第2話 ようこそフォーチュン温泉へ
「メイド隊。航海士の到着まで、あと一五分だ。波をかぶったまま港湾鉄道に乗ったそうだから、初夏とはいえ体が冷えてるだろうね。風呂と彼女の着替えの手配を頼めるかな?」
アオバがリンシアからの連絡を受けて、迎える準備を指示する。
「アオバ先生。アイドル航海士の子、無事だって?」
「らしいね。ここより爆心に近いところにいたけど、波をかぶっただけで済んだみたいだ。ケガはないみたいだよ」
ショーコの問いかけに、アオバがそう答えて安堵する。
「爆心の近くにいて、よく無事だったわね。こっちは、けっこうな被害が出てるのに」
「そりゃあ積み込み作業中に真横からの津波を受けたら……ねぇ。まだコンテナの固定が終わってないんだから、イヤというほど荷崩れが……」
アオバがそう答えて、甲板に目を向けた。
そこでは積み荷のコンテナが崩れて、作業員たちが大わらわしている。桟橋でも停まっていた貨物列車が、海に落ちないまでも何輌かが脱線してレールからハズレている。
それらの被害を見ながら、
「あっちは強い衝撃波には襲われただろうけど、ほぼ真上で爆発したみたいだからね。津波は起こらなかった……ってところかな」
などと口にした。アオバはリンシアが無事だったので、津波が起きてたとは思いもしなかったのだろう。おそらく爆風で飛び散った波を、頭からかぶった程度に考えているようだ。
そのアオバが、次に空を見上げた。
「白い嵐現象が起こりそうだね」
きのこ雲のような積乱雲が、空に向かって勢いよく伸びていた。隕石爆発のあったあたりだ。
「あの白い嵐現象で、また津波が来るかな?」
「どうだろう。あのサイズでは起きないんじゃないかな? というか、ショーコくん。白い嵐現象で起こされるのは津波じゃなくて、正しくは高波だからね」
ショーコの言葉を訂正しつつ、アオバが視線を戻してくる。
「津波じゃないの?」
「津波を起こすのは、原因が地震、火山、隕石などの地質学や天文学的なものの場合だよ。白い嵐現象で起きる波は風が原因だから高波。ついでに台風や低気圧などの気圧差で起こるのが高潮だ。海洋クラスには常識のはずなのだが……」
「あ、ヤバイ……」
ショーコの腰が引けた。
「やっぱりショーコくんは勉強が足りないみたいだね。担任として……」
「補習はいいで〜す!」
「あ、逃げるんじゃない!」
手すりを飛び越えたショーコが、そのまま船橋の窓枠などを足がかりに減速しながら、三階分はある高さを飛び降りてしまう。
「おいおい。運動神経はすごいとは聞いてたが、冗談だろ……」
さすがにアオバには追いかけられなかった。甲板に降りて逃げていくショーコを、目で追うことしかできない。
──ピンポンパンポ〜ン……
その時、港にあるスピーカーから、音声が流れてきた。
『ティー・レース実行委員より、ご連絡します。先ほど、隕石災害が起きました関係で、レース開始時間等の協議を行います。参加予定の船で被害が出てましたら、至急復旧作業にかかる時間をお知らせいただきますようお願いします』
「これは開始時間、繰り下げ……かな?」
アオバがそう言いながら、周りにいくつものモニターを浮かべた。情報収集だ。
ところがその前に、
「アオバ先生。実行委員会から連絡です」
船橋に続くドアが開いて、中から執事服を来た若者が顔を出してきた。
「『レース開始は午後二時以降になる』だそうです」
「おう、リグくんか。了解した」
アオバがそう言って、情報収集の手を止める。そのアオバが、
「ところでリグくん。若さまはどうしてるかな?」
と、執事服の若者──リグに尋ねた。
「若さまなら自室でお仕事中です。サボってなければ……ですが」
「そうかい。まあ、そういうことにしておこうか」
そう言ったアオバが、調べ始めた情報に目を通す。
「レースの開始が遅れそうだが、昼食はどうするつもりかね?」
「その件で若さまが、一時からミーティングを兼ねて、全員そろって食事はどうだろうかと……」
