乙女ゲームが何だってんだこっちは人生かかってんだぞかかってこいやあ!
オルガ伯爵家のキッチンでは今日も、死んだ魚の目をしたご令嬢エレオノールによって料理人全員が追い出されていた。
「顔がいい男はこれだから……ああ、私……結婚? あの男と?」
まずは玉ねぎ。白い部分が見えるまで、玉ねぎという玉ねぎの皮をひたすら剥く。飽きたら頭とお尻を次々に切り落としていく。ここらで一旦、まとめて軽く水洗いして、いよいよ包丁の出番だ。
切る、切る、切る。切る、キル、kill。賽の目状に切り刻んでいく。料理長が今日はオニオングラタンスープの予定だから玉ねぎは残してくださいね、とこちらをチラ見していたことなどさっぱり無視して、一心不乱に玉ねぎを切っていく。目からあふれる涙も玉ねぎのせいにしてしまわないといけないので、涙が止まるまでは玉ねぎを切る手を止められない。足りなければまた皮をむいてkill。
「わざわざ私と同じ栗色の髪をした女の子と浮気するなんて……」
次はにんじん。頭とお尻を落として、皮をむいていく。ピーラーって便利だなあ、と考えながら、頭の中ではにんじんを憎い男の顔に見立てて皮をむいていく。終わったら軽く水洗いして、kill、kill、kill。玉ねぎと同じ賽の目状にひたすら切り刻んでいく。にんじんってグラッセにすると美味しいですよね、とこちらを涙目で見ていた料理長のことは忘れた。
「お前は可愛げがないって何よ。自分は誠実さをどっかに落っことしてるくせに……」
次はじゃがいも。ガシガシ洗って泥を落とし、こちらは浮気相手の娘の顔に見立てて皮を向いていく。切り刻む際に少し力がこもったのはしかたない。女の怒りはいつだって、浮気した男より誑かした女の方へ強めに割り振られるものだ。どう見ても勝ち誇った顔でこちらを見下していたから、怒りに殺意が少し混じってもしかたない。
お嬢様はポテトグラタンがお好きですよね、と震えていた料理長のことなど思い出しもしなかった。
「浮気は男の甲斐性って、本当に言っちゃう男っているのね……」
トマトは少し苦労した。怒りで力むエレオノールの手では、ついつい柔らかい実を潰してしまう。どうせ煮込んでぐずぐずにするのだから構わないだろう、とは思っても汁まみれになる手は不快で、すでに限界まで機嫌の悪いエレオノールは簡単にキレた。
「ああもう! なんなのよ! クリスのバカ! 悪かったわね可愛くなくて! 中身はともかく顔は私のが可愛いわよ胸も大きいし!」
トマトを握り潰した。ヘタを落とすことだけ忘れなければ、ぐずぐずになるまで煮込んでしまうトマトは手で潰すことにしたのである。
「男って本当にバカ! どう見ても性格に難がある娘じゃない! 気づきなさいよ愛嬌だけでコロッと騙されてんじゃないわよバッカじゃないの!? バカなんだけど! バカだから騙されるんだけど!」
キッチンどころか邸中に響き渡る怒号に、当主であるエレオノールの父は身震いした。顔立ちや笑んだ時の表情などは愛する妻そっくりに育った娘である。しかしその怒りの激しさは、温厚な両親どちらにも似てなかった。妻は笑顔のまま静かにブチ切れるタイプであったし、自分はそもそも怒るということが少ない。どちらに似たんだろうか、ものすごく怖い、と妻と二人、いつも涙目になってしまう。
「何が甲斐性よバッカじゃないの!? この国の法律では奥さんは一人って決まってんのよ! 今度会ったら法律の本で頭をぶん殴って物理的に教えてやるんだから! お父様におねだりして何冊か買っていただかなくちゃ!」
怒ったエレオノールは独り言まで大きくなるタイプだった。
娘よ、そのおねだりはパパに使い道が聞こえないよう配慮してくれないと、恐ろしくて買ってあげられないよ、と。さらに震えを増した体がガタガタと音を立てる。
父のそんな恐怖などつゆ知らず、エレオノールの憤怒は勢いを増す。
「頭お花畑の娘には枯葉剤とか? この世界にもあるかしら。なければ何か、そうね……酸とか? 雑草対策の薬品が一つもないなんてことはないだろうし、庭師のトムさんに聞いてみましょう。あとはそうね、顔の原型が残らないくらいにはボコボコに殴っても構わないわよね、私は被害者だし」
