あなたの腕で抱きしめて
リゼットがパンに刃を当てると向かいに座った使者が話を止めた。
皿の下には滑り止めの布を敷いてある。パンを皿の縁へ寄せれば右手だけでも切れるのだが、使者の目は刃ではなく折り留めた左袖に向いていた。リゼットは切った一片を口に運んでから顔を上げた。
「何かお尋ねでしたか」
「いえ。ご結婚後も今の侍女に来ていただく方がよろしいかと。身の回りのお世話には慣れた者が必要でしょうから」
「マルタが来るかどうかは本人に聞いてください。私の暮らしについてなら私に」
父のオスカーは使者へ向き直った。濃紺の上着に付いた糸を指で払い娘の返事を言い直すように口を開く。
「あれは幼いころから娘を見ています。離すつもりはありません。日々の不自由にもよく気が付きますので」
リゼットは食卓の端に置かれた水差しを見た。使者の杯は空で父の杯には半分ほど残っている。重くなければ自分で注げる。それでも手を伸ばす前に給仕が水差しを持ち上げた。
縁談の話は冬の住まいへ移った。階段の少ない部屋を用意するという申し出に父は礼を述べたが、リゼットの足には何の不自由もない。七歳で荷馬車の下になってから十四年たつ。失ったのは左の上腕の途中から先で、年を取るたびに別の場所まで使えなくなっているわけではなかった。
「お返事は今日でなくてもよいでしょうか。先方とお話ししたことがありませんし住む部屋の相談より先に確かめたいことがあります」
使者が答えるより早く父はうなずいた。その顔を見てリゼットは食べかけのパンを置いた。
「休むためにお返事を延ばしたいのではありません。考えるためです」
「分かっている。別邸へ行く支度もあるだろう。落ち着いてから決めなさい」
父は娘を急がせなかった。望んだ本も服も買ってくれ痛みのある日には医者を呼んでくれる。だからこそリゼットは父が言う落ち着いた日がいつ来るのか尋ねることができなかった。自分で暮らしを決めようとする日はいつも何かを心配される。
翌朝はマルタに髪をまとめてもらい前開きの服を着た。鏡の中には灰緑色の目をした娘がいる。右手で外套の留め具を外しては戻し固すぎないことを確認した。
「それなら道中でもお一人で脱げますね。下の留め具だけは掛け違えないでください」
マルタは言いながら自分の荷物を持ち上げた。先に出てほしいと頼むとその通りに部屋を出ていく。リゼットは最後の留め具を自分で掛けてから後を追った。
ヴェルナ王国北部のベルナール伯爵領には父の持つ古い別邸があった。領都から半日ほど馬車に揺られて着く家は窓の外に森が広がっている。滞在中は縁談の使者が来ない。それだけでも荷物をほどく手が軽くなった。
三日目の午後にリゼットは短い外套を羽織った。雨上がりの道を見ていると歩きたくなったのだ。玄関を出かけたところで背後から呼び止められた。
「お嬢様。行き先を聞いていません」
「森の方へ。長くはかからないわ」
「森は窓から見える分だけでもずいぶん広いですよ。どちらへ行くか教えてください。私も靴を替えますから」
リゼットは扉を開けたまま待った。マルタが言うのは外出の許可ではなく行き先の確認だった。面倒だと思った顔を見られていたらしく侍女は新しい靴のひもを締めながらこちらを見た。
「あなたを探す時に歩くのは私なんです。ひざを大事にしてやってください」
「廃道の石橋まで。今日はその先へ行かない」
二人が橋へ着いたのは二十分ほど後だった。こけの生えた石の欄干に右手を置くと下から金属のこすれる音が聞こえた。水音の間に短い息が混じっている。
マルタが足を止めたのでリゼットも止まった。橋の端から下をのぞくと黒灰色の背が見える。岩だと思ったものが動き表面に並んだ骨の板が日に当たった。
相手もこちらを見た。顔の左右に黄色い目が二つずつある。口は顔の下を横切っていて閉じた歯の先が外へ出ていた。リゼットは欄干から手を離せずにいたがマルタが外套を引いてくれた。
「戻りますよ。目を合わせないで」
橋の下で水が跳ねた。怪物は後ずさりしている。その下側の腕には鉄のわなが食い込んでおりつながった鎖が川岸のくいを引いた。自由な腕は五本あった。わなの歯を引き離そうとする指が滑り石がこちらへ飛んでくる。
リゼットは顔をかばって身を引いた。石は橋の側面に当たって落ちたが怪物は見上げてもいない。挟まれた腕を引いた拍子に石をはね飛ばしたのだった。
「あれは私たちに投げたのではないわ」
「投げなくても死にますよ。頭に当たれば」
マルタの言葉はもっともだった。それでもリゼットは橋を離れずわなへ目を戻した。怪物の指は開き切っている。食い込んだ歯をつかむ手も硬く細い部品を押すことができないようだった。
「わなを外したら逃げるかもしれない。ここに置いていけばもっと人が来るでしょう」
「人を呼ぶべきです」
「討伐の人が来るわ。逃げようとしているだけなのに」
リゼットは橋のたもとから岸へ下りた。マルタが後ろで外套をつかんだため足を止め近づきすぎないと約束した。侍女はしばらく相手を見てから折れた枝を拾った。
二人が岸に立つと怪物は背を丸めた。立ち上がればリゼットの倍近い高さがありそうなのに、頭を橋の陰へ押し込もうとする。そのたびにわなから血が流れた。
「動かないで。腕を外せるかもしれない」
声が震えてしまった。相手が動きを止めたのでリゼットも息を止める。黄色い四つの目が枝を見ている。
