99.戦いのあと
魔法結界の作動により、戦いは終わった。
私がヴェルデン領に到着したとき、そこには信じられない光景が広がっていた。
あたり一面に、動けなくなったスタンダル帝国兵が起き上がろうとすらせずに横たわっている。
(魔法結界による重力だな……。ハーマンの騎士が倒れたのと同じだ)
そんな中、ダイバーレス王国の兵たちが、スタンダル兵から武器を回収し、拘束作業を進めていた。剣や槍が次々と集められ、山のように積み上げられていく。
中には、ヴェルデン領の民間人が運搬作業を手伝っている様子も見られた。男たちが荷車を押し、女たちが水を運んでいる。
嫌な臭いが鼻につく。血と汗と、廃棄物の臭い。
私は、ハーマン兄上の指示のもと、スタンダル帝国皇帝カシウスとの交渉に臨むことになった。
場所は、魔法結界に一番近い、ヴェルデン領沖の島に設定した。
皇帝が何か企んでも、結界に入ってしまえば対応できる。さすがに皇帝を魔法結界内に入れるのは、外交的に考えて難しい。
皇帝を敵認定してしまえば動けなくなり、交渉に支障をきたす。かといって、敵認定しないまま入れるのは危険だ。
島の上に、簡素なテントが張られていた。
その中で、私はカシウス皇帝と向かい合って座った。
皇帝は、鋭い目で私を見つめている。その視線には、敗北の屈辱と、それでも失わない威厳が混在していた。
私は、淡々とした口調で話し始めた。
「ダイバーレス王国側の要求は、主に四つあります」
皇帝は黙って聞いている。
「第一に、停戦協定の即時締結。第二に、今回の戦いでかかった必要経費分の賠償」
私は一つ一つ、指を折りながら言った。
「第三に、今後の貿易において、向こう五年間の関税を我が国に有利な条件に改定すること。第四に、ダイバーレス王国を裏切ったアンドリアン・クレイヴェルの身柄に関わる一切の関与の拒否です」
カシウス皇帝は、しばらく沈黙した。
風が吹き込んできて、テントの布が揺れた。波の音が、遠くから聞こえてくる。
「どうですか?ダイバーレス王国はスタンダル帝国より南にあるとはいえ、この季節は寒い。このまま長引けば、拘束されたままの貴国兵士たちが低体温症で大量に凍死するでしょう。あまり長く待たせない方がいいと思いますが」
それを聞いた皇帝は面白くなさそうな顔をしながら、低く短いため息をついた。
「……受け入れよう」
皇帝は抵抗を見せなかった。
おそらく、今回の敗戦でスタンダル帝国内では世論が厳しくなるだろう。そんな中で寒さの中捕虜を待たせたことで死人が出たとなると、更なる混乱を招く。早急に対応したいのだと見え、その後は余計な抵抗もなく交渉は順調に進んだ。
両国間の合意が、正式に成立した。
こうして、戦後処理は円滑に進められた。
戦いが短期間で終結したことで、王国の被害はほとんどなかった。戦地となったヴェルデン領には被害が多少あったものの、領地全体が壊滅するようなことにはならず、迅速な復興が可能な程度だった。
各地から駆けつけた援軍も、三日間の戦後処理を終えて、それぞれ引き上げていった。
交渉の材料となったスタンダル兵は、船に載せて結界外まで運ぶようにした。
結界から出るギリギリのところまで、ダイバーレス王国兵が船を操作する。そして結界内で離脱した後に、スタンダル側に回収させることになった。
―――――――
俺は、なんとかやり遂げた思いで、深くため息をついた。
隣には王国軍の司令官がいる。彼も同じように、疲れ切った顔でため息をついていた。
二人で、スタンダル帝国の船が領海の外に出ていくのを見ていた。
船が遠ざかっていく。白い帆が、水平線に消えていく。
まだ気は抜けない。だが、もう少しで、やっと戦後処理が終わる。
本当にひどい三日間だった。
まるで地獄のようだった。
命令は簡潔だった。
「感染症を出すな。三日で終わらせろ」
魔法結界の効果で、重力によって動けなくなったスタンダル兵の武装を解除し、拘束するところまではよかった。
だが、そこからが地獄だった。
フィリップ殿下がスタンダル帝国との交渉をするときに、捕虜として交渉材料にするためには、スタンダル兵は生かしておかなければならない。
寒い中、外に寝かせておいては凍死してしまう。
フィリップ殿下が到着すると同時に指示を仰ぎ、王国軍とヴェルデン領の騎士団は協力してスタンダル兵をスタンダル帝国の船にどんどん運び入れた。
援軍に来ていたアメリア夫人には、凍死の危険があるスタンダル兵を優先的に選んでもらうよう依頼した。アッシュクロフト騎士団に、そうした兵士を優先的に運んでもらうためだ。
「闘いに来たはずなのに、後片付けの方が大変だな」
アメリア夫人は苦笑いしながら引き受けてくれた。
スタンダル兵は重力を感じているみたいだが、俺たちには関係ない。しかし、体の力が全く入らない人間はひどく重たく感じられた。
更には、排泄物などで汚れていることもあり、運ぶのも一苦労だった。臭いがひどく、吐き気を催す。
船の中も酷い有様だった。
狭い船内に、大量の兵士が押し込められている。空気が淀み、悪臭が充満していた。
「換気を止めるな! 水は一人ずつだ! 触れる者は必ず消毒を行え!」
俺は声を張り上げ、騎士たちに指示を飛ばした。
あまりの環境に、胸の奥が軋む。
敵兵とはいえ、これは人間に課していい環境ではない。剣で斬る方が、どれほど楽だったか。
……もし、ここで疫病が出たら、一番の被害に遭うのはヴェルデン領だ。
俺たちの領民が、病に倒れることになる。
「……迅速に終わらせるしかない」
自分に言い聞かせるように呟いた。
三日間、眠りは細切れだった。
少し仮眠を取っては、また作業に戻る。そんなことの繰り返しだった。
何度も吐いた。船の中の匂いに耐えきれず、海に向かって胃の中のものを吐き出した。
何度も水で顔を洗った。それでも、匂いが鼻について離れない。
それでも、仕事は終わらせた。
汚れ役を引き受け、誰にも誇れない仕事をやり切ることもまた、必要なことだ。
ヴェルデン領騎士団長として、領主代行として、俺がやらなければならなかった。
(……だが、もう二度とこんな経験はごめんだな)
俺は、遠ざかる船を見つめながら、心の底からそう思った。
風が吹いて、潮の香りが鼻をくすぐる。
ようやく、戦いは終わったのだ。
完結まで毎日更新します。年内完結を目指しています。