何一つよくないのだが、今の彼女に声をかけられる猛者は、この邸には一人もいなかった。特に庭師のトムは、仕事道具を片付けている小屋に薬品類を一切合切すべて押し込んで鍵をかけた。旦那様にお願いして買ってもらった新たな錠を三つ、しっかりかけて鍵は使用人室に、これまた旦那様に買ってもらった金庫に入れた。ちなみに金庫も三つある。
「殺さないようにするのって難しいわね。頭の中でシミュレーションすると絶対に殺しちゃうから、半殺しくらいで止められるようになるまでは社会的に殺すための証拠集めだけにしておかないと……」
最後はベーコンだ。適当なサイズに切る。
大鍋に玉ねぎとベーコンをぶち込んで火をかける。じゃんじゃん炒めながらベーコンから油を出し、玉ねぎがしんなりしたところで残りの具材をすべて入れる。ざっと混ぜたらローリエを放り込む。朝食で、朝食で使うんですぅ、と頭を抱える料理長は記憶の中から押し出した。
残り少ないので次が準備できるまでは使わないでくださいね、と泣いていた料理長を消しゴムで消して、コンソメスープを大鍋に注ぎ込む。蓋をして、しばらくコトコト煮る。
今日もまた、キッチンを追い出されるまでの短い間で繰り広げられた料理長の懇願は全て無に帰した。どれだけ食材を潤沢に揃えようと、エレオノールの前では意味がない。何がどれだけ刻まれるのかはエレオノールのストレス次第。中途半端な量の食材が残されるのか、はたまた使う予定のない微塵切り野菜が残されるのか。すっきりさっぱりしたエレオノールの退室後、みんなでしくしく泣きながら作戦会議をするのがいつものパターンだ。防ごうにも、料理長はこれまで一度として勝ったことはないし、きっと今後も勝てない。お嬢様は今とてもお辛い目に遭っているのだから、と誕生から十八年、自分の料理で育ってきたエレオノールに同情心があるだけ、彼の勝ち目は減っていく。
「でも困ったわね。これまで結構な努力を積んでクリスの好みを極めてきたのに、それでも駄目となるともう、本当にどうしたものかしら……」
エレオノールは知っていた。理解していた。ここが起点であることを。ここが破滅の始まりであることを。そしてここが、乙女ゲームの世界であることを。
この国で先月発売されたとあるロマンス小説はこれから、破竹の勢いで民衆の支持を集める。それは貴族社会にまで侵食するほどの勢いで、そして悲劇が始まる。始まりはとある伯爵家の令嬢が、同じく伯爵家の婚約者から婚約を一方的に破棄されることから始まる。小説の中で紡がれた出来事とよく似たシチュエーション、よく似た構図で。
婚約者が恋慕した下級貴族の娘を、伯爵家の娘が妬心から虐め抜き、怒った婚約者の男が婚約破棄を突き付ける。伯爵家の娘は家族もろとも路頭に迷い、元婚約者の男と下級貴族の娘は身分を超えた真実の愛を手に入れ末永く幸せに暮らすのだ。
この出来事は貴族社会に、身分制度でがんじがらめになっている連中に衝撃をもたらすことになる。身分という最大級の障害を乗り越えた恋、真実の愛は、身分差を理由に諦めた恋を抱える上流階級の男たちを、身分差を理由に秘めた恋を抱える下級貴族の女たちを、途端に虜にする。心を奪う。
あっちこっちで真実の愛を見つけた二人が手に手を取り合うようになり、正式な婚約者たちは焦燥感に胸を焼かれるようになる。そして、正当な理由にせよ偽装にせよ、あっちこっちで婚約破棄が行われるようになるのだ。婚約破棄はいつしか社交界のトレンドとなり、遂には王族にまで魔の手を伸ばす。
エレオノールはその未来を知っている。そして、始まりの伯爵家が自分の家であることにも、真実の愛とやらを見つける男が自分の婚約者であるクリス・エバンズであることも、下級貴族の娘がアンナ・フランシス男爵令嬢であることにも気づいた。気づいてしまった。
そして今まさに、クリスがアンナと手に手を取り合っていることにも。
「……っっっっざっけんなっ! 何で私があんなバカのためにこんなに頭を痛めなくちゃいけないのよ!」
