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88.それぞれの愛

 クレメンティアは目を見開き、一歩後ずさった。全く予想もしていなかった言葉だったのだろう。顔が蒼白になり、その茶色の瞳が驚きと動揺で揺れていた。


「……確かに、お母さまは私を育てたかもしれないけれど」

 エレオノーラの声は震えていた。涙が込み上げそうになる。それでも、言葉を止められない。

「私の選択も、努力も、気持ちも……全部をお母さまの手柄にしないでよ。これ以上、私の人生を勝手に使わないで。私の意志をないがしろにしないで!」

 エレオノーラはまるで悲鳴のように叫んだ。

「私は、私が正しいと思ったことを、ただ頑張っているだけなのに!!フィリップ殿下への想いまで道具にしようとするなんて!!」


 部屋に重い沈黙が落ちた。

 クレメンティアの口が小さく開いたまま、言葉が出ない。手が宙で止まり、指先が微かに震えている。

「……悪かったわ」

 ようやく絞り出された声は、かすれていた。

 そして彼女はまるで張りつめた糸が切れたように、がくりと肩を落とした。

「でも、そんなつもりはなかったのよ。私は、エレンちゃんは本当に素晴らしい娘だと、皆に認めさせたかっただけなの……」


 その言葉に、エレオノーラはため息をついた。

(やっぱり、わかってもらえないのね……。結局、私のことを自分の所有物としか考えられないのよ、お母さまは)


 母がいつでも上に立とうとするのは、自己肯定感の低さの表れなのだろう。前世の児童デイサービスでも、愛着に課題のある子はよくこういう言動をした。色々なことができるようになって、自己肯定感が高まってくると、ようやく他の人のことも認められるようになる。


 母の心の問題だということは、理解はできる。でも、耐えられない。

 ずっと抱えてきた違和感を、このまま飲み込み続けることはできなかった。どうして娘であるエレオノーラが、母の自己肯定感を高めるための道具にならなければならないのか。エレオノーラの瞳から涙が一筋流れた。


 エレオノーラは視線を逸らして、そっと涙を指で拭った。窓の外を見ると、少しずつ暗くなり始めていた。

 気まずい沈黙が、部屋を満たした。


 リカルドが咳払いをした。

「……二人とも、落ち着いたか?」

 彼の声は低く、穏やかだった。


 リカルドはエレオノーラを見た。

「エレオノーラ。お前は、やはりフィリップ殿下の元に行くべきだ」

 そして、彼女の肩に手を置いて、エレオノーラと同じ青い瞳でまっすぐに見つめた。

「フィリップ殿下のことが気になるのだろう?フィリップ殿下も、お前が行くことで気持ちが楽になるはずだ。クレメンティアの言うことは気にせずに、お前にできる方法で、殿下を支えるんだ。たぶん、殿下にはお前が必要だ」


 そして、クレメンティアに向き直った。

「クレメンティア。お前は、ちゃんとエレオノーラ自身を認めるんだ。お前の価値を上げるためにエレオノーラが活躍しているわけじゃない」

 クレメンティアは小さく頷いた。顔を上げることはできなかったが。


(お父さまは、私が言いたかったことをわかってくれている……)

 エレオノーラの胸がほのかに温かくなった。そして、彼女は深呼吸をした。

「お父さまも、アンドリアンには十分に警戒してね」

「あぁ、わかっている」

 リカルドは頷いた。

「アンドリアンが姿を消した以上、絶対に彼も関わっているはずだ」


 そして、クレメンティアに言った。

「お前も、敵地に深入りせずに気をつけるんだぞ」

「……ええ」

 クレメンティアの声は小さかった。


 執務室の扉が開いた。

 三人は、それぞれの道へと向かった。

 廊下に足音が響く。エレオノーラとクレメンティアは、お互いに視線を合わせることなく、別々の方向へと歩いていった。

 使用人たちが慌ただしく動き回り、それぞれの準備が始まった。馬のいななきが厩舎から聞こえてくる。指示を出す声、荷物を運ぶ音。

 こうして、ヴェルデン公爵家の面々はそれぞれの役割を果たすため、動き出したのだった。


ーーーーーー


 スタンダル帝国がダイバーレス王国に攻めてきた――早朝にその報せを受けたとき、私は思わず耳を疑った。

 デモが収まり、王都が落ち着きを取り戻したからと、私は城を離れて自分の家に戻っていた。もう危険はないだろうと思っていたのに。

 その矢先の、この知らせだった。


「そんな……早すぎるじゃないの!」


 ゲーム『Crowned Destinies~王家に咲く愛~』では、ハーマンルートの終盤で前王が病気で亡くなった直後にスタンダル帝国が侵攻してくる。だけど、それはアンヌ王妃のフィリップ暗殺をカミーユである私が防ぐイベントを経て、フィリップの好感度が80を超えてからのはずだった。


