遥かな縁
ピシャピシャと額を叩かれた。すぐ近くで声がする。
「おい正道起きろ。境内の掃除に行くぞ」
「んん、なにー。今何時」そう尋ねながら、にわかに眠気が吹っ飛ぶ。
うわ、清悠。ああそうだった、昨日寝る前に言われていたんだった。明日から五時半起床って。
「ごめん。すぐ支度する」こんな時間からしゃっきりしている清悠を眺めてボクは答えた。
そうして清々しい早朝の空気の中、竹箒を手に二人で拝殿の周りから掃き掃除にかかった。
木々の落ち葉を掃き集めながら話す。
「ねえ、清悠っていつもこんな早起きなの」
「うちはみんなそうだよ。日の出に合わせて門を開いて神饌をあげて、拝礼して。六時頃には参拝に来られる人も結構いるしね」
「大変だね」
「そうか、もう慣れてるから。それと、お前に昨日話すの忘れてたんだけどさ。俺、今日は一度帰ってから部活で夜に学校に行くんだ。だからちょっとだけ留守になるよ」
「なにがあるの」
「今夜は土星の観測会なんだ。学校の屋上に望遠鏡をセットして、七時から観測会」
それは天文部の活動で、ちょうど今の時期は月も綺麗だし土星がその近くによく見えるのだそうだ。
「そうなの、知らなかった。今日は晴れるの」
「うん、夜はよく晴れそうだし今夜は期待できる」
「学校の屋上なんて普段行かないよね、面白そう。ボクも見てみたいな、月と土星」
そうだ、今のボクは学校に行くことができない。
身代わりの安野一香はちゃんと登校するだろうか、いつものボクらしくちゃんと振る舞えるのだろうか、それも心配だ。
ボクの表情に気づいたのか、清悠は言った。
「まあ部活はともかく、お前の身代わりの仕事ぶりは後から教えてやる。だから安心してろ」
それだけ言うと、清悠はさっさと掃き掃除を進めていった。
日中は清柾さんから一日の流れを教わって、また拭き掃除をしたりした。
感心したのは、清柾さんが御朱印というものを筆書きして作るのを見学した時だ。
あちこちの神社やお寺を参拝して、記念のスタンプみたいに御朱印を集める人が最近は多いんだって。
白い半紙に墨の黒も鮮やかに、朱色の印と一体になって仕上がった御朱印はとても美しい。
「清柾さんの字って素敵ですね」
「何の、六十年余りも書き続けていれば、こんなものですよ」
柔和な笑みを浮かべた清柾さんは、「安野さん、学校に通えず寂しいでしょう」と言った。
「でも知らなかった神社のお仕事が少しわかって、楽しいです」
「あなたは強くて優しいお嬢さんですね。早く元に戻れるよう孫が手立てを講ずるので、どうか辛抱してお待ちください。今日はあれのことについて、お話しさせてもらえますか」
「はい」
清悠のことなら知りたいことだらけだ。
「清悠が生まれる前、私は不思議な夢を見ました。ある平安人の少年が夢枕に立ち、自分はこの神社に一本の木を植え、その下に非常に大切なものを埋めるところだ、と言ったのです」
平安人って、正道と同じだとボクは思った。
「その一つは黒い表紙に金字で太極の印を描いた手帳で、赤い紐で結び閉じてありました。それを今から木箱に入れて埋める、と言うと私を目当ての木の下へと誘いました」
あ、金の模様が描かれた黒い和綴じの手帳。
赤い結び紐の、清悠が化け物を封じ込めた紙を挟み込んでいたやつだ。
清柾さんの話は続く。
「それから彼はこう言いました。自分は今後、この家に生まれる。そして自分が数え十三の年にこの木は命が尽きて倒れるから、その時この根元を掘り起こしてお前の孫にこれを渡せ、と。そうすれば孫は自らの内に眠る魂の名を思い出す。陰陽師、三門豊滝の名を」
豊滝、清悠がその名を清柾さんに告げるのをボクは聞いた。
正道が現れたことは、豊滝としての前世の縁って清悠は言っていた。
「じゃあ清悠は、その三門豊滝っていう人の生まれ変わりかも知れない、ということですか」
「ええ。かも知れない、ではなくそうなのです。豊滝は最後に夢で私に言いました。この夢が誠であるという証を残そう。孫が自身の名を取り戻した時、この事を話して渡してくれと預かったものがありました。それは青い根付けの付いた銀の鈴でした。あくる朝目覚めた時、私はこの手に豊滝の与えたその証を握りしめていました」