「それはいい考えだね。それまでにはリンシアくんも来るだろうし……」
アオバがそこまで言いかけた時、
『アオバ先生〜。誰か来たよ〜!』
一度逃げたショーコが、甲板を駆け戻ってきた。
「もう来たのかい?」
アオバが話を聞いて、浮き桟橋の入り口の方を見る。
『あのドレス着てるの、もしかしてアイドル航海士の子じゃない?』
そう言ったショーコが、駆けてきたままの勢いで船橋の壁を駆け上がろうとする。
ジャンプして窓枠に足をかけ、更に高く上がってくる。ところが、
『うわぁ〜。ちょっと足りなかったぁ〜……』
見張り台の床に手をかけたところで、もうそれ以上登れなかった。そのまま床にぶら下がったまま、動きが止まってしまう。
それを見てあきれたリグが、
「我が船の操舵長は、なかなかの命知らずとは聞いてましたが……」
と零して、手すりをぴょんと飛び越えた。そして手を伸ばして、
「ここまで無茶をされるとは思いませんでしたよ」
と苦言を口にしながらショーコの腕をつかんだ。
「あはは、ありがとう」
「お礼を言う前に、まずは反省の言葉が欲しいですね」
「うん。次からは、ちゃんと登れるようにするわ」
「……そっちの方へ反省されても……」
ショーコの答えに、リグがまたあきれる。
そんなショーコを横目でみたアオバは、
「運動神経のレベルが違う……」
と、とんでもない行動を見せられて、小言の続きを言えなくなっている。
そんなアオバにショーコが、
「それよりも先生、あそこ。あの青いドレスの子じゃない?」
と言って指を差した。
「あのドレスの子かい?」
アオバがそう言いながら、近くに新しいモニターを浮かべた。
天井にある固定カメラが、ジジジと音を立てて向きを変える。それが撮った映像だろう。それがモニターに表示される。
モニターの映像が浮き桟橋の入り口方向で固定された。
たしかに誰かが船に向かって歩いてきている。
「これは……誰だい?」
モニターの映像が拡大された。使ったカメラの望遠の限界か、顔までは判別できない。だが、水色のチャイルドドレスを着た女の子が、大きなリュックサックを背負ってこちらに向かってきてるのがわかる。
長い金色の髪の女の子だ。そこに黒い猫耳のカチューシャをして、お尻にもアクセサリーなのか黒い尻尾が揺れているのが見える。
その女の子の後ろから、貨物列車が入ってきた。それが女の子を追い越し、桟橋の向かい側に止まった貨物船の側へ入ってくる。
◆◇◆◇◆
その貨物列車では、
「なんだ、リンシアちゃんも武漢で降りて、そこから同じ列車で南昌まで来てたのか。まったく気づかなかったなあ」
「あたしと同じで、ギリギリで向かってる人がいるとは思いませんでした」
リンシアと若い船乗りが、そんな話をしていた。
「でも、ポールさんはすごいですね。GPSに障害が起きてるのに気づいて、影響されない港湾鉄道を使うなんて……。あたしなんか何も考えずに在来線で南昌港駅まで来て、そこから無人タクシーを使っちゃいましたから。おかげで……」
「おかげでリンシアちゃんと出会うことができたわけだ」
若い船乗り──ポールが、リンシアの言葉を拾ってそんなことを言う。
貨物列車が浮き桟橋に入るところで、速度を落として徐行し始めた。浮き桟橋は潮位によって高さが変わるため、安全のために徐行してるのだ。
そこを利用して、
『もう一つ先まで行って欲しかったな』
『仕方ないさ。じゃあ、ありがとよ』
港湾内の移動に使っていた船乗りや作業員たちが、次々と列車から降りていく。列車は彼らが歩くよりも遅い速度だ。
「まさか桟橋まで同じだったとは……」
ポールとリンシアは、乗ったまま桟橋へ入っていった。
「おいおい。いくらティー・レースだからって、昔ながらの帆船で参加するのか?」
右側に泊まった帆船を見て、ポールがそんなことを言う。
そのポールが船尾に書かれた船名を見て、
「ヒューアジェウン……」
アルファベットをそのまま読んでしまった。ちなみに船名は、上に大きく漢字で書かれ、その下に読み仮名のようにアルファベットが添えられている。