 でも、現実は違う。


 アンヌ王妃がフィリップを暗殺する気配もなければ、好感度が上がっているとも思えない。むしろ、フィリップとの関係は相変わらず距離がある。それなのに。


「……王の死がスタンダル帝国の侵攻のきっかけになっているっていうことかしら」

 私は部屋の中を行ったり来たりした。

 ゲームの知識を総動員して、状況を整理する。

 ハーマンが即位した今、ダイバーレス王国を守る結界を維持する役目も彼に引き継がれたはず。でも、ハーマンの魔力量は前王よりもはるかに少ない。ゲームの設定では、彼の魔力は父親の三分の一程度しかなかった。

 今ごろハーマンは、水晶の前で頭を抱えているに違いない。


 ゲームでは、結界を機能させるために王族の魔力を魔法水晶に流し込む必要がある。

 魔法水晶は王城の最奥にあり、代々の王がそこで魔力を注ぎ込んできた。水晶が満ちれば結界は完全に機能し、国は外敵から守られる。


 でも、ハーマンだけの魔力では不十分だ。

 だから、ゲームでは最終的にヒロインであるカミーユのスキル《愛の力》で彼の魔力を増幅し、結界を完成させる展開になっていた。愛する者同士が手を取り合い、心を一つにすることで、魔力が何倍にも増幅される。そういう設定だった。

(あのシーンのスチルが、また感動的だったのよね……。痩せているハーマンはかっこよくて)


 でも。

 私は立ち止まり、窓の外を見た。

 遠く、灰色の雲が空を覆っている。

(でも、私……ハーマンを愛してないのよね……)


 デブで傲慢で思慮の浅い王。それが、私の知るハーマンの姿だった。

 傲慢なのはキャラ設定的に仕方ないとして、せめて痩せてほしいと思って色々試してみた。一緒に散歩に行こうと誘ったり、食事の量を控えめにするよう提案したり。糖質制限も試みた。でも、一向に体重が減る気配はない。むしろ「好きなものを好きなだけ食べて何が悪い」と逆ギレされた。


 あんなキモデブに心を捧げるなんて、そんなことできるはずがない。


 正直に言えば、私はヒロインとしてハーマンを攻略すれば一生楽な暮らしができると考えて一緒にいただけだ。王になってからのハーマンは、毎日のように私に素敵な贈り物をくれる。高価な宝石に、豪華なドレス。このまま王妃になれば、何不自由ない生活が待っている。それが目的だった。愛なんて、ハーマンを痩せさせて、一緒にいればなんとかなると思っていた。


(せめて、フィリップが覚醒していれば……?)

 フィリップルートを選んだ時も、結局はハーマンが王になり、同じようにスタンダル軍の侵攻を受ける。ゲームではそうだった。

 その時は、フィリップが魔法を使えるように覚醒し、カミーユはハーマンでなくフィリップの魔力を増幅することになっていた。

 でも、フィリップがカミーユを守るために覚醒するイベントは発生していないし、フィリップが魔法を使えるようになったという情報も聞こえてこない。

 たとえフィリップが魔法を使えるようになっていたとしても、カミーユはフィリップとの関わりが無いので、当然愛しているわけはない。

(……フィリップが魔法を使えたとしても、結局無駄なのね)


 私は爪を噛んだ。

 結界が崩れれば、スタンダル帝国の軍勢が王都にまで雪崩れ込んでくる。戦争になる。略奪が始まる。人々が死ぬ。

 そうしたら、王の婚約者である私だってただじゃ済まない。楽な暮らしなんてできるわけがない。殺されるか、奴隷にされるか。どちらにしても最悪の結末だ。


「……行くしかないわね」

 私は呟いた。声が震えている。

 不安を抱えたまま、私は部屋を飛び出し、馬車を王城へと向かわせた。


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