あるじの誘い
「これ、そうこれだよ」
その練香は、焚いてみるまでもなく豊滝の香りだった。
ほんの少し嗅いだだけで、あの胸苦しいほどの豊滝の記憶が戻ってくるようだった。香りの力って強力なんだな。
清悠がこれを何気なく調合したなんて。
ボクは清悠の中に豊滝が存在する事実を突きつけられた。
ボクらは二人でまた縁側から庭を渡り、離れの清柾さんに相談に行った。
「豊滝が。そうでしたか」
ボクたちの話を聞くと清柾さんはちょっと腕組みして、考えていた。それからボクに言った。
「安野さん、すまないのですが清悠と少し相談したいことがあります。一度二人にさせて貰えますか。話がまとまったら清悠からお伝えします」
「はい、わかりました」
ボクはそう言って、離れを後にした。
安野一香が退室した後。
木枠の一人掛けの椅子に腰を下ろした清柾さんは、斜め向かいに座る中二の孫に向かって尋ねた。
「清悠、君はこれまでに誰かに恋をしたことはあるかな」
祖父の突然の問いに、清悠はちょっとだけ面食らったけど答えた。
「あの、ずっと昔。恋っていうか……、幼稚園の時担任の先生に憧れて、ました。でもそれを数に入れなければ、ありません」
「なんと、そうであったか。ならば、豊滝の胸の内は、清悠には理解が及ばぬかも知れんなあ」
「なぜですか」
「私の見立てでは、おそらく三門豊滝は、織戸正道に恋心を抱いている」
清悠は一瞬、絶句した後に言った。
「あの、でも二人は親友で、それに男同士ですよ」
「そうであっても清悠、人の心は枠にとらわれないものなのだよ。正道の思いは私にもわからないが、豊滝は恋していた正道の命を妖魔によって無残に断たれ、無念の思いを強く持ち続けているのだろうよ」
人を強く激しく恋うる気持ちを未だ知らないと思われる孫に、清柾さんは語りかけた。
清悠は視線を落として聞いていたが、顔をあげると祖父に言った。
「僕が豊滝を思う時にいつもどこか寂しく、胸が締め付けられるような思いになるのは、それが原因なんでしょうか。僕自身も豊滝と正道との再会が心から嬉しくて、ともに過ごす時間が貴重です。でも、安野さんのためには早く解決したいと思っています」
率直に清悠は話した。
「清悠、豊滝と君の心は一部が重なり、一部は別であるから、これからも正道への友情と、恋情とを行きつ戻りつすることになるだろう」
孫はうなづいて祖父の言葉に耳を傾ける。
「そこで私が恐れるのは、また豊滝が清悠の意識を無視して、抑えて行動してしまうことだ」
「僕もそう思います。豊滝はやすやすと僕の体を乗っ取ってしまいました。でもその時は、名の力を使う。僕の名前を呼んでもらうことが有効のようです」
「確かに、名を呼ぶことは魂を繋ぎ留めることだからね。今日も幸い、安野さんが清悠を呼んだことで、豊滝は離れた。しかし、豊滝が正道を求めるあまり、それを無視したらどうなる」
「それは、……」
清悠は言葉につまり、明らかな困り顔を見せた。
恋愛にうとい清悠もさすがに気づいた。
「豊滝は妖魔を怯えさせるほど気性が激しく、一途な男だ。激情に駆られて、正道に手をかけるかも知れない。今日のことで、私はその可能性を考えないわけにはいかなくなった」
俺が知らない間に、豊滝は正道に手を出してしまうかも知れないってこと。
それは、それは困るなんて問題じゃないぞ。
今のところ正道の体にある魂は、安野一香なんだから。
いや、体も。
男の姿でも、あの体は安野だって考えなきゃいけない。
確かに、転生した豊滝にとっては千載一遇の機会なのかも知れないけど、でもこれは。
豊滝。そんなのダメ、絶対、だ。
「ここで同居するように安野さんに話したのは僕です。お爺さん、僕が必ず安野さんを守ります」
大抵のことに冷静な清悠は、初めて冷や汗をかきながら言った。
「全力で守らねばなるまい。なにせ相手は自分の中に居るのだからね、清悠」
「はい」
俺の体で好き勝手されるのも、嫌だ。
「それで私に考えがある。豊滝の魔封鈴、それと同じ物を安野さんの護りに用意しよう」