エレオノール・オルガは転生者である。地球生まれ日本育ち。しがない会社員をやっていた。ありとあらゆる手段を使って残業を回避し、のらりくらりと休日出勤を回避し、余暇という余暇をひねり出し、乙女ゲームをプレイし尽くし金をつぎ込んでいた、ただの女だった。日々、乙女ゲームに脳みそを浸す生活は体はともかく心を満たし、しかしあっさり死んだ。事故だった。新作乙女ゲームを購入しにチャリをかっ飛ばし、ほくほくと帰宅する道中。ちょっとした石っころを回避しようと大袈裟にハンドルを切った際、ママチャリの籠に放り込んでいた袋からゲームがずり落ちそうになったのを制止するため、何を思ったか両手を伸ばし体勢を崩し電柱に激突した。頭から嫌な音がして、何とか立ち上がったはいいもののふらついて後退した先は田んぼで、またまたバランスを崩し何を思ったか体をひねって手をつこうとしたのが運の尽き。顔から行った。顔から逝った。首から嫌な音がしたのを最後に意識は途切れ、気づいたら転生していた。
伯爵家の娘として生を受け赤ん坊らしく泣き叫ぶ自分を頭では冷静に、客観的に眺めつつ、自分の最期のアホっぷりに本気で泣いた。赤ちゃんだからしかたないもん、と言い訳してギャン泣きした。田んぼの泥って意外と固いんだな、とかそんなことを思って泣いた。二十七歳、ガチ泣きだった。
神様を経由していない転生であるため、特にチート能力は授からなかったし、知識チートできるほど経験豊富な人生を歩んでいなかった。そのためエレオノールはごくごく普通に成長した。伯爵家のご令嬢として、どこに出してもまあ恥ずかしくないかな、くらいの成長を見せた。二十七歳からの人生やり直しということもあって、少々ませた子ども時代ではあったものの、概ね普通のどこにでもいる娘になった。
お友達のご令嬢から発売されたばかりのロマンス小説のタイトルを聞くその瞬間まで、本当に普通の娘だった。ロマンス小説を読んでいる最中はちょっと人にお見せできないレベルで顔が溶けるところ以外、一般的な令嬢と変わりなかった。
『運命の歯車は星の乙女に微笑んだ』
タイトルを聞いた瞬間のエレオノールの動揺振りはすさまじかった。漫画でも今日日そうは見ない、硬直したまま手に持ったティーカップを落とすという定番をやってのけ、次の瞬間には立ち上がってふらつく。しかしそこはエレオノール。前世の嫌な記憶を繰り返すまいと力の限り踏ん張った。結果として、奇妙なポーズで表情を強張らせる気味の悪い伯爵令嬢の姿が爆誕した。お友達もさすがに引いていた。
そんなお友達に詰め寄って三度に渡りタイトルを聞きなおし、五度に渡って内容を確認し、もう勘弁してください、としくしく泣きだしたお友達を放り出して部屋へ駆け戻り、ベッドに突っ伏してギャン泣きした。
あんまりだ、神様それはあんまりだ、と。
その小説が登場する乙女ゲームを、エレオノールは知っていた。よくあるタイトルのよくある乙女ゲーム。一冊の小説に翻弄される恋愛シミュレーションゲーム。
いくらなんでもひどいじゃないか。伯爵令嬢としてスローライフ送る系のよくある異世界転生だと思ってたのに、と。エレオノールはわんわん泣いた。
スローライフ物ならチート能力なくてもいいやって、のんびり過ごしてたのに、と。エレオノールは熱が出るまで泣いた。
心配する両親をよそに延々と泣き続け、涙が引いたら今度は鬼の形相でぶつぶつ早口で何やら呟きだした。両親はもう気が気でなくて、お医者様どころか神官様まで家に招いたが、エレオノールは止まらなかった。
エレオノールは乙女ゲームを淡々とプレイするだけではなかった。時に深く考察し、友人と解釈を語り合い、時に不遇だったキャラにハッピーエンドをもたらすべく創作活動に勤しんだ、感情移入の激しい熱意ある暑苦しい女だった。
前世の経験をもとに、エレオノールは考えた。ゲームの登場人物にエレオノールという名前の人間はいなかった。もちろん、婚約者であるクリスも。では、この世界における自分とは何者か。考えに考え、そして調べた。シナリオ通りの展開がどこかで発生していないか。社交界で築き上げたすべての人脈を、時には両親の人脈までフルに活用して調べ上げた。
難航する調査と不明瞭な己の存在意義にいよいよ頭が痛くなった頃、エレオノールは気づいた。クリスが浮気している。相手は男爵家のご令嬢で、二人の言い分は『真実の愛を見つけた』というバカらしいもの。
――ああ、そうか。
そうして打ち立てた『私は乙女ゲームの起点である』という一つの仮説は、今のところ崩れそうにない。エレオノールたちの他に、真実の愛を理由に身分差の恋に熱をあげている貴族はいない。どころか婚約者が浮気しているという話すらない。であれば、このまま手をこまねいていれば自分は必然、クリスに婚約破棄され家族もろともおしまいだ。
