妖しの香り
今のは清悠の催眠術。
人助けをしたはずなのに、ひとかけらの罪悪感が湧くんだよなあ。
でも、どこから見てもこれは奇妙な出来事で説明がつかないし、河童なんてUMAだし。
「さあ、帰るぞ」
悶々とするボクにそう言うと、清悠はまたさっさとボクの手をとって歩き出した。
と思ったらもう、三門戻り橋のたもとにボクらは戻っていた。
「あの場所、どこだったの」
「さあな。まあ、豊滝の力の及ぶ圏内がどこまでか不明だから。それにしても腹減った、もう昼だよな」
空腹のためか清悠はちょっとげんなりしている。体張ったし、気力も放出したしね。
三門家に戻ると、すでに玄関から揚げ物の美味しそうな匂いが漂ってきた。
「昼はかき揚げと蕎麦だってさ、やった」
台所を覗きに行った清悠が嬉しそうにボクに言った。
帰宅するなり、小学生ですか。本当に君って子は、こういう単純なことに喜ぶね。
ユイに教えてやりたいよ、このこと。
そうか、ボクがリサーチした三門情報をユイに伝えられたら、ユイの三門攻略に役立つだろうか。
でもどうやってそれを伝えるのか、が問題。
「好きなの?お蕎麦」
「ああ、かき揚げも蕎麦も大好物」
「じゃあ早く食べられるように、お手伝いをしよう」
ボクが言うと空腹の清悠もおとなしくついて来た。
台所で食器を並べたりお茶を入れたり、水切りした蕎麦を取り分けたり、二人で綾子お母さんのお手伝いをした。
「お蕎麦は頂き物なのよ」と綾子お母さん。
「氏子さんで蕎麦打ちがすごく上手な人がいて、時々頂くんだ」と清悠。
清柾さんと、今日ここを手伝いに来てくれている清悠の叔父さんの清比人さんと一緒に食卓を囲んだ。
うちの、安野家の今日のお昼は何だろう。やはり麺だと思うけど、うちの場合はパスタだと思う。カルボナーラとかじゃないかな。そういえば三門家って和食中心。食事って家によってすごく違うね。
「そう言えば、河童って頭にお皿あったのか、ちゃんと見る余裕なかった」
清悠と縁側に並んで食後のアイス棒を食べながらボクが言うと、
「あるよ、漫画みたいに大きくないけど。この中に、絵姿になって封じてあるから後から見るか」
そう言って清悠はジーンズのバックポケットからあの黒い表紙の手帳を出して来た。
表紙の金の線で描かれたマークが独特だ。太極、の印だっけ。
「絵になるの」
「そう。妖魔を封じた半紙をここに貼るともう出られなくなるから、貼ってからな」
まるで妖怪図鑑みたいだね。見たいけど怖いような。
「何で貼るの、糊」
「ああ、糊だけどご飯粒を潰して作ったやつな。一番いい糊だから」
「どうして一番なの」
「米にはさあ、八十八の神様が宿るって聞いたことないか。米は一粒一粒に人の思いを宿している。俺が糊にするのは家で食べてる米で、作っている人も知っている。とても熱心に、大切に米を作っている人だ。だからこそ最強なんだ。人の思いがぎっしり詰まった糊で最終的に妖魔を封じるんだよ」
食べ終わりのアイス棒を手に、米とその力について熱く語る清悠。
そうなのか、とボクは感心した。
気づくと、部屋の隅にボクの弓がちゃんと戻っている。
河原ではいつの間にか手から消えていて、男の子のこともあって忘れていた。
「弓が戻ってる」
「正道は抜けてるからな、結界を過ぎたら自分で戻るように俺がしつけた」涼しい顔で清悠は言った。
「道具をしつける?」
「何言ってる。あの弓はお前よりずっと長く生きてて、お前より賢いぞ。今日だって飛んで来てお前を助けたろう」
弓がボクのそばに来たの。弦打ちだっけ。
「自分でやっておいて、だけどさ。あれが効果あるってボクは知らなかったよ」
そう言うと清悠は意外そうな顔をした。
「知らずにやったの。正道が思い出してそうしたんだと、俺は思った。あれは祓えの一種なんだ、弱っちい妖魔くらいなら消し飛ぶぞ。あいつも中ボスくらいのやつだから気絶させるなんて凄いことだ」
「そうか。そんな凄いことなの」