そう言うと、祖父は引き出しから鮮やかな赤い組紐の根付けを一本取り出した。それと、新しい銀の鈴が一つ。
「安野さん自身の髪が手に入るといいのだが」
「わかりました、聞いてみます。お爺さん、このことは安野さんにどう話したらいいでしょう」
「豊滝は影響力が強い魂なので、この鈴をお守りとしていつも持ち歩くように、と伝えなさい」
清悠と一緒に、清柾さんに豊滝のことを相談したボクは、自分の髪を一本入れ込んで作った、赤い根付けの銀鈴をお守りとして頂いた。
それは清柾さんの手作りで、しかも自ら神様の前でお祈りをしてから、ボクに渡してくれたのだ。
三門神社の授与所でも取り扱っていないオリジナルで、心強い。
それに鮮やかな色の赤い根付けが可愛いし。
「安野、またもし豊滝が現れて怖いって思ったら、鈴を振って俺の名を呼ぶんだぞ」
やけに熱心な表情と口調で清悠がそう言った。
「うん、わかった」
やけに心配する清悠にそうは言ったものの、ボクにとって豊滝は怖い相手ってわけじゃない。ただ、ボクが妙に意識しすぎちゃって逆らえないって言う感じ。
どこかでそう思っていた。
九月はお休みが多い。
こうなってから大好きなユイに会えないのと、クラスの女子トークに混ざれてないのが寂しくなってきた。
親友で一緒にいる時間が長いユイが、ボクのことを変だと思っていないかが気になるし。
前に清悠が言ってた、身代わり一香との同期ってのをしたら、そこら辺がわかるんじゃないか。
ただ、ボクがユイを好きってことは清悠には言えない。
ユイにすっごく会いたいけど、さ。
同期のことを話すと「ああ、いいよ。今週身代わりをここに連れてくる」と清悠はあっさり言った。
「簡単に言うなあ」
「当然。式は主人に従うんだ。俺が来いって言えば来るさ。でも一応、向こうの都合とか聞いて考えるよ」
「その言い方、なんか腹たつなあ。モテまくってるチャラ男みたい」
「なんだ。文句あるのか正道、あれは俺の式だ」
また清悠にヒョットコ顔にされそうになるのをボクはかわした。
「ボクの髪を使ってる。だから半分はボクだろう」
あ、ちょっと待てよ。
「あのさあ。一香だけ、ここに連れて来るつもり」
「だけって何だよ。式に用があるんだろう」
ああ、それはまずい。
それは一番やっちゃいけないやつだから。でも清悠に罪はないんだよね。
ユイの気持ち、清悠は知らないし。うん、確かに今のところ全く気づいてない。
それでもしも、ユイの前で清悠が一香だけを誘ったりしたら、ユイは誕生日告白する前に絶望して落ち込んでしまうかも。
「うん、そうなんだけどさあ。ユイも一緒に誘ってくれないかな」
「なんだ、倉見と話したかったの。それなら来週はちょうどここの例大祭だから、祭に誘えば問題ない」
そ、それはまたとないタイミング。
ユイ、チャンスだよ。
「でも心しておけよ。式も倉見も、正道とはほぼ初対面なんだからな。他人を関わらせると、無駄な茶番が必要になる」と清悠。
他人を巻き込んだら、その分説明のできないことをごまかしたりしなきゃならない。
「わかった」
そうして翌日学校から戻った清悠はボクに言った。
「土曜日の午後に、式と倉見が一緒に来るってさ」
わわっ、早速話してくれたの。清悠って行動的なんだね。
「ありがとう、ユイ何て言ってた」
「え、知らん。俺は式に話して、倉見も誘って一緒に来いって言っただけだから」
何ですと。
清悠君、全く君には情緒ってものがないよ。
『実家の神社が主催する秋祭りに、クラスの女子を誘った』っていうとらえ方は、君の中にはないんだね。
「あれ、言う通りしてやったのに、嬉しくないの」そう言った清悠をボクがじっとりと見つめると、
「なんか文句あるのか、正道のくせに。はっきり言え」
さっと伸びた清悠の手がボクの頬をグイッと掴んで、ヒョットコ顔にされた。
ユイ、こいつって超鈍感で手強いよ。
いやそれより、可愛いユイは情緒のない清悠なんかには、もったいないからっ。