「あれでフォーチュンって読むんですよ。英語の『幸運』に掛けてますけど、華南国の『華』に、速いの『駿』を組み合わせた名前です」
訂正したリンシアが、見張り台の人影に気づく。
「あ、すみません。到着したことを報せないと……」
断ったリンシアが、チョーカーのプレートに触れた。と同時にリンシアの近くに通信用のモニターが浮かび上がる。
「あ、アオバ先生ですか。今、到着しました。桟橋に入ってくる貨物列車が見えると思うんですけど、それに乗ってます」
『そうかい。わかった。出迎えに下りるよ』
短い通信が終わった。
「あの三人の中にアオバ先生がいたみたいですね」
リンシアの見えてる前で、見張り台にいた三人が船橋の中へ消えていった。
それを見るリンシアの乗る貨物列車が、歩いている女の子を追い越していく。
「お待たせしました〜!」
列車が船のあるところまでやってきた。
列車から体を出したリンシアが、出迎えに出てきた三人を見つけて大きく手を振る。その三人はタラップを降りているところだ。
その三人を追い越したあたりで、リンシアの乗る貨車が動きを止める。
帆船の側にも貨物列車が停まってるが、そちらはほとんどコンテナを下ろしたあとだ。そのため視界を奪う目隠しにはなってない。
「さすがに濡れたままだと体が冷えるね。リンシアちゃんは大丈夫かい?」
「あたしも寒いです。早く乾いた服に着替えたいですね」
初夏とはいえ二人とも吹きさらしのデッキに乗ってきたため、風で体が冷えていた。
「じゃあ、風邪を惹くといけないから、名残り惜しいけど、ここでお別れだ。お互い、いいレースをしようね。で、次に会った時にはサインを……」
「ありがとうございました、ポールさん。でも、あたしはアイドル活動してないので、サインはちょっと……ねぇ」
そんな言葉をかわしながら、二人が自分の乗る船の側へ降りた。
リンシアが荷物のないコンテナ車が動かないのを確かめて、デッキを乗り越えて船の側へ行く。それとほぼ同じタイミングで、出迎えに来た三人も桟橋へ降りた。
「海洋クラスへようこそ。担任の青葉未来人だ。きみが茉鈴夏くんで間違いないかな?」
最初に声をかけたのはアオバだった。その前まで行ったリンシアが、
「はい。間違いありません。これからお世話になります」
と、深くお辞儀する。
「あなたがアイドル航海士ね。あたしは立花翔子。この船の操舵長よ」
続いて名乗ったのはショーコだ。そのショーコの後ろに立ったリグが、
「きみの所属する芸能事務所の、先輩でもあります」
という補足を加えてくる。
「待って、リグさん。あたし、芸能活動してるつもりはないから」
ショーコは慌てて否定した。
「自分から芸能事務所に所属したのは、間違いのない事実でしょう?」
「あれはお金を稼ぐために、ヨットレースに応募した結果で……」
ショーコはリグの言葉を否定できなかった。そのショーコの隣に立って、
「あのぉ〜、芸能事務所って、どういうことですか?」
リンシアも物を言う側にまわっていた。先にポールと出会ってなかったら、おそらく聞き流してたかもしれない疑問だ。
「申し遅れました。わたくしは下竜把琉。この船の所有者であらせられる桃豊裕さまの専属執事として乗り込んだ者でございます。わたくしのことはリグとお呼びください」
「はい……。それで芸能事務所って……?」
リンシアが気になるところを聞き返そうとする。ところが、
「あ、それよりも、あの子……」
リンシアは、それよりも気になることに意識が向かっていた。
そのリンシアの指差す先には、こちらにあいさつもせず、黙ってタラップに乗り込もうとする女の子がいる。水色のチャイルドドレスを着て、大きなリュックサックを背負った女の子だ。
「むっ! 密航者です!」
真っ先に反応したのはリグだ。
「待ちなさい! キティ!」
駆け出すと同時に、大声で女の子の名前を呼ぶ。顔見知りのようだ。
