9.今までの人生を考えると
三人で初めてのトレーニングをした、その日の夜。エレオノーラはベッドに横たわり、天井を見つめていた。今日一日で体験したことが、まだ心の中でじんわりと余韻を残している。
そんな静寂の中で、前世の記憶が蘇るまでの自分の人生を静かに振り返っていた。
あれは9歳の時だった。突然決まった婚約。
「エレオノーラ、お前は王太子妃になるんだ」
両親からそう告げられた瞬間から、エレオノーラの人生は大きく変わった。
王太子妃教育は、まだ幼いエレオノーラにとって苦難の連続だった。
ただでさえヒューゴやフランソワと遊ぶ時間が少なくなって悲しいのに、毎日繰り返される長時間の座学。
「今日は王室の歴史について学びましょう」
エレオノーラは必死で話を聞こうとする。でも同じ姿勢を保つことが辛くて、だんだんイライラが募っていく。なんとか座っていることに成功しても、今度は意識がぼんやりとしてしまう。
「だめ……集中しなきゃ……」
「未来の王妃がこのように居眠りとは!」
教師の怒号が響くたび、エレオノーラの心はさらに縮こまった。叱られるたびに、自分は価値の無い人間なんじゃないかと思い始めた。それが悔しくて、認めたくなくて、涙をこらえながら机の上のものを床にぶちまけて力のかぎり何回も踏んづけた。物を壊すたびに謝る父の不機嫌そうな姿を思い出す。
すっかりしょげて、重たい体を引きずりながら廊下を歩いていると、ハーマンとすれ違った。
「聞いたぞ」
ハーマンが立ち止まって、エレオノーラを見下ろす。
「王太子妃教育で、居眠りしたんだってな」
エレオノーラは黙ってうつむいた。
すると、ハーマンがさらに赤い目を冷たく細めて言った。
「将来王妃になっても人前で居眠りするつもりか?俺に恥をかかせるなよ」
言葉が出てこなかった。エレオノーラは、涙をこらえて地団太を踏むことしかできなかった。
座学も辛かったが、ダンスの練習はもっと地獄だった。太った体が重たくて、リズムに合わせて踊ることなんてできなかった。
まだ卒業する前の学園のダンスの授業。教師が別の組を見ている隙に、カミーユがわざと大きな声で言った。
「ねえ、せっかく王太子妃教育を受けていらっしゃるのですもの。エレオノーラ様に一度、手本を見せていただきたいわ」
満面の笑みで見回すカミーユ。令嬢たち全員の視線がさっと集中した。エレオノーラの顔が強ばる。逃げ場はなかった。
仕方なく前に出て音楽に合わせて踊り始めるが、緊張で体がこわばって、いつもより更に体が重く感じた。あっという間にリズムから外れてよろめく。すると、背後から「くすくす」と笑いを噛み殺す声が聞こえてきた。
「まぁまぁ……そのご立派なお身体で軽やかに踊るのは、大変ですものね」
カミーユがわざとらしく口元に手を当てる。その演技がかった仕草に、エレオノーラは怒りがこみ上げた。
どんどん表情が硬くなるエレオノーラの顔を見たカミーユは、一瞬の間を置いてから明るく言い放つ。
「でも大丈夫。王太子妃になられる方ですから、失態もきっと“ご愛嬌”として許されますわ」
努力しても報われず、いつも嘲笑される。込み上げてくる悔しさと恥ずかしさに、エレオノーラはその場で泣き叫んだ。
ハーマンと初めて踊った舞踏会。会場の中央で注目を浴びながらのダンス。
ハーマンの足を踏んでばかりのエレオノーラに、ハーマンはため息をついた。
「本当に不器用だな。こんな簡単なダンスも踊れないのか?」
ハーマンは太っているくせに機敏で、体型のわりにダンスもそつなくこなすことができた。足を踏まれても顔色一つ変えずに踊り続けている上に、エレオノーラが無様に転んで自分まで恥をかくことを防ぐためにカバーまでしてくれていた。
「学園の授業での失態も耳にしたが、お前には一体何ができるんだ?」
黙り込むエレオノーラに追い打ちをかける。
「どうして、お前みたいなやつが、俺の婚約者なんだ?俺はお前みたいなデブは嫌いなんだ」
エレオノーラだって同じことを思っていた。
(なんで自分がハーマンの婚約者じゃなきゃいけないの?)
ハーマンはいつだって自分に冷たい。エレオノーラはハーマンの傲慢さが気に入らない。どう考えても相性は最悪だ。
(全然何もできなくて癇癪ばかり起しているダメな私が大人になったって王妃になんてなれるわけないよ。こんな婚約、さっさと解消してくれればいいのに……)
いつもそう思っていた。
でも今のエレオノーラには分かる。
前世で出会った子どもたちの姿が、昔の自分と重なるから。
じっと座っていられず、集中も続かず、叱られてばかりだった子たち。彼らは怠けていたのではない。体の不調と生まれつきの特性が、そうさせていたのだ。
(ああ、私も同じだったのね……。私は、ダメな人間なんかじゃなかったんだ)
気づいた瞬間、胸にずっとあった重い澱がふっとほどけた。
もしあの頃のエレオノーラに、前世で得た知識があったなら。もし理解してくれる人が一人でもいたなら。
あの涙は、そして癇癪や壊れたものは、もう少し少なくて済んだのかもしれない。
「でも……」
エレオノーラは小さくつぶやいた。
「今なら、間に合う」
トレーニングをすることで変わっていったあの子たち。たぶん、同じようにエレオノーラも変われるはず。
もう二度と、無力な自分に泣きたくない。
(今日のトレーニング、楽しかったな……)
暗闇の奥で、小さな光がぽっと灯る。
温かくて、確かに胸を照らすヒューゴとフランソワの笑顔。
自分たちの体は、これからもっとよくなるという希望が感じられた。
その光を大切に抱きしめながら、エレオノーラは静かに目を閉じた。
これまでエレオノーラを縛ってきた鎖は、もう断ち切られた。
明日はきっと、新しい未来が待っている。
「また、みんなで力を合わせて頑張ろうっと」
エレオノーラは光を胸に抱いてゆっくりと眠りについた。
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