マルタが枝の先をわなの押し金に当てた。岸に上がれと手で示すと怪物は少しだけ体を移し鎖が張る手前で止まった。枝を斜めに押しても押し金は沈まずマルタの靴が濡れた土の上で滑った。
リゼットは枝を右手で支えたが、そのままでは固定されたもう一方の押し金へ届かない。怪物の顔を見ると歯が見えた。口を開こうとしているらしい。
「そちらを押して。腕ではなく枝を。私たちが押している方と同じように」
腹側の腕が一本伸び枝の先をつかんだ。怪物が力を掛けるとマルタの側の押し金も沈んだ。リゼットは片足で反対側を踏む。わなの歯が開いた瞬間にマルタが叫び、挟まれていた腕が引き抜かれた。
リゼットは足を離して後ろへ倒れた。右手を土につき目を上げると怪物はまだ岸にいる。傷のある腕を別の手で包んでいた。
「人を連れてくるな」
声は低く息が混じっていた。意味を理解するまでリゼットは返事ができなかった。自分が話した言葉を聞き分けるだけでなく返事もできる。
「もう連れてきています。こちらがマルタです。次に誰かを連れてくるなということなら考えますけれど、お礼より先にそれを言うのはどうかと思います」
言い終わった後に自分の足が震えていることに気付いた。マルタはその腕を支え怪物をにらんでいる。怪物は二人を順に見てから傷を抱える手へ目を落とした。
「助かった」
「そう。それならよかった」
リゼットが立ち上がると折った左袖に土が付いていた。怪物の目がそこへ向く。彼女が右手で土を払おうとした時には相手の体はもう橋の向こうへ動き始めていた。
後を追わずに見送った。枝を捨てたマルタがため息をつきリゼットの服をはたく。歩き出してもひざの震えはすぐに収まらなかった。
「お嬢様。今日だけですよ」
「分かっているわ。今日はもう戻る」
マルタは足を止めたが言い直す言葉が決まらなかったらしい。リゼットの右手を取って橋まで上がり別邸へ向かう道では一度も手を離さなかった。
二日後にリゼットは小鍋を抱えて石橋へ向かった。マルタは包帯を入れた袋を持ち橋の先へ行かないと念を押している。あの傷で人目のある場所へ出れば何が起きるか分からない。そう説明してようやく同行してもらえた。
橋の下には誰もいなかった。リゼットは岸に鍋を置き来た時と同じ道を上がる。そこで木の幹に並んだ四つの指の跡を見つけた。怪物の手の幅と同じくらいある。
「これを追ってはいけませんよ」
マルタに言われてうなずいた。リゼットは代わりに森へ呼びかけた。
「食べ物を持ってきました。食べられないものだったら教えてください。鍋は明日取りに来ます」
待っても返事はなかった。二人が橋へ戻ると森の中で枝が揺れた。振り返った時には大きな背が岸へ下りている。リゼットはその場にとどまって鍋のふたを指さした。
怪物は一番上の腕で鍋を引き寄せた。傷のある腕は腹に付けている。ふたを外して中を見たが食べる様子はなかった。
「私も食べました。甘く煮た洋梨です」
相手は彼女を見続けた。マルタが鍋と一緒に運んだ木の器を取り出す。リゼットは岸へ戻って鍋から一切れすくい自分で口に入れた。
「残り物を持ってきたのではありません。同じものを食べようと思ったの」
怪物は洋梨を指でつかんだ。器がいらないのかと思っていると汁を落とさないようもう一方の手で受けている。歯の間へ果肉が消えた後に舌が指をなめた。
「もう少し薄く切るべきだったかしら」
「このままでいい」
その言葉でリゼットは鍋を持ち帰らずに済んだ。マルタの包帯は使わなかった。傷を見せてもらうと血は止まっており、肉が内側から寄って歯の跡を埋めていたからだ。
三度目に来た時は鍋が橋の上へ置かれていた。中は洗ってありふたの壊れていた取っ手に新しい木が付いている。右手を掛けると以前より持ちやすかった。
リゼットは橋の下へ呼びかけた。顔を出した怪物に取っ手を見せると四つの目のうち下の二つが鍋を見た。
「もう少し太い方がよかったか」
「これで持ちやすいわ。直してくれたのね」
「あれは落ちる。持つ所だけ先に取れる」
礼を言うと怪物は傷のある腕を曲げて見せた。歯の跡が細い線になっている。マルタが本当に動くのか確認したところ面倒そうな顔で石を持ち上げた。
傷を見る用事はなくなった。それでもリゼットは次に何を持ってこようかと尋ねた。怪物は返事をしないまま鍋を見ていたので甘いものと答えてよいのだと教えてやった。
「甘いもの」
「では明後日に。明日は帳簿を片付けたいの」
別邸の生活費を計算していた。父へ提出するものではなく自分が使う金を知りたくて始めた帳面だった。怪物は日数を指で確かめ最後に二本を折ったままうなずいた。
それから二週間ほどで石橋は待ち合わせの場所になった。マルタが一緒の日には三人で岸に座る。怪物は背を曲げリゼットが食べ終わるまで顔を上げない。目が合うたび彼女が器を持ち直すのに気付いたらしかった。
「まだ怖いのか」
甘い豆を食べていたリゼットは口の中のものを飲み込んだ。怪物は膝を抱えるように六本の腕を縮めている。
「急に動かれると怖いわ。歯も。あなたが今こちらを向いた時に落としそうになった」
「なら来るな」
「それとこれは別でしょう。あなたが嫌なら帰るけれど私が怖いかどうかは私が決めます」
言い方がきつくなったので彼女は器へ目を落とした。次の豆を食べようとすると木のさじが鍋へ滑り込んだ。怪物がそれを拾って差し出す。リゼットが手を出すと彼はさじを器の縁へ置き直した。
