『眠れぬ夜に恋をした』
「最近夜更かししねえなぁーあいつ」
夜は寂しさからか呟いた。
「さっさと寝ちまうなんて、全く愛想がない女だ。本当に」
「…そんなに、昼が良いってか」
嫉妬深い夜は今日も、輝く星屑たちを引き立たせる側。
+++
テストが、テスト期間が―――――やっと終わった。結果はどうであれ、とにかく終わったのだ。
解放感と、達成感とが、はじけ合うように体の内側で騒ぎ合っていた。
終わった。これで、普通の生活に―――。
テスト期間中はずっと徹夜で、ひたすら眠くて、無理矢理頭に詰め込んで、まさに、これは―――、地獄だった。
期間中、ずっと夜と一緒だった。
夜は嫌いだ。暗闇で、まるで希望がない。真っ暗闇の空に、比例するかのように、心も暗く、思考も暗くなった。夜はネガティブになる要素でしかないのだ。
「今日は…早く寝よう。明日は休みだけど…疲れた」
何故だろう、私はわざと声に出して言ってみた。ほんの気まぐれだ。これは誰に対してでもなかった。だって、私の部屋には私しかいない。今日は、私の部屋に、心に、夜が侵入してくることもない。
なんてったってテスト期間が終わったのだ。今の私の心には、暗闇なんて、入る隙間もない。
そう。誰に対してでもないのだ。でも、何故かひとりごと、ではないような気がした。
あえて言うのであれば、それは、――――夜に対してだろうか。
そう思い至ったところで、私はさらに言ってみた。――――少し、おかしなことを。
この時の私は、どこかおかしかったんだと思う。テストの疲れ、だろうか。
頭のどこかのネジが飛んでいたのかもしれない。
「夜は嫌い。理由は…ね、私を悲しくさせるから。好きにさせたいんだったら、―――私の目の前に現れて、アタックして」
気まぐれだった。これもまたほんの思いつきであったとしか言いようがない。意味不明な思い付き。自分でもよくわからない唐突な衝動みたいなもの。傍から見たら『可哀そうな子』かもしれない。
人間なんて、言った次の日には、その内容をコロッと忘れてしまったりするものだ。それが、たとえどんなに大事なことでも。強い印象がなければ、残らない。
そしてそれは、今の私のこの発言も例外ではなかった。
実際、私は翌朝、すっかり忘れることになる。
「おやすみ」
言った。誰にだ。それはもちろん、
――――自分にだ。
「あいつ、俺のこと―――嫌いだったのか…」
夜は呟いた。
「なんだよ…! 俺だってお前なんか…好きじゃねえよ!」
夜は云った。『お前なんか好きじゃねえ』と。
『お前なんか、嫌いだ』とは云えなかった。
+++
「…眠い。体が重い。今、起きたくはないな…」
とは言いながらも私は体を起こした。カーテンを勢いよく開ける。
じめじめとした室内にさんさんと日光が降り注いだ。私は思わず目を細めた。
今日は、とてもいい天気だった。雲ひとつない、とまでは言わないけれど雲が綿菓子みたいに散らばっていてかわいかった。私は昼が好きだ。
「おはよう」
言った。誰にだ。それはもちろん―――――昼にだ。
―――何だよ! 昼の野郎! ちくしょう! それに女! 俺にもおやすみぐらい云えよ! 何だよ! 冷たいな!