――冗談じゃない。
たかが一冊のロマンス小説に人生を左右されて堪るか。私はこのまま伯爵家の令嬢としてスローライフを送るんだ、と。エレオノールの決意は固く、そして意志は熱かった。乙女ゲームのシナリオ崩壊など知ったこっちゃない。私は私の幸せのためならシナリオだろうが神様だろうが殴り飛ばすぞ、と暑苦しいほどの気合の入りようで、エレオノールは準備を始めたのであった。
しかし、状況は芳しくないどころかシナリオの思うままである。
「本当にまずいわ。乙女ゲーム開始時点から逆算した私たちの騒動まではまだ猶予があるはずだけど、確実とは言えないものね。来月エバンズ家で開催される夜会なんてもう嫌な予感しかしないわ。なんとかしなくちゃ。クリスの好みに沿うだけでは駄目だった。なら次の手は……」
ぶつぶつぶつとやっているうちに野菜が柔らかくなったので味見する。
「うん、美味しい」
どこにでもいる社会人だったエレオノールは、わりと自炊をする方だった。大鍋でカレーやらシチューやらおでんやら、今まさに完成したミネストローネやらを大量に作り食いつなぐ程度には、自炊をする女だった。一人暮らしの女がエネルギー補給のためだけに作る料理の味など、伯爵家の料理人がつくる食事とは天と地ほどの差がある。それでもエレオノールには慣れた味であったし、なにより食材を切り刻む工程は前世からやっている絶好のストレス解消法だった。
ここが乙女ゲームの世界だと気づき、自身に破滅が待っていると知って。そのストレスで気が狂いそうになったエレオノールはキッチンへ駆け込んだ。驚いている料理長をあれよあれよという間に追い出し、勝手に野菜という野菜をみじん切りにしたのが始まりだ。
『あーすっきりした!』
と、さっきまで怒鳴り散らしていたお嬢様とは打って変わって快活な笑みを浮かべるエレオノールに身震いする料理人たちへの罪悪感は、ストレスと一緒に消え去った。以来、何かあると鬼の形相でキッチンに乗り込むエレオノールを、料理人含め邸に勤める使用人たちは『切り裂き令嬢』と呼んでいるのだが、もちろんエレオノールはそんなこと知らない。
切り裂き令嬢の日、切り裂き令嬢警報、など使用人たちがエレオノール緊急連絡網を敷いていることも、もちろん気づいていない。
愛情込めて作りました。召し上がれ、と可愛い子ぶればみんな許してくれるので、エレオノールはこの手段でストレスを切り刻む行為をやめなかった。もちろん、邸中に響き渡る怒号に恐怖し、それほどまでに辛いのかと同情し、料理に込められたのが愛情ではなく怨念であると理解している伯爵家に、エレオノールを諫められる者などいるはずもない故のお咎めなしである。味も絶賛するほどではないが普通に美味しいので不満も出ない。エレオノールはこの辺、しっかり甘やかされた普通の令嬢だった。愛情とは時に、人生二周目の人間の目すら曇らせる。
「そうね……飴と鞭というものね。これまでは飴のつもりでクリスに合わせていたけれど、ちょっと調子に乗せてしまったわ。よし、鞭の出番ね!」
もちろんこの声も邸中に響いている。この日、オルガ邸からは鞭という鞭が消えた。
◇
時間とはあっという間に過ぎるもので、今日はエバンズ邸での夜会の日である。
伯爵家のご令嬢として、そしてクリスの婚約者として、きちんと整えられたエレオノールは親というフィルターを通さなくてもそこらの令嬢よりよっぽど美しかった。
しかし、夜会に参加しているご令嬢たちの中でも上位に入るこの美人は今、孤立していた。
クリスはエスコートだけはしたものの、あっという間に浮気相手のアンナところへいってしまった。ぽつん、と残されたエレオノールに同情的な目を向ける者は多いが、わざわざ声をかけには来ない。醜聞に巻き込まれるのを嫌がるのは誰でも同じだ。
そして当のエレオノールは早くもブチ切れていた。
クリスが褒めてくれて以来、会う時は必ず編み込んでいる栗色の髪も、クリスが好きな青を基調としてクリスの瞳と同じ金の刺繍が入ったドレスも、クリスが贈ってくれた髪飾りも、何一つ触れてくれなかった。定型句での挨拶、張り付けた外向けの笑み、規則的な入場、雑な言い訳。エレオノールがクリスと交わしたやり取りはそれだけだ。