「怖がらせたいわけじゃない」
「分かっています。私もあなたを見るたびに逃げたいわけではないの。だから下ばかり向かなくてもいい」
怪物が顔を上げた。口の端が動くと歯がいつもより多く見えリゼットは一度だけ息を止めた。
「今は何をしたの」
「お前たちはこうする」
彼がもう一度口を横へ引いたのでリゼットは器を膝へ下ろした。笑おうとしているのだと分かってもすぐには笑い返せなかった。怪物の目がこちらを見ている。彼女は眉を下げ練習しなくていいと頼んだ。
「あなたが楽しい時の顔を知りたいの。私の顔をまねしなくていいわ」
怪物は口を戻し腹側の腕を組んだ。その顔を見てリゼットは今度こそ笑った。相手は笑われた理由を尋ねてきたが困らせない答えが見つからず自分の器を押し出した。
森番小屋を教えてもらったのはその次の週だった。橋から三十分ほど歩いた所にあり屋根の一部が落ちている。大きな体は戸口を通れなかったが裏の壁が崩れた所から入れるようになっていた。
中には木の板と工具がある。怪物は上の二本の腕で板を支え中ほどの腕で削っていた。腹側の手は次に使う道具を持ちどれも別の作業をしている。
リゼットが見ていると怪物は工具を置いた。人に見つからない場所なら体を伸ばせるのだろう。立った姿は小屋の残ったはりより高くリゼットはまた一歩下がった。
「どうして人の言葉を知っているの」
「ここに人がいた。外で聞いた。毎日違うことを言っていた」
「話しかけてはくれなかった?」
怪物は首を振った。聞いていたというのは文字通りだったらしい。リゼットは壁の隙間を見たが彼が昔どこに立っていたかまでは尋ねなかった。
「お名前はあるのかしら。いつもあなたと呼んでしまうけれど」
「ない。呼ぶものがいない」
名前を付けてもよいかと聞くと彼はどんなものか尋ねてきた。リゼットは持ってきた旅行記を開き声にして短い名前をいくつか挙げる。途中で彼が顔を上げた。
「今の。ネル」
「それが好き?」
「言いやすい。お前も呼んでみろ」
リゼットが呼ぶと四つの目がこちらを向いた。もう一度呼ぶと彼はまた顔を寄せる。何度も呼ぶなと言われるまで繰り返してしまいマルタに名前で遊ばないよう注意された。
ネルは彼女の名前も呼んだ。最初は後ろの音が途切れたのでリゼットは急がなくてよいと伝えた。彼が三度目に言い切ると自分でも気付かないうちに口元が緩んでいた。
その日の食事は小屋の前で作った。リゼットが鍋を傾けた時にマルタの敷いた布がずれ熱い中身が流れ出しそうになる。ネルの腕が鍋を支えたのでこぼさずに済んだ。
「ありがとう。でも次は中身の所へ指を入れないで。あなたの分も入っているのよ」
ネルは四本の指を一度に見た。一本ずつ確認している顔がおかしくてリゼットは笑ったが果物を切る時にはその視線を気にしてしまった。右手の中で柄が滑り刃が掌の付け根をかすめた。
マルタが布を取ってくるより先にネルが腕を伸ばした。リゼットは反射的に傷を隠そうとしたが血の落ちる手を彼が受けた。自分の指先をもう一方の手で引くと皮膚が薄く伸びてくる。
それが傷を覆った。柔らかく濡れた布を当てられたようだった。ネルが離した後も黒灰色の膜が掌に残っている。
「取らないでおけ。しばらくすれば傷が閉じる」
「あなたの指は」
「これくらいなら困らない」
薄くなった指先を見せてくれた。マルタはそれをのぞき込み次にリゼットの手を見た。二人の質問へ答えるうちにネルは腕を一本伸ばしその付け根が細くなるところも見せた。
「伸ばした分はここから持っていく。増えるわけじゃない。切って渡すと俺から離れて弱る。何日も残るものじゃない」
「ではこの膜もなくなるのね」
彼がうなずいたのでリゼットは指を動かした。傷のある所だけに膜が付いている。触って確かめているとネルの手が自分の胸へ移った。
「俺から離れても生きる肉にはできる。ただここにある核を使う。全部だ。俺は残らない」
リゼットは彼の胸を見る。硬い皮膚の下にあるものは見えなかったがそこを指す手が先ほどより短く見えた。
「それは使わないで。指を切ることもしなくていい。私たちは布で手当てができるのだから」
ネルは手を下ろして鍋の取っ手へ伸ばした。熱くない方をリゼットへ向け直し切りかけの果物を自分の前へ寄せる。彼女は包丁を渡さず柄が滑った理由を説明した。自分で切り終えるまでネルもマルタも待ってくれた。
三日後には膜が乾き端から剥がれた。下に残ったのは細い傷だけだった。リゼットが手を見せるとネルは自分の指先と比べ今度は刃を見ながら切れと言った。
ネルの道具箱には人間用の留め具が付いていた。細い金具をつまめずに力を掛けた彼は箱を裏返そうとした。リゼットが止めて右手を差し入れると二つの金具は続けて外れた。
「壊す前に頼んで。せっかく直した箱なのに」
「お前の鍋も壊れていた」
「だから直してくれて助かったと言ったでしょう。私だってできる時には手伝いたいの」
ネルは箱を戻し次に閉める時は彼女を呼んだ。リゼットは金具を掛けてから少し待った。相手が首を傾けるので自分から礼を催促すると彼は口を開いたまま腹側の腕を組んだ。
「助かった。これでいいか」
「言わせてしまうとありがたみが減るわね」
「難しい」
