結ばれているもの
「うう、うーん」
魂の織戸正道が消え去ると、今度は気を失っていた一香が意識を取り戻した。
その姿は再び女子の安野一香から織戸正道の姿に戻っている。
「あっ!やっ!来ないで」
目覚めた一香は近づいた清悠を見るなり、布団の上をズザザッと思い切り後ずさった。
「違う、見て安野。俺だ、清悠だよ」
「え、本当に清悠なの、豊滝はもういないの」
「ああ。さっき、安野が気を失ってた時に織戸正道の魂が出てきた。ここで豊滝と二人で話してたんだよ。けど、話の途中で豊滝が消えちゃったんだ」
「そうだったの。頭の中で男の人の声がして、きっと正道本人だったと思う。でもそれから覚えてないの」
「気分が悪くなっただろ、大丈夫か。それに、豊滝に怖い思いさせられたんだろう」
そう清悠が言うと一香の目が泳いで、少し言葉をためらった。
「あの、目が覚めたら、豊滝に床ドンされてて。鈴を取ろうとしたら『同じ手は食わない』って両手を掴まれて……」
「あいつ、お前に何したの」
「うん……それは」
目を逸らし俯いて困り顔になった一香は、片方の頬を押さえて言葉を継いだ。
「もう逃げられないって思ったらボク、焦って涙が出て、それを豊滝が……吸ったの」
「え……」清悠は絶望した。
うああー、お、俺の体で。
付き合ってもない安野の頬に唇をつけた、のか。
あの不良先祖ときたら、やってくれたな。
そもそも夜中に部屋に忍び込んで迫るなんてアウトだし。
いや、俺は安野を守りきれなかった。
このことは、豊滝に出し抜かれたのは俺の甘さのせいだ。
そう思った清悠は一香の前に両手をついた。
「すまない安野一香。この通りだ。お詫びのしようもない」
「そんな、もうやめてよ。あれは清悠がしたんじゃないってわかってる。だから、ね」
「けど、ここで暮らせって安野に言ったのは俺だ。お前は俺が守る、そう決めてたのに」
清悠は悔しそうに眉を寄せ唇を噛んで、その様子を見た一香は少しの胸の痛みを意識しながら思った。
ボクを守ろうとしてくれて、ありがとう清悠。
でもボクはあの時の豊滝を責める気持ちにはなれないんだ、そのわけは。
「ボクね、今夜やっと豊滝の気持ちがわかったの。だから清悠が気にすること、ないよ」
「豊滝の気持ち?」
「うん。どれだけ正道のことが好きだったかって。友達としてじゃなく、ね。正道に告白、できたのかな豊滝」
「怒らないの、豊滝のこと」
「うん」
今ではすっかり目が慣れた暗がりの中で、一香が微笑んでうなづいた。
男同士だけれど、それでも豊滝が強くひたむきに心から正道を想い続けてきたことは、二人の姿を目の当たりにした清悠にも確かに伝わった。
闇の中で見た、二人の左手の小指に結ばれたあの細い金色の糸。
どれほど時を経ても相手を見失わないよう魂の端に結ばれた呪。
清悠は思った。
あの強く冷徹な三門豊滝が、そうまでしても手に入れたかった正道の心は、結局手の届かないところにあった。
彼に恋人として受け入れてもらうことが叶わなかった豊滝は、これからどうするつもりだろう。
正道に応えてくれるだろうか、このまま二度と現れなくなったりはしないだろうか。
「正道は、妖魔との闘いで亡くなる直前に婚約していたらしい。豊滝も知らないまま死に別れたんだ」
「ええ!そうだったの。それはかわいそうだね、正道。でも豊滝も」
「うん、すごくショックを受けてた。正道は現世でまた協力し合おうって言ったけど、豊滝は答えないまま消えてしまったんだ」
「うーん、そうなの。落ち込んじゃったんだね。でも二人、協力できるといいけどな。豊滝ならきっとそうしてくれるよ」
「そうだといいけどな」
「ボクは信じてるよ。だって、豊滝はすごく優しい人だもの」と一香は言った。
安野、正道と同じこと言うんだな。
あんなことされたってのに、なぜ安野は豊滝を嫌わないの。
そう思った時、清悠は胸がもやっとしてキュッと少し痛んだ気がした。
それからしばらくは何事もなく、晴天の日が続き三門神社の秋は穏やかに深まっていった。
妖魔は現れないけれど、豊滝も正道もあの床ドンの日以来現れていない。
色とりどりの落ち葉が掃いても掃いても境内を舞い踊り、今日もボクと清悠は一緒に掃き掃除をしていた。
「もうじき十三夜だ。今週はずっと晴れの予報だし、オリオン座流星群も楽しみだなあ」と箒を使いながら清悠が言う。
「オリオン座流星群、観察するの。ボクも見たいなあ」
「夜中になるけど。ちょっとだけ付き合うか」
「付き合う付き合う。楽しみだね」
清悠とここで暮らすようになってから、ボクは星のことが少しわかるようになった。