エレオノールはクリスのことが好きである。
転生して、人生の総年数もそれなりになっているのだが、だからなんだ。エレオノールとして過ごした年月は赤ん坊からのやり直しであったし、赤ん坊の体にくっついている頭はどう足掻いても赤ん坊の頭だった。容量が小さければ皺もすくない。だからエレオノールは普通の赤ん坊にしては冷静だったし、普通の幼児にしては言葉の覚えが早かったし、普通の女の子にしては大人びていたけれど、前世の頃の延長として人生を歩めるほどに脳みそは足りていなかった。
ただでさえ前世の分の記憶を押し込めている脳みそだ。二人分の人生を接続して継続させるほどの余力はなかった。その故エレオノールは感情が揺れると抑制が間に合わず、悲しければギャン泣きするし、腹が立てばブチ切れた。前世の記憶だって年々薄れて、もう大学生になった辺りからしか思い出せない。そうやって少しずつ、エレオノールは脳みそを節約して生きてきた。
そんなエレオノールは、婚約が決まってから今まで、クリスをずっと想い続けていた。前世を含めれば自分よりずっと年下の男の子なのに、と悩んだことも当然あったけれど、結局は好きだと思った自分の心に従うと決めた。
悩んだり考えたりすると割れんばかりに痛む頭で、それでも必死に考えて必死に悩んで、クリスを好きでい続けた。
乙女ゲームだとかロマンス小説だとか、そんなものに振り回されて破滅することを避けるなら、クリスとの婚約を解消してしまえばいいとわかっていても。浮気を理由に解消して、新しい婚約者を探せばいいとわかっていても。そうしなかったのは、クリスを愛する気持ちに区切りをつけられなかったからだ。
「クリスのバカ……」
誰にも聞こえない声量で呟いて、エレオノールは壁際へ移動する。途中でいくつかデザートのお菓子をお皿に盛って、壁に背を預けフォークでちまちま口に運ぶ。甘くて美味しいはずのお菓子はどれも味がわからなかったが、食べることに集中すれば涙は出なかった。
今日の私はきっと会場で一番かわいいよって、お父様がお墨付きをくれたのに。きっとクリス様もびっくりしちゃうくらい綺麗だよってお母様も褒めてくれたのに。つらつらとそんなことが浮かんでは打ち消していると、不意に会場の一角で笑声が弾けた。
視線を向けると、アンナがクリスと笑いあっていた。楽しそうに、幸せそうに。それを見て、見つめ合う二人の姿を視界に入れて。
はち切れんばかりだったエレオノールの堪忍袋の緒は、あっさりブチ切れた。
「ああ、手が滑りました!」
抑揚のない平坦な声で言い訳し、大きく振りかぶってフォークを投げた。
びゅんっ、と。空を切ったフォークはまっすぐアンナの元へ飛び、その足元の大理石の床に突き刺さった。ひぃっ、と悲鳴を上げたアンナが飛びずさる。
会場の空気が凍りつく。
『え?』『何が起きた?』『フォークが飛んでった?』『床に刺さってるんだぞフォークなわけないだろ!』『じゃあ、あれ何だよ!?』『知るか!』『あれってエレオノール嬢が投げた?』『まさか!』『華奢なお嬢様が大理石にフォークを突き刺せるはずないじゃない!』
ざわつきが波のように広がって、会場はあっという間に混乱の渦に飲まれた。エレオノールは皿を配膳していた男に渡してから、クリスたちの方へ歩み寄る。こっそりいくつかナイフとフォークを調達するのも忘れない。
「あら、ごめんなさい。私ったらうっかり」
カーテシーを取りながら謝罪する。顔を上げるとアンナはもちろん、クリスまで真っ青になっていた。
「こんばんは、アンナ嬢。随分と楽しそうですわね。何を話していたの?」
「い、いえ……その、」
がくがくと震えるアンナを見ても、エレオノールは笑みを崩さない。
「そうだわ、アンナ嬢、私あなたに大切なお話があるの。向こうでお話ししましょう?」
ショックのあまり忘れていた。今日は、飴ではなく鞭の番だった。
エレオノールはこの日のために、アンナを社会的に殺すための証拠を集めに集めていた。それはもうたくさん出てきた証拠の数々を、顔に叩きつけてやるつもりで臨んでいたのである。
「あ、あの私……」
「私とはお話しできない理由でもあるのかしら? ないわよね? さあ、行きましょう」
