橋を渡る
あー驚いた。
豊滝って今のボクと同い年のはずなのに、あの圧倒される色っぽさは何だろう。
そう、けれど清悠って名前を呼べば元に戻ったし、そうすれば大丈夫なんだな。
目の前で親友を亡くした豊滝は、すごくすごく悲しかったんだろうな。
ボクだってもしも、大好きなユイが。
そんなこと、とてもじゃないけど考えられない。
豊滝は正道に思い出して欲しかったのか、親友に自分の名を呼んで欲しかったんだ。
そうか、名前を呼ぶって大事なことなのかも。そんなことを考えながらもボクは眠りについた。
あくる日は土曜日。
今、ボクと清悠は手水舎のところに来ている。
そこはボクがあの三門戻り橋を目にした場所だ。ここから全てが始まったわけで、ただ今現場検証中。
「ああ、これを見たのか。なら正道ホイホイ効果バツグン、もっと早くに仕掛ければよかったよ」
清悠は石橋のたもとに歩いて行き、親柱をポンポンと叩いて言った。
「これを作ったのは俺だ」
ほうほう。
そこをちょっと偉そうに言うのはなぜですか、君は棟梁ですか。
正道ホイホイとか言うしさあ、ここは一旦スルーだな。
「この橋、ボクには見えたけどユイは見えてなかった」
「これは橋の形の結界なんだ。だから誰にでも見えたりしない。これはトラップ兼、監視カメラ兼、瞬間移動システムだから。俺専用のな」
ほうほう。
さらに偉そうだけど再度スルーだな。
「人の心が乱れて世の中が荒むと、妖魔が闊歩するようになる。平安時代にそれを抑えた者が要所に張った結界にもガタが来ている。だから雑魚の妖魔はこの橋をうろつけるようにしておいて、ここから情報を集める。そして、何か起こればここから現場に急行するのさ」
「へえ、現場とか刑事みたいだね」
「ああ?さっきから俺をなめてんのか正道」
あ、まずい。
清悠は正面からボクの両頬を片手でキュッとはさみ、またヒョットコみたいな顔にした。
「やめてよっ、ごめん清悠。ボクもたまには意地悪してみたくてさ」仕方なくピヨピヨ顔で謝る。
「ふん、正道のくせに。悪あがきだな」
この橋が目に入って、その親柱に触れた時から何かが始まっていたことは確かだ。
もう一度ボクは親柱に触れてみた。でも、何も感じないし変わらない。
この橋、渡れるのかな。
足をかけてみたら、ちゃんと石橋の感触で橋の上に立つことができた。
「おかしいな、俺専用のはずだ」と清悠。
「そうか、じゃあ本当は渡れないの」別に何ともないけど。
「そのはずなんだが。一応戻れ」清悠が警戒している。橋を降りてボクは彼のそばに戻った。
清悠はジーンズのポケットから例の青い根付けの鈴を出すと、橋の手前で一振りした。
リーン。
鈴の音とともに、水紋が拡がるようにあたりの空気が清浄になるのがわかった。
「辺りを祓った。正道はそこに居ろよ、点検してくる」
そう言って清悠は小さな石橋に上がり、歩きながら一通り見渡して戻ってきた。でも、浮かない顔をしている。
「何かあったの」
「ああ。向こう岸まで何かが来て、引き返したようだ」
「何だろうね」
「わからない。賢いヤツは橋に豊滝の気配を感じて渡らない。だから賢いヤツには違いない」
黒い素早く迫るあの影をまた思い出した。やっぱり怖いな。
「一人で橋を渡ろうとするなよ、正道」清悠が言った。
「そんなことしないよ、怖いもん」そう答えた、でも。
この橋にボクの変身の秘密が潜んでいるような、そんな気がする。理屈じゃなくそう感じる。
「俺と一緒の時以外は、ここを渡るなよ正道。約束しろ」
そう言った清悠がボクに右手の小指を向けて来た。
これって指切りげんまん、だよね。
それに真顔だけど、マジで指切りするの。
清悠がビクともしない真顔なので、ボクも右手の小指を出して絡めた。
「よし。この呪い、単純だけど強力なんだ」清悠が笑顔になった。
それは雲が晴れた秋空みたいに、青くて澄んだ笑顔だった。
その時戻り橋の向こうから、か細い悲鳴とともにケラケラと子供っぽく高笑いする声が聞こえて来た。
「出た、妖魔だ。正道、行くぞ」
そう言うと、清悠はいきなりボクの手を掴んで戻り橋に向かって駆け出した。
橋を渡りきったら、見たこともない河の前に出ていた。
「助けて、助けてえーっ」