…むにゃむにゃ。
夜は眠りについた。
もちろんこの声は誰の耳にも届かない。
『にゃおーん』
あら、夜と仲がいい黒猫には聞こえたよう。
+++
「お父さん、お父さん。こんなとこで寝てちゃ風邪ひくわ」
あたりに散らばったお酒のビンを片付けながら父の肩を揺すった。
だが、起きる様子はない。父は、背中を丸めて小さく寝ていた。じっと見つめる。いつのまに、こんなに弱々しくなったのだろう。そう思った。顔を見ると眉間には深いしわが刻まれている。私には、苦労の証のように思えた。
いっこうに起きない父にその辺に投げ捨ててあったコートを被せた。
ひとまずはこれで安心する。
私は冷蔵庫に入れてあった食パンを取り出した。そして手でちぎって口の中に放り込む。
こころなしかお腹が膨れたような気がした。
しばらく父を眺めていたが、いつまでもそうしているわけにはいかなかったのでフライパンを手にとった。それをコンロの上に乗せ、火をつけるとフライパンが温まったところで油を引いた。
卵を割る。
下手にかき混ぜたりせずに目玉焼きにするつもりだった。――――――のだが、何故か手が動いてしまった。
いり卵になる。
私は特に気にしなかった。
――――――俺は目玉焼きは嫌いだ!
夜の寝言だった。
私は食パンにハムをのせて、その上にフライパンから直接いり卵をのせた。そしてコップに牛乳をひたひたと注ぎ入れる。
それらをお膳に置いた。
「お父さん朝ごはんよ。起きて」
再び父の肩を揺すった。今度はむっくりと小さな体が起き始める。
「ああ、おはようございます」
父はお膳に朝食を確認すると、いただきますと言って丁寧に手を合わせると朝食を食べ始めた。
いつもの食事風景である。
父が朝食をとる姿を私が後方で見守る。
しかし、夜はこの風景を知らない。
夜がいつも見ているものは一人で夕食をとる女の姿だった。
私の父はいわゆる仕事人間というやつで男手ひとつで私を育てた。というよりは父が仕事をしている間私が勝手に育った、という感じかもしれない。
父がまだ若かりし頃、何があったのかは知らないが、私は母の顔を、薄っぺらい紙きれ(写真)でしか確認したことがない。ただ、それを見た時優しそうな印象を受けた。これが母親というものか。小さい頃は、眺めていると自然と心が和らいで涙が引っ込んだものだ。私は勇気をもらっていた。
父は今ままで再婚をしない。そんな話も出ない。だから、テスト期間が終わって、夜型から、昼型の生活に戻ったすぐのこの頃には後に起こる展開など、想像できようはずもなかった。
「ふんぬぅうううぐおおおおお。
…暇だ。
いいかげん寝顔も見飽きた。目を開けている顔が見たい。
まるで死んでるみたいだ…」
夜は時々不安になった。
女があまりにも静かに眠るから。
死んだように眠るから。
息をひそめて眠るから。
女が夜に眠るようになってから、一週間がたった。
夜はその間、ずっと頭に引っかかることがあった。まぁ、夜は引っかかる頭というものを持ってはいなかったが。
『アタックして』
それは、俺に云ったのか。そう聞いてみたかったが、女と夜の距離はあまりにも遠すぎた。そして夜は、前述の頭しかり、おしゃべりをするための口というものも持っていなかった。
一度心の中で必死に念じてみたことがある。その時はサイコキネシス(念動力)が起こってしまってビックリした。女の体が宙に浮いたのだ。まぁ、せいぜい五㎝ぐらいのものだったのだが。
それ以来、夜はなにか、怖くなってしまって、見守ることしかできなくなってしまった。
心霊現象と思われるのだけはごめんだった。不気味だと思われるのは、何故かとても嫌だった。
「一度でいいから話してみたいよなぁー」
夜はそう呟いてから、眉間にしわを寄せて、机とやらに必死にかじりついている少し前までの姿を思い浮かべていた。
「あいつは何してたんだろうな。とにかく辛そうだったな」
なおも呟き続ける。
「あ、でもだめだった。あいつは俺のこと嫌いだもんな。そうだ、俺、嫌われてんだった」
雲ひとつない綺麗な夜空に、どんよりとした空気が漂ってきた。
やがて、ぽつぽつと、雨が降り始める。
悲しいな。悲しいな。
どこかの誰かが、そう云った気がした。
そして、翌日。
夜が明けると、吐き気がするくらい綺麗な夏空になっていた。
「けっ! 昼の野郎! 喧嘩売ってんのか!」
どこかの誰かがそう云った。
今日の天気は、――――晴天である。