手を引いたりはしないが、拒否させるつもりはなかった。男爵家の令嬢が伯爵家の令嬢に逆らえるはずもない。アンナは真っ青な顔をしたまま重い足取りでエレオノールについてきた。
「ま、待ってくれ!」
二人の背に声をかけて追ってきたのはもちろん、クリスである。
会場の外、クリス邸へ続く扉の前まできた二人を、クリスが止める。
「エレオノール、アンナをどこへ連れて行くつもりだ?」
ぶちぶち、と頭の中で音がする。
「話ならぼくも行こう。君は怒ると何をするかわから――」
だぁんっ!! と。
投げたナイフがクリスの頬をかすめ、背後の壁に突き刺さった。
「あら、ごめんなさいね」
エレオノールはにっこり笑んで、普段と変わらぬ調子で近づき、触れそうなほど顔を近づけ、ナイフを抜き取った。
「私ったらまた、手が滑ってしまったわ」
クリスの膝ががくがくと震えている。
「クリス、もちろんあなたも来てちょうだい。私たち三人にとって、大切なお話だもの」
「ひ、は……はい」
クリスは少しだけ席を外すことを招待客たちに詫び、そそくさと会場を出た。適当な部屋に三人で入り、さっさと扉を閉め鍵をかける。
「そ、それでエレオノール。話って――」
だぁんっ、と。
本日三度目となるその何かがどこかに突き刺さった音に、アンナもクリスも凍りついた。おそるおそる音の方へ顔を向けると、それは部屋の中央にあるテーブルにナイフが刺さった音だった。
「手が滑った」
もちろん嘘である。話の主導権を握られそうになって、とっさにキレたエレオノールの短絡的行動の結果である。
「私と婚約関係にあるクリスがアンナ嬢と浮気している件について、しっかりお話ししましょうね」
ずばり切り込んだ。
「私のお話が済むまでは誰も部屋から出しません。逃げようとしたら私、今度はどこに手が滑るかわかりません。うっかりさんなので」
もちろん嘘である。故意に手を滑らせているし、いつだって全力投球しているに決まっている。狙いを完璧に調整できるよう、血の滲むような努力をしてきた。練習のために一体何体のぬいぐるみを惨殺してきたことか。繕ってくれるメイドはエレオノールの悲しみを思って泣いていたし、時にはぬいぐるみの悲惨な状態に吐いていた。
「さ、まずは二人とも座って。大丈夫、少し時間がかかっても、会場の方はクリスのお父様が仕切ってくださいます」
アンナと、特にクリスはわかりやすく動揺した。ここで父親が出てくるとは思っていなかった。感情の制御が苦手なエレオノールは、感情のままに理性を置き去りして、周囲が目に入らなくなることが常だった。だから会場のことなど考えず二人を連れ出したのだろうし、フォークやナイフを投げるという目立つ真似をしたのだろう。当然そうだと思っていたし、エレオノールの暴走だと信じていた。度々アンナとの関係に苦言を呈していた父親が黙ったのは、二人の愛を認めたのだと、疑わなかった。
「まずは二人の関係ね。この国では奥さんは一人しか選べないの、知ってるよね。だからクリスは私と婚約しているままではアンナ嬢と結婚できないんだけど、どうするの?」
言葉にすることが大切だ。自分の意思を、考えを。言葉にして相手に示すことで、伝わる何かもあるだろう。
「ぼ、ぼくは……」
「私は! クリス様と真実の愛を見つけたんです。私はクリス様と結婚したい。愛している方と一緒にいたいです」
アンナがそう言うことは予想通り。エレオノールはクリスの返事を待たずに次の質問をする。
「そう、アンナ嬢。あなたの言う真実の愛というのは、何かしら?」
「何って……どういう意味ですか」
準備してきた調査結果を記した書類束をテーブルに置く。
会場から一番近いこの部屋に行くことは決めていた。クリスの父親にも許可を取ってある。クリスが別の部屋に入ったら取りに行くつもりだった。
エレオノールはちゃんと準備してきたのである。感情に任せて怒り狂う傍らで、ちゃんと考えて行動した。オルガ伯爵家の野菜という野菜が切り刻まれる事態になってもやめず、止まらず、証拠を集め続けた。
その結果が今、テーブルの上に乗っている。
アンナがクリスの他にも多くの男性に声をかけていたこと。対象はすべて下級貴族の出で、ある程度の貢物をすると全員きっぱり捨てられている。彼らから贈られたプレゼントをすべて売り払ってお金をつくっていたこと、そのお金で魔石を買ったこと。
