>何処で>誰が>何を>なぜ>どうやって
の意味だった。
以上のこれらは、ビジネス会話ではすべてを用いて説明的な一文を作るが、
小説においてはそういった正規表現を用いる必要性はない。
前もって展開で説明ができていれば、省いたとしても伝わるからだ。
問題はそれぞれのWとHに繋がれている言葉の関係が適正であるかどうかだ。
「だから」の順接表現で説明を行ったとしても、それを逆説の関係にしたとき、意味が通らないストーリーになってしまっていては都合が悪いのだ。
例えば小説内で人物がこのようなことを最初に行ったとする。
野獣先輩が好き。なぜなら、カッコいいから。
では野獣先輩がカッコ悪ければ嫌いになるのか?
その後の展開で野獣先輩を格好悪く描写したが、KMRは嫌いにならなかった。
それは登場人物にとって、この関係が正ではなかったからだ。
野獣先輩が好き。なぜなら、優しいから。
これが真相であるならば、優しくない野獣先輩はKMRに嫌われる。
つまり正しい関係性であるという事だ。
気付いたかもしれないが、5W1Hへの反論はこの説明のシーケンス自体を小説内で再現するということだ。
読み手は登場人物と同じように論理の正しさを認識できる。
こういったことは特に感情表現で必要とされる。
これが私が5W1Hの小説での使い方だ。つまり、具体的な推測と演繹の方向付けをする為のものだ。