それでも次に頼んだ時には彼から礼を言ってくれた。リゼットは返事の代わりにうなずき失敗する前に自分も頼もうと決めた。帰り支度で荷物を背負う時には早速困ったが結局はマルタが気付くまで黙っていた。
ネルが彼女の手を取ろうとしたのは小屋の前で器を片付けていた時だった。リゼットが落ちた布を拾おうとして身をかがめると指が右の手首へ触れた。硬い先端が服の袖へ引っかかりリゼットは手を引いた。
ネルは触れた腕を背中へ回した。彼女が口を開こうとするより先に器を持ち上げ小屋へ入っていく。リゼットは布を拾って後を追った。
「今は指が袖に掛かったの。破れると思ったから」
「お前の手も破れる」
「つかみ方によるでしょう。マルタにだって痛くされたことはあるわ」
侍女が背後で何か言ったがネルは器を置いたまま彼女を見ていた。リゼットはその前へ立ちどの手で触れたのか尋ねる。中ほどの右の腕が動いた。
「それを出してくれる?」
差し出された手は大きかった。指の根元は柔らかそうだが爪に当たる先端は木を削れるほど硬い。リゼットは指先へ近づけた右手を一度止めた。その様子を見てネルの指が細くなっていく。
「そのままでいいわ。一本なら持てるから」
リゼットは一番外側の指を握った。硬い先を避けて関節の下へ手を回す。少し力を入れるとネルの指も曲がり手の中から抜けなくなった。
「これなら痛くない。あなたは?」
「痛くない」
ネルが腕を持ち上げかけたのでリゼットは肩を引かれて足を踏み出した。彼はすぐに腕を下げた。身長が違うのだから歩く時は彼女の肩より下にしてほしい。そう伝えると彼は四つの目を手へ向けた。
「手を持って歩くにはずいぶん考える」
「一度覚えれば次からは早いわ」
ネルは小屋の外へ向かった。腕を下げて待っているのでリゼットも続いた。マルタの前を通る時は顔を上げられなかったが離そうとすると指が曲がった。
「まだか。次は早いんだろう」
リゼットは握り直し彼の横を歩いた。足の幅を合わせようとしてネルが何度も立ち止まる。マルタの所へ戻るころには短い距離の割に時間がたっていた。
その後は会うと手をつないだ。いつまでも握っていると荷物を下ろせないためリゼットから離すのだが、ネルはたいてい右手が空くのを待っていた。本を読んでいる時にも手が出てくるので一度はページをめくれないと叱った。
ネルはひざの上にある旅行記を見た。リゼットが読んでいた場所は南の町の紹介だった。窓に張った色付きの布の話を聞かせるとネルは自分の小屋にも掛ける場所があると壁を指した。
「掛ける前に穴をふさがなくては。雨が入ってぬれてしまうわ」
「ここは直す」
木の板を指さす手が二本同時に動いた。リゼットは必要なくぎの数を紙に書きネルに板の寸法を測ってもらった。彼の指を単位にされて書き直すことになったがこれまでより長くここにいる理由ができた。
歌ってほしいと言われた時には断った。旅行記の中に歌が載っていたので声にしてほしかったらしい。上手ではないと伝えるとネルは歌詞を見ながら待ち続けた。
リゼットが歌い始めるとマルタは器を洗う方へ行った。ネルは顔を下げて聞いている。途中で高さが分からなくなり同じ所を二度歌った。終わっても彼は何も言わなかった。
「何か感想はないの。下手なら下手でもいいから」
「二度同じことを言う歌だった」
「そこは私が間違えたの。来ない船を待つ歌よ」
ネルは本の行を追いもう一度聞きたいと言った。リゼットは先ほどと同じようには間違えない自信がなく、翌日まで待ってほしいと頼んだ。彼は今のままで構わないと言ったがそれでは自分が困るのだと説明した。
帰り道でも口の中で歌いマルタに別の旋律になっていると指摘された。それでも翌日には続きを覚えてきた。ネルは小屋の前に腰を下ろし彼女が隣へ座る場所の枝を払っていた。
雨が強くなった夕方にもリゼットはその場所にいた。屋根を打つ音が歌を消し外の道には水が流れている。マルタが戸口を見ては鍋へ戻った。別邸へ戻るには沢を渡らなければならない。
「今は出ない方がよいですね。お屋敷には森へ行くと伝えてありますし朝には戻れます」
ネルは奥に積んでいた板を寄せぬれていない床へ布を敷いた。マルタが出かける時に持ってきた外套を重ねてくれる。リゼットはそれを見ながらネルの普段寝る場所を尋ねた。
彼が示したのは壁の崩れた方だった。背中の骨が邪魔なので人間のように仰向けには寝られないらしい。横向きに丸くなる体を見ているとその前の場所が空いていた。
「隣へ寝てもいい?」
マルタが手を止めた。ネルは顔を上げリゼットの敷いた布を見た。
「夜には動く。踏むかもしれない」
「踏まないくらい離れるわ。顔が見える所がいいの」
「眠れば見えない」
「眠るまでは見えるでしょう。明かりもついている」
自分の声が必要以上に強くなった。ネルはしばらく動かずやがて床の上へ腕を伸ばした。寝返りを打っても骨が当たらない位置を示してくれたのでリゼットはそこへ布を移した。
マルタは戸口寄りの床に腰を下ろした。とがめられるかと思ったが外套の端をもっと胸まで上げるよう言われただけだった。リゼットはネルの顔と自分の間にある距離を測り右手を出した。
四本の指からいつもの一本を選んだ。ネルは目を閉じずに彼女を見ている。リゼットがもう少し近くへ来てほしいと頼むと長い首がこちらへ曲がった。
ほおに唇を当てた。思っていたより温かく離れようとした時には彼の指が曲がった。ネルは顔を動かさずに四つの目をこちらへ向けていた。