+++
今日は終業式だ。
天気は快晴。非常に気持ちのいい日だ。
私は学校に行く準備をした。それから朝食を作らなければならない。
今日は案の定、土・日曜日ではないので父は仕事へ行く。なので今現在の時刻は五時半だ。父の朝は早い。
私は朝食を作るため父に合わせて起きるのが常だった。
「あ、お父さんおはよう」
台所に向かおうとすると、顔を洗い終わった父と出くわした。
「ああ、おはようございます」
そして、父は私の顔を見た。次の瞬間、いつも細められていて開けているのかもよくわからない目を、父は少しだけ見開いた。そして、すぐに目じりが下がる。いつも通り目も細められた。――――何事だ、私は思った。
「菜多さんは母さん似ですね」
久しぶりに父の嬉しそうな顔を見た。
驚いた。いきなり、どうしたのだろう。私の頭は少し、混乱する。しかし―――。
「そう?」
返事をした私の頬も緩やかに微笑んでいた。
まんざらでもない。というか、嬉しかった。
「菜多ねえ! 夏嫌い! 嫌い! だってね、夜が短いもん! 菜多はね、夜が大好きなんだ!」
(それは、なんで?)
…あれ、何だろう。女の人の声…。優しい声。太陽みたいな、温かい声。
懐かしいな、懐かしいな。ずっと、聞いていたいな。
そして横には――――、
「だって、夜はきれいなんだよ! お星様とか、お月さまとか、お月見とか!」
小さい頃の私。
(あらあら。)
「おだんごおいしいよね!」
(ふふふ、今度一緒に食べようか。)
「やったあ! ありがとう!
――――お母さん!」
―――えっ? お母さん? なんでお話してるの。 会話してるの?
だって、お母さんは、私が生まれる前に、
―――――死んだじゃない!
――――あれ、どこ。私何してたんだっけ。
頭の中が、ぐるぐるして。気持ちが悪い。吐き気がする。体の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような感覚。何、なんなの。
菜多はね、嫌い! 嫌いなの!
お星…様…お月見…お母…さん…
待って、何! お母さん? どういうこと!
…嫌い! …菜多はね! 夜が…大好…お母さん…
嫌い…菜多ねえ…嫌い…夏…夜…嫌い…嫌い!
菜多、夜嫌い! …お母さん、…嫌い…嫌い!
――――お母さん嫌い!
…いっ…嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
瞬間、私は我に返った。
それから、私の目に見慣れた教室風景が飛び込んでくる。
なんだ、夢?
嫌な汗を感じながらも、私は教室をぐるりと見まわした。
いつもと変わらない風景。通常通りの教室。
騒ぎ合っている生徒。大人しく席に座っていた私。―――いつも通りだ。
あえて、どこか違っているところといえば皆、成績表を配られていつもより少しざわついていたところか。
そして私は思考を巡らせた。
よく考えたら、いや、よく考えなくとも前述の通り、私はお母さんに会ったことが、ない。
だから、今のは夢だ。思い出などではない。ありえない。あんな会話をした覚えは無い。私はお母さんを知らない。当たり前だ。そうだ。
…願望が、欲望が見せた夢?
でも、今さら。なんでこんな夢。幼稚園や小学校のころに毎夜見ていたころと、今は違うというのに。
ここで私は無理やり思考を切り離すとそれを手元にある成績表へと向けた。結果はこうだった。
現代文 3 古典 2 物理 2 日本史 3 数学Ⅱ 1 数学B minus1
数学が、少し落ちたか。
私はサラっと見まわして、それをそそくさと鞄の中にしまった。
何のことはない。別に、変な夢を見たからといって。
切り離したはずの思考が、すぐに戻ってきた。
テストも終わって少し、疲れているだけだ。そう思い込もうとした。
しかし、何か、嫌な予感がするのを、私は拭い去ることができなかった。
+++
夜は、突然目を覚ました。それは通常ではありえないこと。
時間は正午丁度。昼の本領発揮時、一番元気な時間である。なんてったって、『昼』である。朝ではない。
――――そして。
その時間は、夜にとって、苦痛の時間でしかなかった。
自身を消し去ろうとする昼を、己の全精力で抑え込む。しかしそれは、―――あまりに苦痛で、激痛を伴うものだった。
それでもなお、夜は意識を手放さなかった。――――手放せなかった。
「…―――っにやってんだあいつは…!
