最終話 過ちは繰り返す
フィジー諸島の内海に位置するマコガイ島という小さな島。ビーチリゾートなどもなく静かなサンゴ礁が広がっているだけの無人島だ。一般の観光地ではなく自然保護区に指定されている海域だが、だからこそ手つかずの穴場を求める観光客や密猟者などが入り込む事がある。
今日この日も一隻のクルーザーが静かなサンゴ礁をかき乱して侵入してきていた。乗っているのは欧米人の若者グループ。ガイドが1人付いている。観光客のようだ。
彼等は一般人が進入禁止のはずの区域を我が物顔でかき乱し、泳ぎ回ったり中には酔っ払っているのかその場で放尿する者までいた。彼等をここまで連れてきたガイドは見て見ぬふりだ。彼等からチップを貰っているものと思われた。
傍若無人に振る舞う若者たちだが、そんな彼等の元に近づいてくるボートが一隻。
『あなた達! ここは環境保護区域で一般人は立入禁止よ! すぐに退去しなさい!』
拡声器を使って若者たちに呼びかけるのは環境保護団体『ザ・クリアランス』の代表であるレベッカだ。ボートは操舵手であるウィレムが操縦している。
「はあ? 何だお前ら! 警察でもなんでもねぇだろ! こっちは金払ってんだよ、邪魔するんじゃねぇ! 失せろ!!」
若者のリーダーと思われる男が怒鳴り返してくる。
『あら、そんな事言っていいの? あなた達が環境保護区で放尿してる姿までばっちり動画に収めてあるわよ。お望みとあればそのままそれこそ海洋警察に提出しましょうか? 勿論あなた達をここに案内した人間も罪に問われるでしょうねぇ』
「……!」
彼女の言葉に若者たちだけでなくガイドも息を呑んだ。レベッカはもう1人の乗員であるエステベスの方を向くと、彼は持っていたスマホを掲げながらサムズアップした。
その後も動画を盾に主にガイドを脅して、二度と保護区域に近寄らないと誓わせた上で若者グループを追い返した。対象が観光客の場合、出来るだけ穏便に済ませるようにという要請がスポンサーであるスヌーカから出ているので、動画はこちらで保存しておいてとりあえず警察には届けない。観光クルーザーがほうほうの体で逃げていったのを見届けてレベッカは息を吐いた。
「ふぅ……今回はスムーズに行ったわね。2人ともご苦労さま」
レベッカが労うとウィレムとエステベスは肩をすくめる。
「何の事はない。ああいう輩はいつになっても減らんな」
「俺もこの仕事に就いてから、如何に世の中が身勝手な野郎どもばっかか身に染みる毎日だぜ」
あの悪夢の事件から約1年が過ぎた。程なくして仕事を再開したレベッカだが、カレニック社を辞めてから行く当てのなかったエステベスを新たな社員として雇っていた。
弟のアンディがあの事件以降更に海に出たがらなくなり、ナリーニも彼が海に出る事に難色を示すようになっていた為、弟は彼が前から希望していた通りナリーニと共に会社の事務方に回る事となった。
その代わりとなるフィールドワーク要員を探していた所だったので、レベッカとしても渡りに船であった。
「そうね。本当は私達みたいな仕事をしなくて良くなるのが理想的なんでしょうけど、人間はそんなに賢い生き物じゃないわ。必ず、そして何度でも同じ過ちを繰り返す愚かな生き物なのよ。私達も例外じゃないけどね」
レベッカは少し自嘲気味に笑った。あれからバージルは結局自身の信念を曲げず、レベッカとは道を違えた。今は遠くアメリカへと渡って、大手のバイオテクノロジー企業の研究職に就いているらしい。結局人はそう簡単に自分の生き方を変えることは出来ないのだ。それはレベッカ自身も同様であった。
「……さ、ここでの仕事は済んだわ。今のところ他に情報はないみたいだし、スバに戻りましょうか」
柄にもなく若干センチメンタルになっていたレベッカは、それを自覚して栓もない思考を振り払った。そしてウィレム達を促して帰路へと着く。
自分の生き方は変えられない。どこまで今の環境で仕事を続けられるかは未知数だが、きっと何があったとしても彼女はこの仕事を続けるだろう。それが彼女の生き方であった。
レベッカは改めてそれを認識すると、後は迷いなく前だけを見据えてこの場から遠ざかっていった……
*****
同じ頃。フィジー内海のやや南東寄りにあるトトヤ島付近のサンゴ礁に、一隻の高級クルーザーが停泊していた。ここも島を囲むように穏やかなサンゴ礁が広がっている本来は一般人立入禁止の環境保全地域であり、手つかずの絶景を貸し切りで独り占めできる隠れた観光スポットであった。
「いやぁ、素晴らしい場所だね! 本来なら入れないこの場所を独占できるなんて、やはりあなたに話を通して正解だったよ、スヌーカさん」
この船の持ち主であるツアー会社の社長が、同乗しているスヌーカに笑いかける。彼等の見下ろす先では観光客達が進入禁止の保全エリアであるはずの海で、自由に泳ぎ回っていた。