目の前の河で悲鳴をあげて小学生くらいの子供が溺れていて、そのそばで「ウヒャヒャヒャ!ケラケラケラ……」と面白そうに高笑いしているヤツがいる。
茶色がかった緑の気色悪い色をした体の、カエルと人間の中間みたいなヤツ。
「河童だ」と清悠。
「あの子を助けなきゃ」とボクが河に近づこうとすると、
「よせ、正道!」
清悠は叫んで、白い紙を手に呪文を唱えると、ピッと弾くように投げた。
紙は飛びながら長く伸びたかと思うとロープになり、溺れる子供の体に巻きついた。
「これを引け。河に近づくな、河童に引き摺り込まれる。アイツ、深みを浅く見せかけて溺らせるんだ」
清悠はボクに叫ぶと、高笑いを引っ込めてつり上がった目でこっちを睨みつけて来た河童に向かって行った。
ボクは懸命にロープを引っ張って、溺れていた男の子を岸に助け上げる。
こっちは間に合った。
ぐしょ濡れになった男の子がブルブル震えていたので、ボクは羽織っていたシャツを脱いで着せ掛けた。
清悠は、真っ赤に変わった目と大きく裂けた口で「ギャアアアアッ、ギャアアアアッ」と威嚇してくる河童の前に立つと、銀の鈴を振った。
その音色とともに周りの空気が変わる。
そして呪文を唱え、手で何度も空を斬るような動作をした。
「リン、ビョウ、トウ、シャ、カイ、ジン、レツ、ザイ、ゼン!」
あの眩しく輝く光の渦が現れ、白い光を放つ謎の文字列の螺旋に変わった。
そして立ちはだかる河童に巻きついていく。
「グオオオオオオッ、ギャアアアアアアッ!」
河童は喚いて激しく暴れながら、清悠に向けて口からビューッと緑がかった黒い水を大量に吹きかけて来た。
「うわっ」
清悠は素早く身をかわしたけど、黒い水が地面に落るとそこはジューッと音を立てて溶け、嫌な臭いがする。
「毒水かっ、抵抗するのな」
そう言った清悠もキッと河童を睨みつけて、なおも呪文を続ける。
河童に巻きついた光の螺旋は徐々にきつくなってるけど、身悶えした河童は両手足のヌラヌラする水掻きを振り回して、またさっきの黒い毒水をあたりに振りまいた。
ジューッ、ジューッ、とあたりの地面が溶けて行く。
「怖いいー、お化け怖いよおおおっ」と泣き叫ぶ男の子を抱えて、ボクは河原を駆け上がった。
清悠が優勢、かと思ったんだけど河童はまだ「ギャアアアアッ、ギャアアアアッ!」と雄叫びを上げながら抵抗していた。
ヤツが振り回す水掻きの動きに反応するように河の水が渦巻くと、今度はそれが何本もの細い竜巻のようになって清悠に向かって来た。
「危ない、清悠っ!」
そう叫んだボクの手に硬い感触が現れた。
これボクの、正道の弓。そうだ、これを。
ボクは左手に持った弓を掲げると、矢を番えずにそのツルを強く引いて指を離した。
バンッ、と弾けるような音があたりに響き渡り、それと同時に。
今の今まで荒ぶっていた河童が白目を向いてひっくり返った。
「弦打ちか、やるな」
ボクを振り返った清悠が親指を立てて見せた。
気絶した河童を締め上げたうねり輝く光の螺旋は、清悠が掲げた例の白い半紙にヒューっと吸い込まれ、すぐに跡形もなく消えた。
黒い和綴じの手帳に半紙を挟み終えた清悠が、土手を登ってボクと男の子の方に歩いて来た。
「怖かったな、これに懲りて一人で河になんか近づくなよ。わかったか」
清悠からあの圧倒的な眼力で見つめられた小学校低学年くらいの男の子は、プルプル震えながらも「はい」と小さく答えた。
「お父さんかお母さん、家にいるの。ちゃんと帰れる」とボクが尋ねると「うん」と男の子はうなづいた。そして消え入りそうな声で「あの、助けてくれてありがとう。お兄ちゃん」と言った。
お兄ちゃん、か。
ボク女子だから、そう呼ばれると新鮮だな。
ボクがそっと感慨に浸っているその横で、清悠が男の子の耳元でこう囁いた。
「一人で河原に降りて遊んでたら、足を滑らせて河に落ちた。通りすがりのお兄さんに助けられた」
そしてあの青い根付けの鈴を男の子に向かって振った。
再び、水に小石が落ちたように周囲の空気が変わる。
何かを思い出したように突然すっくと立ち上がった男の子は、
「お兄ちゃんたち、さようなら」と手を振ると、まだポタポタ水滴を落としながらもしっかりした足取りで歩き去った。