「うわぁ! 見つかったですぅ」
女の子がリュックを背負ったまま、タラップを駆け上っていった。
リュックにぶら下がった中華鍋やお玉が、カチャカチャと音を立てる。
当然、大荷物を持った子どもの足だ。
「降りなさい。親御さまが心配されますよ」
あっさりとリグに捕まって、船から引きずり下ろされようとしている。
「イヤですぅ〜。若さまのお食事は、あたしが作るですぅ〜!」
「必要ありません。船には調理用のヒューマノイドが乗ってます」
「若さまに機械の作った料理なんて、食べさせたくないですぅ〜」
女の子──キティが、手すりにしがみついて抵抗する。おかげでタラップが塞がれてしまい、誰も船に乗り込めなくなった。
「アオバ先生。あの子は?」
「さあ、リグくんの知り合いかねぇ?」
ショーコの質問に、アオバがそんなふうに答える。預かり知らぬ子のようだ。
タラップでは、
「いい加減に観念して下りなさい」
「イ〜ヤ〜で〜すぅ〜!」
キティが手すりに抱きついて、意地でも動くまいとしている。
そんなキティのささやかな抵抗なのか。それとも偶然か。リュックにぶら下がったお玉と中華鍋が、振りまわされて何度もリグの頭に当たっている。パコンパコンとリズミカルだ。
そこへ船の上から、
「何かありましたか?」
と、若い男性が声をかけて、顔を出してきた。
「若さまですぅ!」
若い男性の姿を見て、キティが声をはずませる。
「おや? どうしてキティが……」
「申し訳ございません。密航です。勝手に来てしまいました」
リグがそう答えながら、どうにかしてキティを引きずり降ろそうとする。
「勝手に? それは困りましたねぇ」
「勝手は失礼ですぅ。若さまの料理番は、あたし以外にいないですぅ」
「それを勝手と言うのです。いいから下りなさい」
「イ〜ヤ〜で〜すぅ〜!」
同じことの繰り返しだ。だが、
「リグ。ここまで来て追い返すのは可哀想です。キティの好きなようにさせましょう」
「わ、若さま?」
リグが驚いた顔で、若い男を見上げた。
「あの人は……?」と聞いたのは、桟橋から見上げるリンシアだ。
「あの方がこの船の持ち主、タオ財閥の御曹司──桃豊裕さまだ。ついでに海洋クラスのクラス長ってことになってるよ」
アオバがそう答えて、上にいるユイウェンに軽く会釈する。
その間にリグから逃げていたキティが、若い男性──ユイウェンの背中に逃げている。そのキティは、ユイウェンの背中から顔を出して、まだタラップにいるリグにベェーッと舌を出していた。
そんなキティの頭にポンと手を置いたユイウェンが、
「これで全員そろいましたね。早く乗り込んでください」
下に残るメンバーに、そんな声をかける。それを聞いたアオバが、
「ここはリンシアくんが一番だ。早く風呂で温まって、乾いた服に着替えないと……」
と言って、リンシアの背中を押した。
「お風呂……ですか。シャワーだけでいいです。お船のお風呂は……ちょっと……」
リンシアがためらった。それにショーコも、
「そうよねぇ。造水機のお水って、なぜか洗っても体がベタベタして……」
と、否定的な意見を言ってくる。
「そのあたりは大丈夫だよ。この船で使う水は、基本的には発電時に出てきたお湯だからね。造水機で作ったお湯は使ってないよ」
アオバが、すぐに二人の心配を打ち消そうとしてきた。
「発電……ですか?」
すぐに問い返してきたのはリンシアだ。それにアオバが、
「この船は帆に仕込んだ光合成パネルでアルコール燃料を作って、それで燃料発電してるんだ。だから船内で使われる水は、すべて発電で出てきた純粋なお湯。造水機はいっさい使ってないよ」
と安心情報を伝えてきた。
「そっか。じゃあ、ベタベタは……」
それにショーコが安心するが、リンシアは、
「あのぅ、それで出てきたお湯ってことは、かなり純度の高いお水……ですよね? 造水機のお水より、問題が大きくありませんか?」
と言ってくる。