「今のは何だ」
「好きな人にすること。する前に聞けばよかったわね」
リゼットは返事を待った。指を握る右手が汗ばんでいる。ネルは組んでいた腹側の腕をほどき床に置いた。
「もう一度してもいい。聞くのは今だけでいい」
次は先ほどより長く触れた。離れた後は彼の手を見てしまい彼から呼ばれて顔を上げる。ネルは彼女の名前を言い終えてから口を閉じた。
「来るなと言っても来るお前を待っていた。明日からは来てほしいと言っていいか」
「言ってほしいわ。お料理を置きに来るだけではなくて私に会いたいと」
「会いたい。今でもそうだ」
リゼットは目を伏せた。いつもは息をするだけで見える彼の歯が近くにある。それでも今は手を放したくなかった。指の曲がる力を確かめながら布の上へ横になった。
夜中に目が覚めるとネルの顔は同じ位置にあった。上の目は閉じているが下の目が彼女を見ている。眠れているのかと尋ねるとその一つも閉じたのでリゼットは声を出さずに笑った。
朝は屋根から漏れた水の器を片付けた。ネルが外で板を切りマルタが残った食べ物を温める。リゼットは器の底を拭いて並べた後に自分の旅行記を乾いた棚へ置いた。
「持って帰らないのか」
「ここでも読みたいもの。あなたも見られるし」
ネルが棚を支えている腕を一本下ろした。リゼットはその手の下へ入り彼の指を握る。泊まった場所で朝食の用意をして本を置くと、次に戻る時は訪問とは別の言い方ができそうだった。
「私もここに住みたい。雨漏りを直して器をもっと置いて。父に小屋を借りたいと話してみるわ」
ネルの指が固くなった。リゼットは握る場所を変えようとしたが彼は手を引き戻した。
「人にここを言うな。お前の父でも」
「マルタにも話してもらえるわ。あなたがどういう人か説明すれば」
「俺は人じゃない。言ったら人が来る」
マルタが器を置く音がした。リゼットはそちらを見たが侍女もうなずいてはくれなかった。ネルの手を放して自分の外套を取る。
「父の土地なの。黙って住めば別のことで人が来るわ。隠れずに暮らせるようにしたいの。あなたに会うたびに見つかることを心配するのは嫌よ」
ネルは答えなかった。帰る時も指を出してくれずリゼットは自分からその手を取った。彼が曲げるのを待ってから放したが別邸へ着くまでマルタと話すことはできなかった。
森へ通い始めて六週目に父が別邸へ来た。リゼットは到着を告げられると鏡の前に立ち自分で髪をまとめようとした。右手を後ろへ回してもねじった髪を留めておけず、三度目にほどけたところでマルタを呼んだ。
「お願いします。今日は話す前から疲れた顔をしたくないの」
マルタは彼女を椅子に座らせた。いつもより強く髪を引かれリゼットは鏡越しに顔を見る。
「話すことまで代わってもらおうとは思っていません。あなたが見たことだけ話してほしい」
「見たことは話します。でもあの方が聞かない時には止めてください。全部話すと決めないで」
リゼットはうなずいた。ネルの居場所を告げずに話を聞いてもらおうと思い書いた紙を右手に握った。最後に折った左袖を触ってから食堂へ向かった。
父は帳簿を閉じて顔を上げた。窓際に座った娘が紙を広げると縁談の返事だろうと言う。リゼットは違うと答えた。
「一緒に暮らしたい相手がいます。会ってもらえないでしょうか。私が話すことを聞いてその後に決めてほしいのです」
父は椅子の背にもたれた。彼女が食事の席で答える時より長く待ってくれる。リゼットは出会った日のことから話し始め怪物だと告げる箇所で父が机へ手を置いたのを見た。
「そのためにマルタもここへ?」
「はい。私も話を聞いております。お嬢様を襲ったことはありません。私が反対した時にも声を荒らげず来ない方がよいと言ったこともあります」
父の視線が二人を往復した。リゼットは紙に書いていた言葉を見失い読み直す代わりに鍋の取っ手を直してもらった話をした。名前を自分で選んだこと、彼女の歌を聞くこと、小屋の屋根を直していることも話した。
「分かる言葉を話します。私が嫌なことを頼んだ時には断りますし間違えていれば指摘もします。何でも都合よく言う相手ではありません」
「言葉を話すことは疑っていない」
父の返事は予想したものと違った。怪物が話すはずはないと言われると思っていたのだ。リゼットが口を閉じると父は机にある別の紙を取り上げた。
「街道で大きな怪物を見たという報告がある。林業の者からもだ。あれが同じものかは確かめる必要があるがお前は既に会っているんだな」
「誰にも危害は加えていません。それを話しに来たのです」
「お前に危害を加えていないことと危険ではないことは違う。力のあるものが娘をそばへ置くために優しくすることもある」
リゼットは机の端へ右手を置いた。ネルの指を握った時に言ったことを順に思い出す。自分が頼んだことも彼から頼まれたこともある。父の言い方ではそれらが初めから別のものになってしまう。
「それなら会って確かめてください。私は何も隠さず話そうとしているのに見たこともない相手の気持ちまで決めないで」
「今はどこにいる」
リゼットは父の目を見た。会ってくれるのだと思った。森番小屋にいると答え石橋から先の道を説明した。言い終えてからマルタの手が自分の肩へ触れた。
父は立ち上がった。窓際を離れ扉を開けて使用人を呼ぶ。討伐隊へ知らせを送るよう言う声が食堂まで聞こえた。