何で思い出したんだ…!」
母親との思い出。それを追憶した女。
女の混乱、錯乱、惑乱。それら全ては夜にとって他とは比べ物にならないほどの激痛だった。自分が存在してはならないその時に、コトワリをねじ曲げてしまうほどに。
「忘れちまえ! んなもん、俺との思い出なんか…! お前は苦痛なんだろ! 早く現実に戻れよっ」
夜は思念を振りまきながら、身を引き裂くような、魂を裂かれているような痛みに耐える。
「聞こえんだよお前の悲鳴がっ! 天まで届いてどうすんだ! お母さんに聞こえたらどうすんだ!」
―――刹那。
女の叫びがピタリと止んだ。
痛みが軽減される。心の痛みが。
そして夜の心にはソレにとって変わって安堵が滲んだ。
なんだ、夢?
「そうだ」
…願望が、欲望が見せた夢?
「そうだ」
いつもどおり過ごせばいい。夜が、嫌いなままでいい。俺のこと、嫌いでいいから。
思い出すな。封印しろ。鍵をかけて、壁を作って、その思い出だけは、―――――思い出すな!!
夜がそう叫んだ途端、黒猫がビクッとして。そして、悲しそうに鳴いた。泣いた。
+++
おもい‐で〔おもひ‐〕【思い出】:過去に自分がであった事柄。
夢ではない。けして偽りではない。 現だ。真実だ。
(思い出すな――――――――――――――――っ!)
だがしかし、夜の悲痛な叫び声は、
必死にそれを否定していた。
+++
――――実際は、違ったんだ。
全く違った。
女が脳内補正をしただけで。
「女」が「夜」にお母さんを見ていただけで。
口調や、声、姿までもがまるで違った。お母さんと言うには不器用すぎて、弱過ぎて。大きすぎて。
女はそれほど「母」という存在を欲していたという、それだけの話。そんな理想を物静かな夜に強要した話。
+++
夜は聞いていた。小さな女の子の泣き声を。不思議だった。響いてきたのだ。その女の子の声だけは何故か自分のところに届いていた。
最初は自分に話しかけているのかと思って夜は適当に答えていた。しかし、どうやら違うらしい。
女の子の話に頻繁に出てくる単語。女の子は「お母さん」という人に話しかけているらしかった。
勘違いをした、と分かった夜は妙に恥ずかしくなって、夜は女の子の話に耳を傾けるのを止めた。
しかし、塞いでも塞いでも、女の子の泣き声だけは響いてくる。届いてくる。夜はそれを無視できるほど大人ではなかった。
夜は内心焦りながら、それでもどうすることも出来ない自分に幻滅する日々を送った。
何を勘違いしているのか知らないが、女の子は空の上にお母さんがいると思っていたらしい。
夜は空に住んでいたので、その上に「お母さん」がいるのなら夜の家である「空」を通過していくのは当たり前といえば当たり前なのだった。
女の子の泣き叫ぶ声は凶器だった。鋭く尖った悲しみが夜の心に突き刺さった。
女の子は言う。
他のお母さんを見るのが辛いのだと。
お友達が話す、お母さんの話を聞くのが悲しいと。
お母さんの悪口を言う子がいると怒りが爆発しそうになるのだと。
やがて。
女の子は、お母さんという言葉が嫌いになった。怖くて怖くてしょうがない。恐怖の対象になってしまった。