「リンシアくんは、さすがによく勉強してるね。造水機で作ったお水はミネラル分が低すぎて、石鹸やシャンプーがうまく泡立たないからね。それでしっかり洗えないのが、船のお風呂ではベタベタする原因だ。あまり手の内をさらしたくなかったけど、リンシアくんは言いくるめられなかったか」
アオバがそう言って肩をすくめてみせた。それを聞かされたショーコが、
「あたし、言いくるめられた……わけ?」
自分を指差して不愉快そうな表情になっている。
「そこで答えだ。この船で使う水は基本的には燃料発電で出てきたお湯そのものだ。水の純度が高いから配管をあまり傷めないで済むからね。でも、お風呂や食事で使う分には問題があるだろう。そこで……だ。ミネラル分を加える意味で、取り敢えず調理で使う分は濾過した海水を三千倍に、お風呂に使う分は海水を千倍に薄めて調整してるんだ。何でそんな比率かと言うと、水道水と温泉に合わせたとでも思ってくれ。ただし、この比率はまだ研究中だからね。これから少しずつ変わっていくと思うよ」
「つまり自分用にカスタマイズできるんですね。それなら安心です」
アオバの説明に、リンシアが興味を示した。一方でショーコは、
「今の、水の呪文? わからないあたしには水の属性がないのかな?」
完全に理解の限度を超え、思考が斜め方向へ時空移動している。
「ということで、早く温まってきなさい」
「はい。では、お言葉に甘えて」
リンシアの態度が、先ほどとはコロッと変わっていた。そのリンシアが、早くお風呂へ入ろうとタラップを駆け上がっていく。
「いらっしゃい。お風呂へは彼女に案内させますよ」
甲板に上がったリンシアに、そう声をかけたのはユイウェンだ。
そのユイウェンの後ろにはリグとキティの他に、一人のメイドが控えている。
そのメイドが、
「それでは案内いたします。リンシアさま、こちらへどうぞ」
と言って、船橋のある建物へ入っていった。
「あいさつの時間はあとで設けますから、早く体を温めてきてください」
ユイウェンがリンシアが動きやすいようにと、そう言ってうながす。それに、
「ありがとうございます。では、あいさつはあとで失礼します……」
と断って、リンシアも建物へ駆けていった。
◆◇◆◇◆
「うわぁ〜、広いですね。いったい何人で入るんですか?」
お風呂に入ったリンシアは、浴室の大きさに、思わず声を上げていた。
泳げるほど大きな浴槽に、お湯がなみなみと満たされている。その浴槽の奥には壁全面を占める大きな窓があり、そこから港がよく見えていた。
『リンシアさま。お召し物をお預かりします。お出になる頃までにお着替えを用意いたしますので、ごゆっくりお温まりください』
脱衣所から、メイドが声をかけてきた。それにリンシアが、
「あ、はい。ありがとうございます」
かしこまった感じで答える。
「さすがは大財閥の御曹司さんの乗る船ですね。メイドさんがいるなんて……」
リンシアがそう零して、大きく息を吐いた。かなり緊張してたようだ。
その気持ちを落ち着けるように、洗い場のシャワーで汗と汚れを流し始める。
「メイドさん、何人乗ってるんでしょうか。ここに来るまでに、三人……すれ違いましたけど……」
などと考えながら、湯船に入っていった。
「五〇人ぐらい入っても余裕でしょうけど、まさか、ねぇ……」
お湯に浸かりながら、リンシアが大勢で入る光景を想像する。
「でも、今日はここを独り占めできて、役得です」
体が温まってきて、気持ちがリラックスしてきた。お湯の中で手足を伸ばして、
「今回の依頼は海洋クラスに編入して、ティー・レースを戦うこと。南昌からリバプールまで約一か月でしょうかね。そのあとはわかりませんけど、その間はここを使えるんですね」
と、これからの情報を整理する。
「それはそうと……」
リンシアの目が、窓辺にある気になるものに向かった。
そこには大きな浴室とは別に、窓に接するように岩風呂のある一角があった。そこだけ洗い場も大きめの石を敷き詰めた床だ。岩風呂の横には丸太を斜めに切って作った楕円形の立て看板があって、日本語で『フォーチュン温泉』と書かれている。そして看板には更にプレートが下がっていて、そこには『本日は美肌の湯』とあった。
