95.揺れる母の心
カトリーナの部屋の前に立ったとき、扉の向こうから女性の叫び声が聞こえた。
「この裏切り者!」
その声に、エレオノーラは思わずフィリップと顔を見合わせた。
王太后アンヌの声だ。
フィリップが扉に手をかけ、すぐに押し開いた。
目の前に広がった光景に、エレオノーラは息を呑んだ。
アンヌがカトリーナの肩を強く掴み、今にも引き倒しそうな勢いで詰め寄っていた。カトリーナの顔は蒼白で、体がよろめいている。
「どうなさったのですか!?」
フィリップの鋭い声が部屋に響いた。
アンヌは動きを止める。その隙に、エレオノーラは急いで二人の間に割って入った。
「おやめください!」
エレオノーラはアンヌの手を掴み、カトリーナから引き離した。アンヌの手は冷たく、ひやりとした感触が伝わってきた。
フィリップがカトリーナの前に立ちはだかる。
「フィリップ!邪魔よ!」
アンヌがフィリップに手をかけるが、フィリップはびくともしなかった。
「ダイバーレス王国の秘密を漏らしたこの不届き者!」
アンヌが叫んだ。その声は震えている。
「この女がスタンダル帝国に情報を流したのよ!」
「それは違います」
フィリップが静かに、しかし力強く言った。
その間に、カトリーナは深いため息をつきながら、椅子に腰を下ろした。その手が、かすかに震えている。
一方のアンヌは、まだ息を荒げたままだったが、フィリップに促されるまま椅子に座った。
部屋に重い沈黙が落ちた。
窓の外から、風が吹き込んでくる。カーテンが揺れる音だけが、静寂を破っていた。
「アンヌ様、状況は理解されていますか?」
フィリップは冷静な声で尋ねた。
「理解も何も……」
アンヌは悔しそうに唇を噛んだ。その目には、涙が滲んでいる。
「確かに、スタンダル帝国はヴェルデン領へ侵攻しました」
フィリップは、一つ一つ言葉を選びながら説明した。
「魔法結界が全く効いていないのを、私自身が確認してきました。でも、スタンダル帝国に魔法結界のことを伝えたのは、おそらくアンドリアン宰相です。彼の姿が見えません」
その言葉に、アンヌは目を見開いた。
「アンドリアンが……?」
驚きと、そして少しの困惑が、その顔に浮かんだ。アンヌは本当に、カトリーナが怪しいと思い込んでいたのだろう。
「アンドリアンの母の祖国は、スタンダル帝国です。彼は、今までダイバーレス王国の国力が下がるような政策を前王に進言して操ってきました。先日のデモの原因となったのも、アンドリアンの仕業だと考えています」
そこまで話すと、フィリップは深く息を吐いて首をふった。
「裏切りのことを今更話していても仕方ない。それよりも、今できることを考えるべきです」
アンヌがいぶかし気に首を傾げる。
「兄上が今、魔法水晶のもとで何らかの対応を取っているはずです」
フィリップは真剣な眼差しでアンヌを見つめた。
「私も兄上の力になりたいのです。しかし、魔法水晶がどこにあるのか、私は知らされていません」
フィリップは一歩前に出た。
「アンヌ様、どうか場所を教えてください」
「嫌よ」
アンヌは即座に拒絶した。
「お前の言うことが正しいかどうかなんてわからないじゃないの」
アンヌは眉をひそめて、フィリップの黒曜石のような瞳をまっすぐに見た。
「だいたい、ハーマンの敵になるかもしれないお前に、教えるわけがないでしょう。しかも、魔法も使えないお前が行って何の役に立つというの」
エレオノーラは唇を噛みしめた。
(フィリップがハーマンの敵なわけないじゃない!国のために、ハーマンのために動こうとしているのに!)
「私が兄上の敵になることはありません」
フィリップの声は、まるで澄んだ水のように揺るぎないものだった。
「私は王になる気など全くありません。これまでの私の政策も、すべて兄上の手柄としてかまわないと伝えてあります」
アンヌはフィリップをじっと見つめた。しかし、その瞳にはまだ疑念の色が浮かんでいる。
スタンダル帝国製の美しい意匠の時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえた。
「……それでも、信じきれないわ」
アンヌが呟いた。
エレオノーラはもう我慢できなかった。
「アンヌ様!」
勢いよく前に出た。
アンヌが驚いたようにエレオノーラを見る。
「今この瞬間にも、ヴェルデンではスタンダル帝国と戦っているんです!」
エレオノーラの声は震えていた。胸の奥が熱くなる。
「私の兄も、領民たちも、みんな必死に戦っている。一人でも多くの命を守るために」
アンヌの目が、わずかに揺れた。
「もしかしたら、フィリップ殿下が魔法水晶に魔力を加えることで、この国が助かるかもしれない。だったら、一刻も早く水晶の場所を教えるべきです!」
「だから、魔法が使えないのに、何を馬鹿なことを——」
アンヌが一蹴しようとした、その瞬間。
フィリップの指先に、小さな光が灯った。
それは、確かに魔力の証だった。
「……!」
アンヌとカトリーナは、まるで信じられないものを見るように目を見開いた。口を開けたまま、言葉が出ない様子だ。
部屋の空気が一変した。
「先日、魔法を使えるようになったのです」
フィリップは静かにそう告げた。その声には、複雑な感情が滲んでいる。
「本当は、この事実を公にはしたくありませんでした。しかし、こうなっては仕方がない」
指先の光が消える。だが、その残像が部屋にいる者たちの目に焼き付いていた。
アンヌはしばらく沈黙した。
カトリーナを見、フィリップを見、そして自分の手を見つめている。
やがて、絞り出すように言った。
「……魔法が使えるのであれば、あなたが王になることもできるのに……」
その声は、かすれていた。
「本当にハーマンが王でいいと言うの?」
フィリップは眉をひそめた。
「何を言っているのですか?」
「私はハーマンが可愛いわ」
アンヌは両手を握りしめた。その手が震えている。
「でも、カミーユに対するハーマンの態度を見ていると……国の未来を任せて本当にいいのか、不安になるのよ」
アンヌは顔を上げ、フィリップを見つめた。
「フィリップ、あなたが王になった方が、この国のためになるのではないの?」
エレオノーラは思わず息を呑んだ。
(王太后が、そんなことを……)
「それはあり得ません」
フィリップはきっぱりと断言した。
「私は兄上を補佐することで、この国を守っていくつもりです」
フィリップは一歩前に出た。
「そして……スタンダル帝国の血を引く私が王になってはいけません。それは、スタンダル帝国が攻めてきているこの状況において、この国の民が許さないでしょう」
アンヌはフィリップの真剣な表情を見つめた。
長い沈黙が流れた。
やがて、アンヌは長いため息をついた。
「……わかったわ」
その声は、諦めにも似ていた。
「魔法水晶の部屋に案内しましょう」
エレオノーラはほっと胸をなでおろした。体の力が抜ける。
アンヌはすぐに視線をエレオノーラに向けた。その目は、まだ少し疑念を残しているようだったが、同時に何かを受け入れたような色も浮かんでいた。
どうせフィリップに教えるなら、その伴侶となるであろう彼女にも知られていいはず——そう判断したのだろう。アンヌは、ためらいながらも頷いた。
「あなたも一緒に来なさい」
「はい!」
エレオノーラは真剣な面持ちで答えた。
こうして、一行は魔法水晶のある部屋へ向かうことになった。
廊下を歩きながら、エレオノーラは祈った。
(どうか、ヴェルデン領を、この国を、守ることができますように。)