リゼットは椅子を押して立った。父の袖へ右手を掛けると相手も足を止めた。
「会って確かめてほしいと言ったのです。殺してほしいとは言っていません。私を傷つけたことがないとお話ししたでしょう」
「だから今なら間に合う。何かあってからでは取り戻せない」
「私はそこに住みたいの。連れていかれたのではなく私が行きたいのです」
父は右手に掛かった指を外そうとした。リゼットは離さず、外套でもなければ取れる留め具でもない袖を握り続けた。父が娘の目を見たので言葉を足す。
「腕がないから判断もできないと思っているの? 私が好きになった相手のことまでお父様が答えるの?」
「そういうことではない。お前が私を恨んでも生きてさえいてくれればいい」
袖が手から抜けた。父はマルタへ娘を部屋に戻すよう命じた。リゼットが出口へ向かうと使用人が扉を閉じ父は廊下の先へ行ってしまった。
午後にはギデオン・ラウクが来た。討伐隊の責任者にも話を聞いてほしいと訴え続けリゼットは父のいる食堂でもう一度話す機会を得た。隊長は短い黒髪を整え椅子へ座る前に彼女へ頭を下げた。
リゼットが話している間は目をそらさなかった。ネルが言葉を話すことも彼女をかばうように手を出すことも書き留めている。リゼットは紙に記されるたび少しでも伝わったと思おうとした。
「では殺さずに済む方法を考えてもらえますか。私が会ってお話しします。森の外へ出ないと頼むこともできます」
「お嬢様を交渉に連れてはいけません。相手がその通りに従う保証もありません。今は言葉を理解すると分かったので止まるよう命じてから拘束できます」
「分かったことを捕まえるために使うのですね」
隊長の手が止まった。鼻筋の古傷がこちらを向く。返事を待っていると彼は机の上へ両手を置いた。
「言葉を使う相手を保護する取り決めはありません。私は領主様の要請を受けて危険を除きに来ました。会話ができれば力も抑えられると判断することはできません」
リゼットは父へ向き直った。要請を取り下げてくれと頼んだが父は答える前から首を振っていた。隊長が明朝の出動を告げる。彼女を部屋へ戻すために呼ばれた使用人が席の後ろへ立った。
夜になってもリゼットは寝台へ入らなかった。部屋の外には人がいる。窓から見える道を眺めているとマルタが食事の盆を持って入ってきた。
「裏口を開けます。靴もそこへ置きました。荷物は私が持って下りますから今は食べてください」
リゼットは右手で盆を受けた。侍女はその手を見てから部屋の扉へ向かった。呼び止めると振り返る。
「あなたまで父に責められるわ」
「責める相手ならここにいます。あなたが森へ行くことは昼間のうちに頼みました。聞いてもらえませんでしたけれど」
マルタは扉を開けて外の使用人へ空の器を下げる話をした。リゼットはその間にパンを食べ寝台の下から地図を取った。小屋を借りるために調べていた領地の図面だった。今は峠の向こうの道を見る。
裏口に着くまでマルタが先を歩いた。台所から抜ける時には使用人の話し声が聞こえたが止まらずに進む。外で靴を履くと侍女が食べ物と水を入れた袋を掛けてくれた。
「小屋から先も行くつもりですね」
「一緒に逃げます。ネルだけを行かせて戻ることはできません」
マルタは外套の留め具を確認した。リゼットが前に言われた通り下の留め具を掛け直すと、彼女は裏口を押さえて森への道を示した。
「沢へ下りる手前には石があります。夜は見えませんから足を上げて。食べ物は急いで食べないでください」
リゼットは侍女を右腕で抱いた。顔が見えないほど肩へ寄りそのまま少しだけ立っていた。離れるとマルタは追わず彼女が森へ入るまで扉の所にいるのが見えた。
小屋へ着くころには息が切れていた。昼なら知っている道でも闇の中では同じ木に見える。石橋から先の指の跡を何度も確かめようやく崩れた壁を見つけた。
ネルが立ち上がった。彼女の顔を見て荷物を受け取ろうとしたのでリゼットは先に右手を上げた。
「父に話しました。あなたの居場所も。会ってくれると思って話したの。討伐隊が来ます。明日の朝には小屋へ」
ネルは手を戻した。腹側の腕が組まれる。リゼットは謝ってから父の返事を伝えた。どんな言い方をしても小屋の位置を明かしたのは自分だ。
「俺は話すなと言った」
「ええ。あなたは言った。私が聞かなかった。父に分かってもらうことばかり考えていたの」
リゼットは地図を出して作業台へ広げた。謝罪だけで夜を終わらせる時間はない。ネルはここを出る支度をしていなかった。並んだ板も直しかけの屋根も昼間のままだった。
「峠を越えましょう。持っていける食料はこれだけです。お金も少しある。ふもとの道に出たら住む所を探すわ。私の取り分から出せるお金もあるから」
「お前は行けない」
「足は動くわ。歩けなくなったらあなたに頼む。帰れば私の場所が分かるしあなたを探す人も来るでしょう」
ネルが伸ばした指は地図の山肌をなぞった。岩の割れ目を通る道は体が入らず、斜面を下りれば歩けなくなるほど深い谷があるという。峠まで行けば広い道が続く。リゼットはそこを右手で押さえた。
「一緒に行きたい。ここに住もうとした時と同じように」
ネルは板の上にある旅行記を見た。リゼットが荷物へ入れようとすると彼の手が先にそれを取る。食料の袋と一緒に抱え残りの腕を彼女へ出した。