青い根付けの銀鈴。
あの懐かしい、美しい響きの鈴だ。清柾さんは知っているのだ、三門清悠の不思議な術のことを。
「私、昨日見ました。清悠がその鈴と黒い手帳を使うところを」
「そうでしたか。ならば安野さんは、孫の理解者という事だ。夢で豊滝から私は、このことは秘密であると言い含められていましたから」
果たしてボクは理解者、なのかなあ。
お世話になりっぱなしの今なんだけど。
「豊滝は面白い人間でした。こうして夢で絆を結べるとは、お前とは気があう。孫として生まれくる日が待ち遠しい、と言いました。それで私は、生まれてくる前から孫が男子であることや、その前世までも知ることになったのです」
そうだったの、不思議な話だなあ。
「清悠は、清柾さんをとても尊敬しているって言ってました。それに本当に仲良しなんですね」
「小さい頃はそれはもう、私の後を付いて回ってねえ。書や囲碁を教えたり、凧揚げやらコマ回しやら手ほどきすれば付き合わされて。学校では、どこか爺むさい中学生ではありませんか」
気づけばボクは声を立てて笑っていた。
清悠って、おじいちゃん子なんだな。だから何となく、渋い感じなのかな。
「正道、いるか」
ボクが部屋で、清柾さんに借りた囲碁の本を読んでいたら清悠が帰って来た。
学ランにリュックを背負ったままだから、帰宅するなりここに直行したようだ。
「お帰り」
「へえ、それ爺さんの本だな、囲碁に興味あるの」
「うん今日ちょっと教わったから復習。面白そうだなって」
「ふん。俺が教えてもいいけど、爺さんの方が優しいからな。なあ正道、ここでおやつ食べながら勉強してもいい」
「いいよ」
「あー、また学校行くしなあ。着替えんの面倒」と言いながらも清悠は二階に消えて行き、着替えて円いお盆を手に戻ってきた。
「どら焼きとトラ焼きがあった。両方食おう」だって。
勉強は?教科書もノートも持ってないけど。
「トラ焼きって何」
「どら焼きの表面が縞模様になってるやつだよ。ちょっと洋風な感じ」清悠はトラ焼きの方から食べ始めた。
「今日は安野と俺が日直だった」
そうか、席順が近いしちょうどそうなったんだね。
「ラッキー、ボクの様子どうだった」
「うん、別におかしな感じもないし、倉見とかいつも一緒にいる感じの女子ともうまくやってる風だったなあ。あとは、合唱コンのピアノ伴奏は倉見に決まった。安野は放課後ちゃんと部活も出てたぞ。陸上の長距離だっけ」
「中距離。そっか、合唱コンやっぱりユイがピアノ弾くんだね」
ボクは陸上部に所属していて中距離の選手だ。そしてユイは合唱部で、小さい頃から習っているピアノはとても上手なんだ。
今年もユイのピアノで歌う合唱コンクール。
ボク、それまでに復帰できるかな。
「ボクは今日さ、清柾さんから清悠が生まれた頃の話、聞いたんだ」
「そうか」
清悠は急に真面目な顔つきになった。
「清悠が豊滝っていう先祖の生まれ変わりなんだって。黒い手帳と、銀の鈴と」
ボクがそこまで言うと清悠は人差し指を立てて、自分の唇に当てて見せ、それから低い声で言った。
「正道は豊滝の親友だった。今も、俺にとってはそうだ。続きは今夜話す」
そうしてこの話は打ち切りになり、それから清悠は本当にここで勉強した。
「ボクは勉強、どうなるの」
「安野さんをここに招待して、軽く触れ合ってもらえば同期できる。他の情報もそうだ、心配ない」と清悠。
同期なんてできるの、パソコンか。
それにちょっと問題が。
「軽く触れ合うって、どうするのさ」
「まあ、手を繋ぐとかおでこを接触させる、とかだね」ですと。
ええ。
そんなこと、女の子で自分の意思もある感じの身代わり一香が人前でこのボクにさせてくれるかなあ。
はなはだ疑問。
「俺の式は忠実で物覚えがいい。信用してないのか」と低い声で言う清悠。
「そりゃ、普通に考えてさあ」
そう言ったら、清悠は座卓の向こうからボクの両頬を片手でキュッとはさんで、ヒョットコみたいな顔にした。
「お前、俺を誰だと思ってる」
離せよ、清悠め。
「信じるよー、この意地悪」と言ったらフン、と鼻で笑ってやっと手を離し、
「あー、久々。面白い顔だった」と言った。
久々って。誰にこんなことしてたんだろう、とボクは思った。