あの時は清悠を助けたかった。
ただ清悠を守りたかっただけで、弓が手にあると気づいたらそうしていた。
「お前がヤツを気絶させていなければ、俺はヤツに火炎術を放って火だるまにしてやるつもりだった」
清悠、火だるまは怖いよ。急に冷静な口調でそんなこと言うなんてさ。
「さすがに怖いよ。子供もいたし、ちょっと残酷系でトラウマになるじゃない。それはボクだって怖い」そう言ったら、
「正道、化け物ごときに情けをかける気か」
清悠が一段と低く冷たい口調でピシャリと言った。
その目が、纏う空気が清悠じゃない。これは。
もしかして、また現れたの?彼が。
「豊滝」
ボクはつぶやくように、その名前を口にした。
「ああ正道、やっと俺を呼んだな」
豊滝はまたあの身動きできなくなるくらいの妖艶さで、ボクに流し目をくれた。
それに今度もまた、あの香りがする。
ほろ苦い松の木のようなスパイスのような、とてもいい香りが漂う。
知ってるぞ、この香りをボクは覚えてる。と言うより、僕の中の遠い何かが思い出したんだ。
この香りは豊滝が自分で調合して、いつも使っていたものだ。
会えばいつもこの香りがして、豊滝はこの香りをとても気に入っていた。
「俺の目の前で、お前は妖魔に焼き殺された。同じように滅して何が悪い」
午後の縁側に居ながら、夜空のように暗い豊滝の瞳と神経質に寄せられた眉。
何か答えたいのに、どうして言葉が出ないのだろう。
縁側の板間に片手をついて、豊滝は俯いたボクの顔を覗き込んだ。
「どうした。何か言え、正道」
豊滝って別に悪意は感じないんだけど、やっぱり向き合うと胸が苦しいくらいで困るんだ。
「唇を震わせて。二つも年かさのくせに、俺が怖いか」そう言うと、豊滝はふっと妖しく微笑んだ。
うわー、もう限界。
「清悠、清悠戻って。清悠ってば」
ボクは弾かれたように、清悠の肩に手をかけて揺すぶりながら何度も呼んだ。
「うわ、何するんだ正道」
驚いた清悠の口調を聞いた時、ボクは心から嬉しかった。
でも今のこと、そして昨日の夜のことを清悠に言わなきゃ。
昨日はボクの気の迷いかとも思ったけど清悠は今のこと、覚えてるんだろうか。
「清悠、今急に豊滝が出て来て話しかけて来たんだよ」
「そうだったの。記憶がない、覚えてないぞ。豊滝の魂が俺の中にあることは自覚してるけど」
「昨日の夜も、急にちょっとだけ出て来たんだよ。それも知らないの」
「知らない。でもそれは良くないな。豊滝が俺をジャックしたってことだからな。何かきっかけがあるのか」
きっかけ、そう言うなら。
「昨日も今も、正道が目の前で妖魔に殺されたって言って、そこから急に変わったよ」
そう答えると清悠は眉を寄せて、その表情はボクに豊滝を思いおこさせた。
「そうか。俺は現代に妖魔がはびこって来たせいで、豊滝がまたこの世に現れたって、そう思っていた。でも他にも理由があったんだな」
「ボクには、俺のことを覚えていないのかって、昨日はすごく寂しそうに言って来た」
「そうか。正道のことがすごく懐かしい、また会いたかったって気持ちは俺自身の中にもあるよ」
清悠は屈託なくそう言った。
でも豊滝は、もっともっと切なそうで寂しそうだった。
「それに、豊滝が出て来た時にはすごくいい香りがしたの。木の香りみたいなほろ苦い、なんとも言えない香り。それがボクも嗅いだことがある気がして、だからきっと正道が知ってる香りだよ」
でも今はもう香っていない、全く。
「それは練香だな。豊滝が自分で調合したやつで、邪気を祓う香りも入れ込んでるんだ。それなら実は俺も作れる。ある時何となく作ったのがあるんだ。本来はそれを焚いて、衣類に香りを移して使うものだから俺が使うことはないんだけどさ。ちょっと待ってて」
そう言うと清悠は、二階の自分の部屋から円形の金属製の小さな容器を持って来た。
その蓋を取るとボクに手渡した。
「それはこの香りじゃないか?」