魅了の魔石。この国では所有も使用も禁止されている、違法の品だ。近くにいる人間の感情を強制的に捻じ曲げて愛を植え付ける魔法の石。それを頼りにクリスに近づいたことも、調べはついている。
「アンナ……? 本当なのか?」
「ち、違います私は――」
「私の父と、クリスのお父様の連名で、あなたの家を調べるよう手配してあります。今頃あなたの部屋から魔石が回収されていることでしょうね」
アンナは絶句した。予想もしていなかった事態である。
アンナの知るエレオノールは、どこか周囲を俯瞰してみているような不気味さと、クリスへの恋心を隠せていない不器用さを併せ持つ、よくわからない存在だった。振り切れた感情を制御するのに苦労する程度には幼いのに、不思議と自分とはまるで違うものを見ているような空気があった。
一目惚れしたクリスを手に入れるために燃やした対抗心は、いつだってエレオノールに勝てなかった。魔石を買って、クリスの心を強引に手に入れなければならないほどに。
「え、エレオノール待ってくれ」
「待ちません」
有無を言わせない強さがあった。
「アンナ嬢、魔石の件は言い逃れができないからあなたは罪に問われるわ。だからクリスとの恋人ごっこはもうおしまい」
「そんな……私、私はただ、」
ただ好きな人と一緒にいたかった。
「あなたの気持ちなんて知らないわ」
部屋の扉がノックされた。
エレオノールは立ち上がって、鍵をあける。
「アンナ嬢、あなたとのお話はこれでおしまい。さようなら」
「待って嫌よ! 私は――」
「さようなら」
部屋に入ってきた警察が、問答無用でアンナの腕に手錠をかける。
ぱき、と軽い音がした。魔封じの錠。一定範囲内のすべての魔法を無力化する。アンナが実家に置いていた魔石を通じて発していた魅了の魔法が封じられ、効果が打ち消された。アンナは糸の切れた人形のように脱力し、警察に支えられながら退室した。反動がきたのである。
「さて、次はあなたね。クリス――」
扉を閉め、鍵をかけ、振り返った先。
クリスが土下座していた。それはそれは見事な土下座だった。
「クリス?」
「エレオノール、すまない。ぼくがバカだった」
アンナと魔石の繋がりが途切れた瞬間、クリスは冷静になった。ここ最近ずっと霞がかっていた、アンナへの愛しか考えられなかった頭が明瞭になった。
エレオノールにかけた言葉の数々を、エレオノールに見せた態度の数々をすべて思い出した。顔から血の気が引くのが自分でもわかり、膝をついたのは無意識だった。
目の前に立つエレオノールの、なんと美しいことか。一度、可愛いよ、と言って以来、会う時は必ず編み込んでいる栗色の髪も、好きだと言った青を基調としてクリスの瞳の色の刺繍で飾ったドレスも、クリスが贈った髪飾りもすべてが愛おしい。思い出した。世界で一番大好きで、世界で一番幸せな女性にしてあげたい相手のことを、クリスは思い出した。思い出したから、土下座した。
「ひどいことをした、ひどいことを言った。どれだけ謝っても足りない。でもお願いだ。怒鳴って詰って殴ってしまいたいだろうけど、そばにいることだけは許してください」
ナイフで刻まれようがフォークで抉られようが構わなかった。そばにいて、愛していると伝えて、失った信頼を取り戻すチャンスを確保するためなら、見目が傷だらけになることも厭わない覚悟だった。どうせエレオノールでなければ駄目なのだ、エレオノール以外の女性に容姿をどうこう言われても、クリスは痛くも痒くもない。
こんなに愛している女性がいるのにぼくは一体何をやっているんだ大馬鹿者め、と心の中で何度も自分を殴りつける。真実の愛はエレオノールとこそ見つけたはずのものだったのに。
「クリス」
涙に濡れた声に頭を上げる。エレオノールは目にいっぱい涙をためていた。
「私のこと、好き?」
「もちろんだ! 君だけが好きだ愛してる!」
クリスの渾身の叫びに、爆音のような告白に、エレオノールの涙腺は決壊した。理性で押さえつけていた感情が、限界を超えた。
胸いっぱいの悲しみと怒りと恋しさが入り混じって、エレオノールはわんわん泣いた。慌てて立ち上がり抱きしめてくれるクリスの胸に縋り、地団太を踏むついでにクリスの足を踏み、ギャン泣きした。
「クリスのバカ! 魔石のせいとか小説のせいとかシナリオのせいとか言ったって駄目なんだから! 何が真実の愛よ!」