岩風呂は浴室とは違って小さいが、それでも三人ぐらいは余裕で入れる大きさがある。
「なんで船の中に温泉が……。しかも白いにごり湯で、硫黄の匂い……」
岩風呂に近づいて、お湯をすくった。
「本物の硫黄だったら、中毒の恐れがありますけど……」
と考えるリンシアだったが、すぐに天井にある換気口に気づいた。
換気がしっかりしてるからだろう。お風呂場は大量のお湯で湿気っているはずだが、それほど湯気は立ってない。
岩風呂のお湯は大きな浴槽よりもかなり熱めだが、湯気の多くは湯面の近くだ。離れた湯気は風に乗って、天井にある換気口へ吸い込まれていく。
「えっと……。入ってもいい……のかな?」
今は一人だけなのに、なんとなく周りを見た。もちろん誰かの目があるわけではない。
「うぅ〜。ちょっと熱いです……」
足の先を入れて、少しためらった。でも、
「本当に温泉ですぅ。これはぁ……」
温泉という言葉の誘惑には勝てず、そのまま熱さを我慢しながら肩まで浸かる。
「ふわぁ〜。極楽ですぅ〜」
リンシアの口を衝いて、定番の言葉が飛び出した。適当な岩を枕に寝転んで、湯船にプカプカと浮かぶ。お風呂を独り占めしてるからこそできる贅沢だ。
そのまま時間を忘れて、寝てしまいそうだ。
「リンシアさま。こんな格好で寝られては危険でございます」
誰かの声で起こされた。いつの間にか湯船に浸かったまま寝落ちしていたようだ。
目を開けたリンシアの体を、温泉の横からメイドが落ちないように支えている。
その顔をしばらく見上げていたリンシアが、
「え? あ、ごめんなさい!」
不意に頭が働きだして、今の状況を理解した。
慌てて体を起こして、お湯の中で立ち上がる。お湯はおへそを隠す深さだ。
そのリンシアにメイドが、
「そろそろご昼食のお時間でございます。みなさま、そろそろ食堂へ集まる頃でございますよ」
と、事務的な口調で告げてくる。
「お着替えは急でございましたので、学園の制服をご用意しました。サイズは間違ってないと存じますが、問題がございましたら遠慮なくお申しつけください」
「制服って、学園高等部の?」
「はい。女子制服はセーラー服系ですので、海洋クラスにはちょうど良いかと存じます」
メイドが答えながら、脱衣室へ出ていった。そして入り口の横に置かれた大きなバスタオルを取り、それを広げてリンシアが出てくるのを待つ構えだ。
「あ、ちょっと待ってください!」
それに急かされたリンシアが、慌ててお湯から上がった。
そのまま脱衣所へ出る直前で緊急停止。腕を嗅いで硫黄の臭いを感じると、手近にあったシャワーへ駆けていって浴びる。
「気にしなくても、よろしいと存じますが」
「いえ! あたしが気になります!」
メイドは怒らず、待ってくれていた。そのメイドが出てきたリンシアにバスタオルを掛けてくれる。
「それでは、外でお待ちしております」
それ以上のお世話はリンシアが恐縮すると察したのだろう。メイドがそこでリンシアから離れた。そして近くにあった大きな扇風機をリンシアに向けて動かすと、脱衣所を出ていって一人にしてくれる。
「……落ち着きません……」
メイドが察した通り、リンシアは戸惑っていた。
体を拭いても、長く熱いお湯に浸かっていたためか汗が出てくる。そこにメイドが向けてくれた扇風機の風で少しは収まりそうだが、あまり待たせるのも悪い。
手早く体を拭いたリンシアは、用意された下着を手に取った。
「あのぅ〜。ぴったりすぎるのですが……。いつの間に測られたんですか?」
着替え始めたところで、そんな疑問がリンシアの脳裏に湧いた。だが、追及してる余裕もなく、用意された制服を着てお風呂場から出た。
ちなみにリンシアに用意された制服は、上は薄い青紫、下は白いミニのプリーツという夏服だ。そして脱衣室の出入り口には、制服に合わせた靴も用意されていた。