93.焦燥
ヴェルデン公爵領から帰った私は、すぐに兄上——国王ハーマンのところへ向かった。しかし、謁見の間にも、執務室にも彼の姿はない。
「兄上はどこにいるのでしょう」
執務室にいた側近に尋ねても、誰も知らないという。困惑した表情で首を横に振るばかりだ。
私は、ふとある考えに至った。
魔法水晶のことだ。
ハーマンが今向かうとしたら、そこしかない。魔法水晶の部屋——結界を維持するための、最も重要な場所。
しかし、魔法水晶のある部屋は代々の王が引き継ぐ秘密の場所だ。王とその伴侶だけが知るとされている。私がその場所を知らないのも当然だった。
執務室に戻ると、側近のヘンリーが待っていた。
「フィリップ殿下、会議室にはすでにヴェルデン公爵ほか重鎮たちが集まっております」
やむを得ない。ハーマンがいなくても、スタンダル帝国軍に備えるためにできることをやらなくてはいけない。宰相のアンドリアンはまだ見つかっていない。今国を動かすことができるのは、ハーマンと私しかいない。
会議室の扉を開け、私は毅然とした声で告げる。
「王は魔法水晶の対応をしております。私が代わりに会議を進めさせていただきます」
私が入ると、一斉に視線が集まった。
会議では、私はヴェルデン領への全面的協力を命じ、各自に対応を指示した。
ダイバーレス国軍の派遣、物資の輸送、避難民の受け入れ。やることは山ほどある。
会議が終わると、リカルドがこちらを見て何か言いたそうな表情を浮かべた。しかし、他の貴族たちに囲まれ、こちらへ来られない様子だった。待っている時間がもったいない。私は急いで執務室へ戻った。
(急ぎの用だったら、執務室に来るだろう。……とりあえず、リカルドがいる限り、ヴェルデン領の対応は任せておいても大丈夫だ)
リカルドには申し訳ないが、攻め入られるのがヴェルデン公爵領なのは不幸中の幸いだ。リカルドがいてくれることで、本当に助かっている。
私はすぐさま各貴族への指示書を書き始めた。
しかし、その手を止めることなく、別のことを考えていた。
——魔法水晶の場所を探さねばならない。
ハーマンがそこにいるのなら、何らかの方法で接触する必要がある。もし魔力が足りないのなら、私の魔力を加えることで補助できるかもしれない。
だが、問題はその場所を知る手段だった。
確実に知っているのは、前王の妃であり、ハーマンの母親である王太后アンヌだけだ。
私は一通り急ぎの書状を書き終え、側近のヘンリーに渡した。
「これを至急、各領主に。そして、その足で王太后に面会の約束を頼む」
「かしこまりました」
ヘンリーが一礼して、部屋を出ていく。
窓の外を見ると、もうすっかり日が落ちていた。夜の闇が、城を包み込んでいる。
(……もうそろそろ、ヴェルデン領への攻撃が始まっている頃だろうか……)
魔法水晶の場所へ一刻も早く行きたい。自分の力でなんとかなるものなのか、早急に試したい気持ちが抑えきれない。
スタンダル帝国製の時計がカチカチと鳴り響く執務室で返事を待っていると、ヘンリーが戻ってきた。
「王太后殿下はもうお休みになっているということです。最近体調が優れないということでした」
緊急時なので叩き起こそうかとも考えたが、機嫌を損ねて魔法水晶の場所を教えてもらえなくなっても困る。
ハーマンはまだ部屋にも戻っていないようだった。
仕方なく、遅い食事をしてから眠ることにした。
元気な時の方が魔力も強い。今、自分の体を弱らせるわけにはいかない。
私は寝室に戻り、ベッドに横たわった。だが、なかなか眠れない。頭の中で、様々なことが渦巻いていた。
(先に王太后のところへ行くべきだったか。しかし、魔法水晶の場所を先に教えてもらっても結局うまくいかなかったら、そのあとからの指示では後手に回って被害が大きくなってしまう。……うまくいかないものだ)
次の日の朝。
私は王太后に面会の約束をするために、改めてヘンリーを使いに出した。
執務室で届いたばかりの書状の整理をしていると、護衛騎士のカークが部屋をノックした。
「エレオノーラ・ヴェルデン公爵令嬢がお見えです」
「エレオノーラが?」
私は思わず立ち上がった。
「すぐに通してくれ」
「かしこまりました」
ほどなくして、エレオノーラが入ってきた。
「フィリップ殿下」
久しぶりに会うエレオノーラは、ここしばらくの各地での育児改革の対応で疲れているのだろう。少しやつれた顔をしていた。そして青い瞳には不安が滲んでいる。無理もない。今この瞬間にもヴェルデン領が攻められているのだ。
本当なら、今すぐ抱きしめたいところだが、そんな状況ではない。
私は深呼吸をして、落ち着きを取り戻した。
「何かあったのか?」
エレオノーラは少し緊張した様子で口を開いた。
「申し訳ありません。お手紙を出したのですが、お忙しいと見えてお返事が無かったので、直接来てしまいました。何かフィリップ殿下のお力になれることがあるのではないかと思って……」
彼女は一息ついて、続けた。
「あと、先ほどラフォレット侯爵令嬢から聞いたことを、お伝えしたくて」
「兄上の婚約者が何を?」
私は眉をひそめた。
「魔法結界が弱まっている理由です」
エレオノーラは説明を続けた。
「私は、魔法結界に何が起こっているのか知りたくて城に来たのですが、偶然門でラフォレット侯爵令嬢に出会いました。中に入れず困っていた私を助けて、馬車に乗せてくださったのです」
私は目を細めた。
「詳しく聞かせてほしい」
「はい」
エレオノーラは椅子に座り、話し始めた。
カミーユは魔法結界が弱まっているのは、兄上の魔力では足りないからだと告げたという。その上で、魔力を増幅するための方法を知っていると言っていたらしい。
しかし、魔力を増幅しても足りないかもしれないと、彼女にしては弱気だったとのこと。
「……わからないな」
私は考えを巡らせた。
魔力を増幅する方法自体は、存在しないとは言い切れない。古い文献には、そのような記述もある。
しかし、それをなぜカミーユが知っているのか。ハーマンは、そこまでカミーユに話しているのか。まだ結婚したわけでもないのに。
(カミーユという女は、一体何者なのだろう)
その時、ドアがノックされた。
「入れ」
ヘンリーが戻ってきた。息を切らせている。
「王太后様は、スタンダル帝国の攻撃の報せを聞いて、何を思ったのか……」
彼は一息ついて、続けた。
「フィリップ殿下のお母上、カトリーナ様のところに向かっておられるとのことです」
「母上のところに?」
私は驚いて聞き返した。
(なぜ、王太后が母のもとへ?)
だが、考えている暇はない。もし、以前のように母を害するつもりなのだとしたら、まずい。
私はエレオノーラを見た。
「エレオノーラ。私はこれから母と王太后のいるところへ向かう」
私は立ち上がった。
「そして、その後、魔法水晶のもとへ向かう。一緒に来てほしい」
エレオノーラは少し驚いて青い目を見開いた。だが、やがて真剣な表情で頷いた。
「わかりました。お供します」