リゼットは指を握った。ネルはいつもの高さまで手を下げると小屋を離れた。地図を持つために途中で手を放したが彼は前へ出すぎずに歩いてくれた。
山の道は坂になると足元が見えなくなった。リゼットは何度も木の根に靴を引っかけた。息を整えるために立ち止まっているとネルも止まる。彼女が近づいてこないことに気付いたのか顔を戻した。
「抱えてもらえる? 足が上がらなくなったの。歩く方が遅いわ」
ネルはうなずき袋を背中へ回した腕に持ち替えた。二本の腕が彼女の背とひざの下へ入り体が地面から離れる。リゼットは彼の首へ右腕を回し落ちない位置を確かめてもらった。
「これなら楽よ。早く頼めばよかった」
「今も早くない。息が変わった時に言え」
リゼットは返事をしながら彼の肩へ顔を寄せた。とがった骨の板は背中の方にある。顔を上げれば彼の横顔が見え口を開くたびに歯がのぞいた。
小屋へ帰るつもりでいた朝から今日までのことを話したくなった。父へ見せる紙を書いた時にはこんな道を通るとは考えていなかった。ネルは前を見ている。リゼットは話す代わりに名前を呼び返事をしてくれた声を耳元で聞いた。
峠の手前で明かりが見えた。ネルの歩みが止まる。道の両側で金属が光りリゼットが顔を上げると人影が山肌から離れた。
「ベルナール家のお嬢様ですね。そこから降りてください」
昼に会った隊長の声だった。ネルの首へ回した腕をリゼットは離せなかった。
リゼットはネルに降ろしてほしいと頼んだ。右腕をほどくと彼の手が足を支え靴の底が地面に着くまで待ってくれる。彼女が前へ出ようとした時にはその指が外套へ掛かった。
「私から話します。ここで争わないで」
ネルが指を外すとリゼットは隊長へ向かった。明かりの先には鎖を巻いた兵がいる。その後ろの道には長いやりを載せた発射台が据えられていた。
「明朝に来ると言ったでしょう」
「本隊が小屋へ向かうのは明朝です。先に逃走路を押さえました。お嬢様が別邸にいらっしゃらないと知らせも受けています。こちらへ来てください」
隊長は右側の兵を手で示した。リゼットはそちらへ行かずネルの方へ目を戻した。彼は荷物を胸へ寄せ腹側の手を開いている。
「領地を出ます。誰も襲いません。通してもらえればこの道から行けます」
「お嬢様を連れたまま行かせることはできません。まず離れてください」
彼女が首を振ると兵が二人近づいた。リゼットが足を戻そうとするとネルとの間へ一人の兵が入り、もう一人が右腕を押さえた。ひねられて痛む手で自分の袖をつかむと地図が地面に落ちた。
「放して。連れていかれているのではありません。私が一緒に行こうと言ったの」
ネルがこちらへ体を向けた。隊長は動くなと命じ道の反対側へ手を上げる。鉄の輪がネルの中ほどの腕へ掛かり別の輪が脚へ巻き付いた。
ネルの手から袋が落ちた。残った腕で鎖をつかむが兵が両側へ分かれて引いている。リゼットは兵へ右の肩をぶつけた。腕を取り戻そうとしても相手の指は離れず、外套が首へ食い込んだ。
「引っ張らないで。痛いの。彼を止めるから手を離して」
ネルの背中にある骨の板が立った。彼はつながれた腕を内側へ引き岩に巻いてあった鎖を切った。音を立てて輪が地面を転がる。自由になった腕がリゼットの方へ伸びた。
ギデオンが下がれと声を上げた。リゼットを押さえていた兵も道の脇へ退く。彼女はついていかず足を踏ん張ったが靴が石へ当たって転んだ。右腕を支える兵の手が滑り地面へつく前にようやく抜けた。
リゼットはひざを打った。立とうとすると隊長の声が聞こえた。発射台の後ろにいた兵の腕が動く。
「待って。ネルは私の所へ来ているだけです」
リゼットが道へ出た時に鉄の部品が鳴った。ネルの顔が目の前へ来る。伸びた腕に腰を押され彼女は道の端へ倒れた。
撃つなという声が頭の上を通った。次に聞こえた音は地面へ金属が触れた音だった。ネルの胸から長い柄が突き出ている。彼はリゼットへ倒れ込まず残った腕をついて体を横へずらした。
四つの目が彼女を見た。右手を伸ばすと彼の指が触れたがいつもより強く握っても曲がってこない。ネルの口から息が漏れた。
「撃つな。全員止まれ」
隊長の声が今度はよく聞こえた。リゼットは地面にひざをつきネルの首へ右腕を回した。上げようとしても重くて動かない。
「立てる? ここを出ましょう。荷物は置いていく。私も歩けるから」
「核が割れた」
ネルの手が自分の胸へ移りかけて落ちた。リゼットは刺さったやりを見た。柄を動かそうとすると彼の息が止まったので手を離す。抜くこともできずに口元へ触れた。
「肉を動かせるでしょう。指の時みたいに。そこの傷をふさいで」
「核は作れない。肉だけだ」
彼の下の目が閉じた。上の二つはリゼットを見ている。彼女は外套の留め具を外し折り重ねて胸へ押し当てた。手が一本しかないので体を寄せて布を押さえる。
「誰か布を。押さえてください。ここを押さえれば」
隊長がひざをついた。リゼットの右手と同じ場所へ布を当ててくれたので、彼女はネルの手へ戻ることができた。指の一本を握り曲げてくれるのを待った。
「残っているうちに使う」
「使わないで。あれは使わないと話したでしょう」
リゼットは彼の胸を見た。隊長の手の下で皮膚が動いている。ネルは顔を地面から上げようとしていたが途中で止めて口だけを開いた。
「もう俺には使えない。お前につなぐ」
「いらない。腕なんていらないから。ここにいて。あなたに会いたくて来たの」
