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97.戦地にて

 戦況は順調だった。

 私の読み通り、ダイバーレス王国の魔法結界は弱まっていた。帝国軍はほぼ抵抗を受けることなく上陸することができた。

 ヴェルデン領の水軍は所詮、海賊船対策の船だ。スタンダル帝国艦隊の大砲の前にはひとたまりもなかった。

 その勢いで、海岸にあるヴェルデン城に向かっても大砲を撃ちこんでみたが、堅牢な城壁はびくともしなかった。しかし、それは予想がついていたことなので大したことはない。


 だが、問題はそこからだった。

 陸に上がった途端、ヴェルデン領の騎士団が想像以上に強固な抵抗を見せたのだ。

 正しい育児方法で育てられている帝国民の軍は練度が高く、謝った育児方法で育てられた王国の騎士団よりも圧倒的に優位に立つはずだった。実際、港から離れた海岸から上陸した帝国軍は王国騎士団と思われる軍勢をどんどんなぎ倒している。しかし、なぜか城までの一本道を守るヴェルデンの騎士たちは崩れなかった。

 剣を振るう動きは洗練され、連携も取れている。隊列が乱れない。


(あの小娘め……。余計なことをしてくれたな)

 エレオノーラによる改革がここまでとは思わなかった。こんなことなら、ハーマンに婚約破棄などさせずに、あのまま王太子妃教育を続けさせておけばよかった。


 スタンダル帝国軍に合流したあとの軍内での私の立場は決して良くなかった。帝国軍の将校たちは、私をダイバーレス王国の貴族として見下していた。スタンダル帝国で育った私でも、彼らにとっては所詮「王国の裏切り者」に過ぎないのだ。


「こんな弱小な国の魔法結界を無力化するのに長い年月をかけるなんて、ダイバーレス王国の宰相殿は仕事が遅くていらっしゃる」

 そんな嫌味を投げかけられながらも、私は耐えた。所詮は脳筋の言うことだ。文官には文官の闘い方がある。


 だが、戦が思うように進まないと、軍内での私への風当たりはさらに強くなった。

「やはり、王国の裏切り者など信用すべきではなかったのでは?」

 そんな声すら聞こえてくる。

 そのうち、アッシュクロフト騎士団による援軍も加わり、戦況は更に膠着した。

 

 ――その時、異変が起こった。

 侵攻を開始した翌日の昼近く。

 突然、私の体が重くなった。

 まるで鎖で縛られたかのように、手足が動かない。鉛が体に流し込まれたような感覚だ。

「何だ……?」

 息が苦しい。胸が圧迫される。

 視界の端で、帝国の兵たちが次々と剣を落としているのが見えた。がしゃん、がしゃんと、金属が地面に落ちる音が連続して響く。

 兵士たちが膝をつき、地面に這いつくばっている。

 ……私は理解した。

 魔法結界が復活したのだ。

 ダイバーレス王国の魔法結界には、国王が認識したダイバーレス王国を害する者の動きを封じ込める力がある。

 それが復活したということは——

 私は、信じられない気持ちで戦場を見渡した。


「そんなはずはない……!」

 魔法水晶の輝きが乏しくなったとハーマンは漏らしていた。

 急にハーマンの魔力が突然増大したのか?そんな馬鹿な。

 結界を操る他の方法を見つけたのか?

 ありえない。そんなことは——。

 私の頭の中には、様々な疑念が渦巻いた。


 体が、どんどん重くなっていく。立っていられない。

 私は、ただその場にひざまずき、体の重みに耐えることしかできなかった。


------


 ひゅう、と冷えた風が頬をかすめた。

 海から吹き上げる風は、戦の匂いに混ざって金属の味がする。血と鉄の匂いだ。

 俺は馬上から一気に号令をかけ、剣を掲げた。

「いいぞ、押し返せ!」

 返ってきたのは、胸の奥に響く騎士たちの咆哮だ。


 ヴェルデンの精鋭――彼らの頼もしさは、一緒に鍛えた俺が一番よく知っている。

 だが、目の前の敵もまた侮れない。

 スタンダル帝国兵の隊列は乱れがなく、一歩前へ進むその動きすら訓練の積み重ねを感じさせた。整然としていて、隙がない。


 俺が突破口を開いてやろう――そう覚悟して、馬から飛び降りた。

 地面を蹴り、真正面の帝国兵へ斬りかかる。

 金属音が火花を散らし、震えが腕に伝わる。重い。剣がぶつかる衝撃が、肩まで響いた。

 だが、引かない。

「どけ!」

 そう叫んで押し返すと、背後から仲間たちの気配が迫ってきた。

 俺の突撃に合わせて一斉に前へ出る、息の合った動きだ。足音が重なり、地響きのように聞こえる。


 左から別の帝国兵が切り込んできた。足運びが速い。刃が風を切る音がする。

 だが――速さなら俺たちだって負けていない。

 タイミングを見計らい、俺は横に跳んで相手の剣をいなした。

 相手の懐に踏み込むと、鍔迫り合いになった。刹那、兵士の目にわずかな驚きが宿る。

「ヴェルデン領を甘く見るなよ!」

 力で押し返し、剣をはじき飛ばした。

 剣が宙を舞い、地面に突き刺さる。


 間髪入れず、周りの帝国兵が俺へ殺到する。

 わかっている。俺を最初に潰せば、突破口を塞げる――相手の狙いはそこだ。

 だからこそ、前に出るのは俺の役目だ。

 息を吸い、地を蹴り、剣を振る。

 視界の端で、仲間たちの動きが重なる。連携が取れている。訓練の成果だ。

 押され始めている──だが、ここで止まるわけにはいかない。


「帝国へ帰れ!」

 叫びながら斬り結ぶ。

 相手の刃が風を裂き、頬をかすめた。熱い痛みが走る。

 次の一撃に備えて剣を握り直す。

 すると、横から違う帝国兵の刃が向かってくるのが見えた。

 速い。

 受け流すにも間に合わない。

(まずい!このままじゃ、斬られる!)

 刃が迫り、相手の眼光とぶつかったそのときだった。


 空気が、ぐっと沈んだ。


 まるで見えない巨大な手が、世界全体を押さえつけたかのような感覚。

 帝国兵の動きが――止まった。

 いや、止まったというより、重力に押しつぶされるように鈍くなった。

 振りかぶった腕の力が抜けたように下がる。そして、帝国兵は崩れ落ちて膝をついた。


「……何が起こっている?」

 俺は呟いた。

 すぐ目の前で固まった帝国兵の顔が、恐怖に引きつっていく。先ほどまで俊敏に斬りかかってきた相手とは思えないほどだ。


(助かった……)

 心臓が激しく鼓動している。汗が額を伝って、目に入った。

 周りを見渡す。

 立っているのは、ヴェルデン領の騎士団だけだった。


 地面には、這いつくばる大量のスタンダル帝国兵の姿があった。まるで見えない重しに押しつぶされているかのように、動けないでいる。

 そして、遠くにはアッシュクロフト領の騎士団が俺たちと同じく呆然としている姿が見えた。


「やった……やったぞ!」

 誰かが叫んだ。

 その声を合図に、騎士たちから歓声が上がった。

「結界が戻ったんだ!」

「これで、もう大丈夫だ!」

 俺も、思わず拳を握りしめた。

(フィリップ殿下……やってくれたのか)

 空を見上げる。

 青い空が、やけに広く感じられた。


 俺たちは、守り抜いたのだ。


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