「そうだろう。私の子飼いの環境活動家どもは今頃他のツアー業者の妨害に行っているしな。こっちに来る心配はないし、他の業者の営業を妨害できて一石二鳥という訳だ。いや、私にとっては一石三鳥かな」
スヌーカはデッキに寝そべりながら傍らに侍っている水着姿の若い女性の身体に手を這わせる。女性は内心はどうか知らないが、表向きは嬉しそうに嬌声を上げる。
彼はレベッカ達のスポンサーである反面、このように別のツアー会社から賄賂を貰って融通を効かせたり、別のツアー業者の妨害にレベッカ達を利用する事もあった。時に自分もそのツアーにこうやって慰安旅行として同行する事もある。
他にも水産会社からサルベージや開発会社など様々な業者が、お目溢しの為にフィジー政府の高官である彼に賄賂を贈って繋がりを持とうとしてくる。要求すればこのような接待も思いのままだ。彼としては笑いが止まらない状態であり、絶対に今の立場を手放す気はなかった。
彼がそんな事を考えながら至福の一時を過ごしていると、突然泳いでいた観光客達から悲鳴が上がった。
「……!? 何だ……?」
スヌーカは起き上がって、ツアー会社の社長と共に船の縁から海を見下ろす。そしてその目が驚愕に見開かれた。
本来は澄んだ青色の静かな海が、真っ赤に染まっていた。そして逃げ惑う観光客達によってその赤が掻き乱されて海面を荒らしていた。接待係の女性が悲鳴を上げる。しかし彼等が真に驚いたのはその光景自体ではなく、その光景をもたらしたと思われる『モノ』であった。
「な、何だ、アレは……!」
逃げ惑う観光客達の『下』。つまり海中に巨大な生き物の影が動いているのが見えた。目算でも軽く10メートルほどはあるように見えた。小型のクジラ並のサイズだ。だがソレが大人しいクジラなどではない事は、影が素早く蠢く度に観光客が悲鳴と共に海中に引きずりこまれて、代わりに赤い泡が大量に立ち昇る光景からも明らかだ。
「し、信じられない。こんな所にあんな生物が棲息しているはずがない」
ツアー会社のオーナーが呆然と呟いていると、スヌーカが彼に苛立った目を向けた。
「おい! そんな事はどうでもいいからさっさと逃げないか! あの大きさだと下手するとこの船も危ないぞ!」
「え……で、でも彼等がまだ……」
「馬鹿者! あんな奴等、ほっとけ! 自分の命に替えられるか!」
スヌーカが怒鳴るとオーナーもその気になったらしく、急いで操舵輪の方に向かいエンジンを始動させる。まだ生き残っている観光客たちから驚愕と怨嗟の声が轟くが、スヌーカは意図的にそれらの声を遮断した。
しかし……それでも尚その判断は遅きに失した。否、この海域に小さなクルーザーで進入した時点で彼等の運命は決まっていたのかも知れない。
クルーザーが発信する気配を感じ取ったのか、その巨大な影が突如向きを変えてクルーザー目掛けて突進してきた。その巨体からはゾッとするような速さだ。クルーザーの下に入り込んだ影は、そこから突き上げるようにして船を揺らしてきた。
まるで船の構造を理解しているかのような揺らし方で、クルーザーは海面に漂う木の葉のように激しく揺れ動いた。コンパニオンの女性の耳障りな悲鳴が響く。スヌーカもオーナーも自分が振り落とされないように柵に掴まって耐えるのが精一杯になっていた。
だがそんな努力を嘲笑うように巨大な影は再びクルーザーに突撃を敢行した。
「うわ!? うわぁぁぁぁぁっ!!!」
「ヒィィィっ!! た、助けてぇぇっ!!!」
船が冗談のような高さまで突き上げられ……一回転しながら転覆した! スヌーカは凄まじい遠心力に抗えずに海に放り出された。すぐに転覆したクルーザーが着水する音と飛沫が上がる。
(な、何だ!? 何が起きた!? なぜ私はこんな目に遭っている!?)
スヌーカにはこれが現実の出来事とは到底思えなかった。海水の冷たさや水の中でもがく感触は紛れもなく本物だ。だが余りに現実離れした事態にそうとしか思えなかったのだ。
やがて海に落ちた彼の元に迫ってくる巨大な影。それは鰭から徐々に海面を割って姿を現し、スヌーカを一呑みにしようと、その牙の生え並んだ恐ろしく巨大な口を大きく開いた。
「ふ……ふははは! そうか、これは夢だ! 私は夢を見ているんだ! 早く目覚めなければなぁ! ははははは――――」
狂ったような哄笑はすぐに聞こえなくなった。それから数分後にはその場に生きている人間は誰もいなくなり、ただ大量の赤い液体が海面を染め上げているのみであった。しかしそれも波のうねりによって霧散していく。
元の静寂を取り戻した美しいサンゴ礁の海の中、巨大な黒い影は悠然といずこかへと泳ぎ去っていった……
Fin
完結となります。ここまでお読み頂きありがとうございました!
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