夜は、女の子がだんだんおかしな方向へ行くのを、やっぱり見ていることしかできなかった。
声が、思念が、届かないのだ。女の子の声や悲鳴はこちらに届くというのに。
それからの女の子はみるみるオカシクなっていった。
何か、ブツブツと呟いているのだが、何を言っているのかまでは分からない。ただ、分かった。お母さんに話しかけているのではない、ということ。
友達を全員失った。
先生に嫌われた。
勉強をするのが辛い。分からなくても、菜多は教えてくれる友達も先生も持ってない。
嫌われた。みんなみんな、菜多のこと嫌いだ。
お母さんもきっと嫌いだ。こんな子供、嫌いだ。
夜は焦った。焦って焦って。
焦り過ぎた。
「そんなことない。そんなことは無いぞ! お、おおおお前にはオ、オオオオレが――――――」
悶絶する日々。
【一度、心の中で必死に念じてみたことがある。その時はサイコキネシス(念動力)が起こってしまってビックリした。
女の体が宙に浮いたのだ。まぁ、せいぜい五㎝ぐらいのものだったのだが。
それ以来、夜はなにか、怖くなってしまって、見守ることしかできなくなってしまった。
心霊現象と思われるのだけはごめんだった。不気味だと思われるのは、何故かとても嫌だった】
――――――だけど、
女の子をそのままにも出来なかった。
無理だ。夜は冷酷でなければならない、なんてことはない。
暗くても、深い黒でも、それは、希望をひきたたせるもの。
だから。昼に起きた。眠いのをこらえて。コトワリにすら逆らって。
夜は、痛みをこらえて、送った。言葉を贈った。
一言。
(菜多)
名前を、読んだ。
刹那、女の子の肩がピクリと動いた。
「…――――お母さん?」
届いたのだった。
(菜多)
「お母さん――――――――――――――――――――っ! お母さんお母さんお母さんお母さん!」
女の子は叫んだ。ぶわっと涙が噴き出てきて、女の子は泣き叫んだ。
窓に駆け寄って。その時足をぶつけても、痛くても、そんなこと気にする素振りも見せず、熱い灼熱の太陽に向かって叫んだ。声が枯れても叫び続けた。だって、初めてお母さんから返事が返ってきた。
嬉しくて嬉しくて。女の子は。
女の子は夜というお母さんに話しかけた。
嬉々として話しかけた。
他愛もない話を。笑顔で。
【それ以来、夜はなにか、怖くなってしまって、見守ることしかできなくなってしまった】
サイコキネシスが起きた。
夜は話しかけることが怖くなった。
――――だから。
夜は、「お母さん」として話しかけることにした。女の子の姿を「お母さん」として見守ることにした。
サイコキネシスは起こらなかった。
実際は、不器用な母親で。弱くて大きすぎて、口調も声も、姿もまるで違ったけれど。「夜」は、菜多にとって「お母さん」だった。
「菜多ねえ! 夏嫌い! 嫌い! だってね、夜が短いもん! 菜多はね、夜が大好きなんだ!」
(お、オオ…。あ、あああああありがとう…)
「だって、夜はきれいなんだよ! お星様とか、お月さまとか、お月見とか!」
(なんだよ! お星様かよ!)
「おだんごおいしいよね!」
(こ、今度一緒に食べよう、なっ!)
「やったあ! ありがとう!