昼間、ボクたちが目にしなくとも星々は生きて巡り、遠い場所で太陽と同じように輝きを放つ。
ボクらが音も振動も体感することはなくても、宇宙のそこここで星々は震え、激しく爆発し、光を放ち駆け抜けている。
命があって、それはいつも間近でひっそりと回り続け、いつか尽きていく。それはボクも同じ。
こんなことを考えるようになるなんて。
ちょっと考え事をしながら箒を動かしたら、「チリッ」とボクが着けている鈴が小さく鳴った。
「安野。鈴、夜もちゃんと着けてるか」ボクを見て清悠が言う。
床ドンの日から数日は、ボクも豊滝を警戒して護りの鈴を首から下げていた。
けれど豊滝は現れなかった。
清悠と話していても気配を感じることすらなく、あの練香も香らない。
清悠の心配は分かっていたけど、ボクが鈴をずっと身につけていたらきっと豊滝は正道に近寄れない。
こんな風に豊滝を遠ざけていいの。
豊滝が深く悲しい気持ちを整理して、正道と向き合いたいと思ってくれていたとしたら。
ボクは邪魔したくない、チャンスをあげたいもの。ボクは言った。
「実は、夜は外して前みたいに枕元に置いてるの」
「どうして着けない。夜こそ危険じゃないか」
急に清悠の口調が厳しくなった。
「分かってる。でも、もっと豊滝を信じてあげてよ」
「なぜ安野がアイツを庇う。また怖い思いしたいのか」
「そうじゃないよ、意地悪」
そうは言ったけど、清悠はボクをからかう口調じゃなかった。
「いざって時は正道が助けてくれるって、だったらいいのか。俺は良くないっ」
もう清悠、どうしてここまでナーバスになるんだろう。
「そんなんじゃないって。それに豊滝の気持ち、清悠にはわかんないよっ。大切な人に振られて、消えたいくらい悲しい気持ちなんてどうせわかんないでしょっ」
そう言ってしまってからボクはハッとした。
そうか、清悠だって自分の体を勝手に使われるなんて嫌に決まってる。
ボクが隙を見せれば、清悠に迷惑がかかるかもしれないんだよね。
あの夜体調が悪かった清悠だって、ボクの寝込みを襲ってしまったことにひどく驚いてたはずなのに、ボクの心配ばかりしてた。
「ああ、知るかよっ。でも俺の知らないとこで豊滝が……そんなの俺は、とにかく嫌なんだ」
険しい顔でそう言うと、清悠は右手をさし挙げ印を結んで呪文を唱え始めた。
するとその小指に青く光る糸が細く煌めきながら伸びているのがくっきりと見えた。
「何するの。ねえそれ、あっ」
スーッと伸びたその青い糸の端は、ボクの右手の小指に結ばれていた。
でも次の瞬間、彼は刀のように指をまっすぐに揃えた左手で、その青い糸を断ち切った。
ボクは思い出した。
断ち切られた青い糸、それは。
初めて二人で三門戻り橋に行った時のこと。
「俺と一緒の時以外は、ここを渡るなよ正道。約束しろ」
そう言った清悠がボクに右手の小指を向けて来た。これって指切りげんまん、だよね。
それに真顔だけど、マジで指切りするの。
清悠がビクともしない真顔なので、ボクも右手の小指を出して絡めた。
「よし。この呪、単純だけど強力なんだ」そう言って清悠が笑顔になった。
後から清悠が言ってた。これは戻り橋から結界を渡る時に、はぐれないためのものだって。
清悠の持つ鈴が鳴ると、遠くてもボクは間違いなく彼を見つけて一緒に行動できる。
でも、それを断ち切ったってことは。
「どうしてそんなことするの、ボクも闘うって言ったじゃない。ねえ、一人で行こうとしないでよ」
「お前は正道じゃない、安野一香だ。俺は、安野に危険な目に遭って欲しくない」
青い糸はもう消え去り、乾いた秋風の中で清悠はボクに背を向けた。
「ねえ、二人喧嘩してるの。ちょっと長いね」
どうにもよそよそしい、数日にわたるボクたちの空気に気づいて綾子お母さんが言った。
「はい、ちょっと意見が食い違っちゃって」
「そうか。清悠は頑固だし、仲直りのきっかけ掴むのも下手なのかな。でも正道君、あれは放っておいていいからね。普通にしてなさい」
綾子お母さんにはそう言われたものの、ボクは自分の方が悪かった気がして、それでいて清悠になんと声を掛けたらたらいいのかわからないのだった。
清柾さんもやはりボクらの様子に気づいていた。
けれど事の起こりになったあの床ドン事件のことまでは、流石に清柾さんに話すことはできなかった。
「正道君、いや安野さんのおかげで清悠は成長させてもらっています」
清柾さんは、まなじりを下げて微笑み、ボクの頭をポンポンと軽く撫でてくれると、
「無駄なことは何一つ、起こらない。お互いの心が少々痛んだとしても、そこには日の出前のひと時のように何かが兆しているのかも知れませんよ」と言ってくれた。