「うん、ごめん。ごめんエレオノール」
クリスは耐えた。エレオノールがさっきから的確に小指を踏みつけてくる。ものすごく痛い。
「乙女ゲームが何よ! クリスは私の婚約者よ誰にも渡さないわよバァカ!」
「うん、ぼくは君の物だよエレオノール。大好きだよ」
そろそろ爪が割れた気がする、と冷や汗をかきながら、クリスは耐えた。オトメゲームという謎の単語を気にする余裕もない。ものすごく痛い。
「また浮気したら許さないから! 顔の皮をむいて肉をみじん切りしてシチューにして食べさせるから!」
「う、うん二度としないよエレオノール。愛してるよ」
少し寂しいけれど、小指はもう駄目だろうからさよならしよう、とクリスは腹を括った。そんなことよりも、エレオノールの罰は想定したよりずっと恐ろしい。ナイフで刻まれフォークで抉られるなんて児戯だとすら思える。
「私よりアンナ嬢の方が可愛いと思ったの!?」
「エレオノールの方が可愛いです!」
「アンナ嬢の胸の方がいいの!?」
「エレオノールのむ、胸の方がいいです!」
「じゃあ今回だけは許してあげるからもう一回好きって言って!」
「可愛くて胸の大きなエレオノールのことが大好きです!」
「私もクリスが好きよこの話はこれでおしまい!」
「ありがとう!!」
エレオノールはどんどん声量を増し、合わせたクリスもどんどん声量を増した。おかげで二人して肩で息をするほど呼吸が乱れた。
ゼェゼェハァハァとしばらく激しい呼吸の音だけが響き、整う頃には可笑しくなって今度は笑い過ぎて腹が痛んだ。
「エレオノール、ありがとう」
和やかにエレオノールの手をとり、指先に口づけようと顔を寄せた瞬間、鍵のかかった部屋の扉がはじけ飛んだ。
入室したのはクリスの父と、エレオノールの父だった。前者は怒りでこめかみに青筋を立て、後者は悲しみで目に涙を浮かべていた。
「クリス、醜態をさらすのも大概にしろ!」
「エレオノール、レディとして今のは駄目だ」
クリスの爆音の告白辺りから、二人の声は扉を越え壁を越え夜会の会場中に響き渡るほどうるさかった。
魔石を回収しアンナの身柄を領主の元へ送る手配を整え、クリスとエレオノールを案じて胃を痛めていた父親二人は、反響する子どもたちの声に頭を抱えくずおれたのである。もう一体どれだけの人に頭を下げて回らなければならないのか見当もつかないと途方に暮れかけた頭に喝を入れ、恥ずかしい子どもたちを回収すべく駆けた。
『仲直りできたようでなによりですわ』『まあまあ、無事に収まったようでよかったじゃないか』『あらあらお若いわねお二人とも』
などと慰めるように言葉をかけてくれていた招待客も、顔の皮をむいて云々の下りで青褪め、可愛くて胸の大きい云々の下りで気まずい咳払いをあちこちで振りまき解散となった。見なかったことにしよう、聞かなかったことにしよう、と引きつった笑みで帰って行った。
「クリス、しっかり反省しろ馬鹿者め」
「エレオノール、もうすこし落ち着きをもって行動しなさい」
はい、申し訳ありませんお父様。ぴったり声を合わせ、二人はその場に正座した。床に触れるほど頭を下げる二人の土下座は、それはそれは見事だった。
こうして乙女ゲームにつながる悲劇の始まりはさまざまな人の心に大きな爪痕を残しながらも阻止された。魔石の件はもちろん問題になったものの、それよりも渦中のご令嬢がヤバ過ぎるという方が話題となった。
真実の愛を理由に手に手を取った連中は、悉く婚約者からフォークを投げつけられ足の小指を踏み潰され、実際に顔の皮をむかれる寸前までいった者もいたという。そして、ご令嬢たちの間で、婚約者の浮気予防になる、という理由で料理がちょっと流行った。もちろんそんな効果はない。
そして、
「切り裂き夫人襲来です! 早くベーコンを隠して!」
「誰か! 奥様のお誕生日にしかけるサプライズのために張り切り過ぎて時間を忘れてる旦那様を執務室から引きずり出してきて!」
「あれほど奥様との時間を忘れずにとご忠告申し上げたのに! おい早くお連れしろいけに……げふんげふんっ」
「ああエレオノール様それだけは卵だけはあああ!」
噂の起点エレオノール・エバンズ伯爵夫人の邸では今日も、死んだ魚の目をした奥様によって料理人全員がキッチンから追い出されていた。