――――お母さん!」
寒気を帯びた、夜の空気はほんの一瞬だけ温かくなった。
+++
そんな私は、すべてを思い出した。記憶の扉が開いたのだ。
今は、自室。
私は窓際に座って夜空を眺めている。
そう。しばらくたった後、私には夜の声は聞こえなくなった。
「昼」の時に話しかけていたらしい夜は、それから何度も昼時に起きて、試したらしいが無理だったようで。
それは、一度しか起こらない奇跡だったようで。一つ限りの希望だったみたいで。
それは、漆黒の夜空に浮かんだたった一つの一等星だったのだ。
ああ、そうだった。あれからしばらくの間は雨が続いたっけ。
泣かないで。
私はてるてる坊主を毎日作ったんだ。
窓際につるしたんだ。
何で、忘れていたんだろう。
こんな、大切な思い出。
なんでだろう。
私は「お母さん」と話せなくなった。やっと会えたお母さんが、どこかへ行ってしまった。私のもとから消えてしまった。
――――ショックで、ビックリして、混乱して、錯乱して、惑乱して。
私の脳は、お母さんの記憶を、夜との思い出を、その中から消去した。自分を守るために。
―――抑圧された記憶、である。
「ああ、思い出したよ、夜」
全部全部、思い出したよ。
私は夜空を眺めて精一杯心をこめて言った。
お母さんにではなく、夜に。初めて夜に言った。
―――――それでも、やっぱり返事が返ってくることはなくて。
少しでも期待をした私が馬鹿なんだ。
私の目には、じわりと熱いものが浮かんできた。
「だ…から、思い出すんじゃねえよ…」
夜は力なく呟いた。
「お前の泣き顔はもう、二度と見たくなかったなぁ…」
【一度でいいから話してみたいよなー】
お母さんとしてではなく、夜として。言葉を交わしてみたかった。
今まで独り言になってしまっていた女への励ましや、いたわりの言葉を、夜の言葉として聞いて欲しかった。
けれど、そんなこと。
「無理だよなぁ―」
夜は諦めたように笑う。
今まで散々試してきたのだ。母親として。昼にも起きて。
しかし、成功することはなかった。
奇跡はもう、使ってしまった。一度きりだから、それは奇跡と呼ぶのだ。
―――それでも。
これからも、独り言を、応援の言葉を呟き続けよう。夜は決心していた。
いつか女に伝わって、確固とした励ましの言葉になる日を信じて。
独り言から、会話に変わることを願って。
夜は最後に呟いた。
「俺は目玉焼きは、嫌いだ。だけど、お前のことは、――――嫌いじゃねえ!!」
夜は云った。『お前のことは、嫌いじゃねえ』と。
『お前のことが、好きだ』とは云えなかった。
+++
返事のない夜を見つめながら、私はいつかの言葉を話し始めた。
【気まぐれだった。これもまたほんの思いつきであったとしか言いようがない。意味不明な思い付き。自分でもよくわからない唐突な衝動みたいなもの。傍から見たら『可哀そうな子』かもしれない】
「私は、夜は嫌い。理由は…ね、私を悲しくさせるから」
そうだな。悲しくさせたよな。
「……それに昼にしか出てこなかったよね――――っ!」
そ…れは、お前と話すためだ!
それから、いつかの言葉を最後のセリフを、空に向かって、夜に向かって―――――解き放った。
「好きにさせたいんだったら、―――私の目の前に現れて、アタックして―――――っ!」
(そんな言葉で話せたら苦労はねえよ―――――――――っ!)
「え?」
(え?)
届いた。
私の言葉が、夜に届き。
夜の言葉が、私へと―――届いた。
私は五センチばかり、浮いていた。
+++
私は恋をした。
眠れぬ夜に、恋をした。
私の泣き声で、夜は、気が気ではなくて、ゆっくり眠ることもできなくて。
私のために「昼」の時間にまで出しゃばってくるような、そんな存在に。
私は、恋をしたのだ。
Fin
読んでくださってありがとうございました。
サイコキネシス(psychokinesis)・・・意思の力だけで物体を動かす能力のこと。
――――なんて、あるわけないよね。
『私』はそう言うと、長い長い間開いていたノートを閉じた。同時にお母さんの写真も挟み込む。
夜が、人格を持つなんて、ありえない。非、現実的。
私は好きだ。大好きだ。
夜が、大好きだ。
静かで神秘的で、謎に満ちていて。
希望がどこかに埋まってそうで。埋もれてそうで。
だって、最初から見えてる希望なんて、面白くないでしょう?
「もうダメだ」と思った瞬間。突然、突発的に現れるから、嬉しいんだ。頑張れるんだ。走り続けられるんだ。
私は夜が好きだ。
そんな『私』は、夜の物語を書いたのだ。 Byにか
Fin