96.魔法水晶
魔法水晶の部屋にたどり着いた私は、そこで今にも倒れそうなハーマンを見つけた。
彼の顔は青白く、額には汗が滲んでいる。床に膝をつき、魔法水晶に手をかざしたまま、体が小刻みに震えていた。
「ハーマン!」
駆け寄ると、ハーマンはかすかに目を開け、私を見つめた。
「……カミーユ……」
その声はかすれていて、今にも消えてしまいそうだった。顔には疲れが深く刻まれている。
私は躊躇なく彼に手をかざした。
「《内なる理の開示》!」
目の前に、半透明の画面が浮かび上がる。
「《癒し》!」
淡い光がハーマンの身体を包み込んだ。温かな光が、彼の体に染み込んでいく。
しばらくすると、彼の顔に少し血の気が戻った。呼吸も落ち着いてきている。
「……ありがとう。少し楽になったよ」
ハーマンは微かに笑いながら、私の手を取った。
その手はまだ冷たい。体温が低すぎる。
私は焦る気持ちを抑え、次のスキルを試みることにした。
「もう少し……もう少しだけ頑張って。今度はこれを使うわ」
私は深く息を吸い込んだ。体の中の魔力を意識する。
「《愛の力》!」
今度は柔らかく、温かな光がハーマンの身体を包み込んだ。
ハーマンの体が微かに震え、その目が驚きに見開かれる。
「……魔力が……!」
体の中で魔力が膨れ上がるのを感じたのだろう。ハーマンは再び魔法水晶に手をかざした。
青白い輝きが、彼の手から水晶へと流れ込む。
水晶はそれに応えるように明るさを増した。部屋の中が、一瞬だけ幻想的な光に包まれる。
しかし、その光は決して強いものではなかった。
ハーマンは水晶を見つめながら、唇を噛みしめる。
「……まだ足りない」
その声には、絶望が滲んでいた。
「父上がいた頃の輝きには到底及ばない……。これでは、まだ魔法結界は正常には作動しないだろう」
ハーマンの肩が落ちる。
王国を守るのに十分ではなかったのだと思うと、胸が締めつけられた。
「やっぱり……私の愛の力が足りないのね……」
思わず、そんな言葉がこぼれた。悔しくて、涙が滲みそうになる。
喉の奥が熱い。
(このまま、この国が亡びるなんて、耐えられない!)
私も、ここで生きているのだ。この国が滅びれば、私も終わる。
そのとき、部屋の扉が勢いよく開いた。
バン、という音が部屋に響く。
「兄上!カミーユ嬢!」
入ってきたのは、フィリップとエレオノーラだった。
後ろから王太后アンヌ様が顔を見せる。
フィリップは周囲を見回し、光を放つ魔法水晶に目を留めた。そして、落ち込んでいる私たちを見て、まっすぐにハーマンに向き直った。
「兄上、魔法水晶にはどうやって魔力を込めるのですか?」
唐突な問いに、ハーマンはフィリップを訝しげに見た。
「……何のつもりだ? お前に教えて何になる?」
フィリップは黙って右手を持ち上げた。
その指先に、小さな魔法の光が灯る。青白く、確かに魔力の証だった。
私は驚いて、フィリップを見つめた。
(フィリップルートじゃないのに、どうして魔法を使えるの!?)
彼の表情は、珍しく申し訳なさそうだった。いつも何があっても胡散臭いくらいに微笑んで、全てを受け流す彼が、初めて見せた顔だった。
「私も魔法を使えるようになったのです」
フィリップは静かに言った。
「国内に無用な混乱を生むと思って、今まで黙っていて申し訳ありません」
その言葉に、ハーマンの目が大きく見開かれた。口が開いたまま、言葉が出ない。
「……まさか……お前が?」
「はい。今は、一刻を争います。なので、魔力の込め方を早くお願いします!」
ハーマンは黙りこんだ。
複雑な表情で、フィリップを見つめている。
やがて静かに息を吐いた。
「……わかった」
そして、フィリップに魔力の込め方を伝え、共に水晶に向き合った。
二人の魔力が魔法水晶に注がれる。
光がまた少しだけ強くなった。部屋が明るくなる。
私、王太后、エレオノーラの顔が期待に満ちた。
これで、大丈夫なのでは——。
しかし、それでもなお、足りないらしい。ハーマンの顔が曇る。
「……ダメか……」
その声は、かすれていた。
私も、王太后も、そしてフィリップも、魔法水晶の光を見つめたまま沈黙した。
重い静寂が、部屋を満たす。
(――もう、どうにもならないの?これで、終わりなの?)