言いながらリゼットは指を放しそうになった。握り直すと彼の手が動く。自分で引いたのかと思ったが黒灰色の皮膚が外側からほどけていた。
「リゼット。放すな」
彼の名前を呼び返した。上の目が一つ閉じる。残った目はまだ彼女を見ていて手を離せばそれも閉じてしまいそうだった。
「放さない。ずっと放さないから」
指が掌の中で柔らかくなった。細い肉が手首の下を通り彼女の左袖へ伸びる。リゼットは留めていた布を外せず隊長が腰の刃物で留め具を切った。
左上腕の残った部分に肉が触れた。初めは外から包まれているだけだったが、次には長く忘れていた所へ何かが触れた気がした。ネルの胸から腕へ流れる肉が光の下を動いた。すでに閉じた二つの目は開かない。
ひじになる部分が曲がり手首の先に四本の指ができた。硬い指先を見てリゼットは彼の顔へ右手を戻した。口の端をなぞっても歯は隠れず顔は向いてこない。
ネルの最後の目が閉じた。伸びていた肉の先が彼の体から離れ胸へ当てていた布が落ちた。リゼットは顔に触れた右手を離せなかった。
顔に当てた右手をそのままにして左手で彼の指をつかもうとした。四本の指が思った通りに曲がる。ネルの手はその中に入り、彼女が力を緩めると地面へ戻った。
リゼットは何度も同じことをした。握ってほしい指を持ち上げ曲げてほしい所へ右手を添えた。声にして頼んだが聞いている時に動いた口も目も変わらなかった。
隊長が彼女の名前を呼んだ。リゼットは右手で自分の左腕を引き寄せた。ひじの内側へ顔を押し付けると彼の皮膚に触れた時と同じ温かさがあった。けれど抱いてくれる別の腕は来なかった。
泣き声が自分の口から出ていると分かった後も止められなかった。名前を呼ぼうとすると息が詰まり、腕に顔を押し付けたまま同じ音を繰り返す。ネルの残った体へ兵が近づいたのでリゼットは顔を上げた。
「持っていかないで。小屋へ戻して。あそこへ帰るの」
ギデオンは兵を止めた。リゼットが自分の腕を抱き直しても立つようには言わなかった。やりを抜く時には兵の体がネルを隠し彼女は顔を左手へ押し付けていた。
夜が明けてから父が来た。リゼットは彼を見ず小屋のそばへ埋めたいと話した。何を言われても同じことを答えた。父が承知すると初めて顔を上げ家には帰らないと伝えた。
マルタがそばに立っていた。彼女はリゼットの新しい腕に触れず泥の付いた髪を耳の後ろへ寄せた。指を握られてもリゼットは握り返せなかった。
埋葬には二日かかった。ネルが直していた小屋の横へ深い穴を掘り残った体を運んだ。リゼットは掘る仕事をしようとしても道具を落とした。新しい左手が使えないのではない。土を掛ける自分の手を見てしまうと先へ進めなかった。
最後の土が入るまでそこにいた。マルタから水を受け取る時にも墓から目を離さず、声が出なくなってからも名前を口の中で呼んだ。小屋へ戻るよう言われると左腕を胸へ抱きもう少しと答えた。
半年後には小屋の屋根が直っていた。ネルが切って置いた板を使ってふさぎ窓にはリゼットの選んだ布を掛けた。壁の崩れていた所もふさいだので人間が使う戸口だけが出入りする場所になった。
父から居住と土地の使用を認める書面を受け取っていた。持参金にするはずだったリゼットの財産から修繕費を出し、残りで暮らしている。マルタが村へ買い物に行く間には彼女が台所に立った。
鍋を両手で持ち上げると左の指が取っ手を包んだ。右手だけで使っていた頃の取っ手が少し狭い。ネルが直してくれた木を外すことはできず指を一本ずらして火から下ろした。
棚から器を取った。自分とマルタの分を並べた後にもう一つへ手が伸びる。ネルの使っていた大きな器だった。置く所を空けて持ってきたが鍋から煮物をよそおうとした時に手が止まった。
湯気の中で四本の指が見えた。あの口に合うように果物を大きく切ったことを思い出す。小さく切るべきか尋ねた時の返事も覚えている。リゼットは鍋のふたを閉じ左腕を右手で支えて椅子へ座った。
マルタが戻ってくるまで顔を上げられなかった。買い物の袋が床へ置かれ大きな器を棚へ戻す音がした。リゼットはしばらくしてから二人分の食事をよそった。
父の便りは箱にしまってある。荷物を受け取った時には礼を書いたが近況を尋ねる手紙にはまだ答えていなかった。森へ移ると伝えた日に父が何を言おうとしたのかも聞き直しに行く気にはなれない。
夕方には小屋の横へ出た。墓へ続く道には草が伸びていたので右手で抜いた。左手を使えば早かったが指に泥を付けたくなかった。墓石の前に着いてから外套で左の掌を拭いた。
石にはネルとだけ刻んである。書く名がほかにないのではなく彼が自分で選んだ名前を残したかった。リゼットはその字へ右手を置き最初に呼んだ時の目を思い出した。
名前を口にすると返事を待ってしまう。もう一度呼んでも森から音は返らない。彼女は墓石に背を預け左腕を胸へ引き寄せた。硬い指の先が服へ掛かり外してからもう一度抱く。
マルタが戸口から呼んだ。日が落ちる前に中へ入ってほしいと言っている。リゼットは答えようと顔を上げたが息と一緒に泣き声が出た。
「もう少し。あと少しだけ」
侍女は戸口に腰を下ろした。リゼットは左の指を一本ずつ右手でなぞり、いつも握っていた一本を手の中へ入れた。力を込めれば自分の左手が曲がる。彼女はその力を抜き握り返してこない指に唇を当てた。