その時だった。
「カミーユ、魔力の増幅方法を教えてくれない?」
エレオノーラがそう言ったのは。
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カミーユは不機嫌そうにエレオノーラを見て、呆れたようにため息をついた。
「魔力の増幅は、ヒロインである私にだけ与えられたスキルなの」
その声には、苛立ちが滲んでいる。
「悪役令嬢でしかないあなたに使えるわけないじゃない」
悪役令嬢。
その言葉に、エレオノーラは一瞬考え込んだ。
どこかで聞いたことがあるような気がする。そうだ、街でカミーユと話したとき、彼女はそんなことを言っていた。
「よくわからないけれど……」
エレオノーラは落ち着いて言った。
「フィリップ殿下が魔法を使えるようになったんだから、私にだって何かできるかもしれないでしょ? だから、一応やり方だけでも教えてほしいの」
カミーユは眉をひそめた。
「フィリップはもともと、私がフィリップルートを選べば魔法が使える設定だったもの。でも、あなたは作中でもスキルを使っているシーンなんて設定されていないのよ」
(フィリップルート?作中?一体さっきから何の話をしているのかしら)
エレオノーラにはよくわからない。瞬きをしてカミーユの顔を見つめると、横からアンヌ王太后が口をはさんだ。
「先ほどから何をぶつぶつ言っているのかはわからないけれど、エレオノーラに教えるのです。今は国が滅びるかどうかの大事な時。少しでも可能性があるのなら、試してみるに越したことはないでしょう」
横を見ると、フィリップが厳しい眼差しをカミーユに向けているのが見えた。
「できるかできないかはやってみないとわからない。エレオノーラに教えてほしい」
カミーユは、肩をすくめてうなずいた。
「無理だと思うけど。期待しないでよね」
カミーユはエレオノーラに《愛の力》の使い方を説明した。
それは、対象に対する深い愛情を魔力に変え、増幅させるスキルだという。
「……なるほどね」
説明を聞き終えたエレオノーラは、少し考え込んだ。
そして、ちらりとフィリップを見た。
彼は今も魔法水晶を見つめたまま、静かに呼吸を整えている。横顔が、青白い光に照らされていた。
フィリップのことなら、エレオノーラは心の底から大切に思っている。彼のためなら、何かが起こるかもしれない。
――愛の力、か。
その言葉を思い浮かべると、少し照れくさい気もした。顔が熱くなる。
(私の愛が、どれだけフィリップに届くかわからないけれど……)
まずは、彼女の言う通りの言葉を唱えてみる。
「《内なる理の開示》!」
すると、エレオノーラの目の前に、文字が浮かび上がった。
半透明の画面。そこには、様々な情報が表示されている。
(まるで、息子がやっていたゲームの画面みたい!)
目を丸くして、エレオノーラはカミーユに教えられた言葉を探す。
あった。《愛の力》という文字が、画面に表示されている。
カミーユは、空中を見つめるエレオノーラの様子を見て目を丸くした。
「え!?まさか、ステータスウィンドウが開いたって言うこと!?なんで!?」
エレオノーラは深く息を吸った。意識を集中させる。
そして、しっかりとフィリップを見つめながら、力強く言った。
「《愛の力》!」
その瞬間、フィリップの体が柔らかな光に包まれた。
温かく、優しい光。
フィリップは驚いたように目を見開き、自分の手を見つめる。
「……すごい……体中に魔力が満ちてくる」
その声には、驚嘆が滲んでいた。
部屋にいる全員が、その光の眩しさに目を細めた。あまりにも強い光で、直視できない。
フィリップは感覚を確かめるように手を開き、そして、迷いなく魔法水晶に魔力を込めた。
その瞬間――。
まばゆい光が魔法水晶から溢れ出した。
それは天井を突き破るように上昇し、城から飛び出した。
光の柱が、空に向かって伸びていく。
部屋全体が眩い光に包まれ、誰もが目を開けていられなくなった。




