87 迫る脅威とヴェルデン公爵家
夕方、他領の育児講習会から帰還したエレオノーラは、明日の講習会に向けての準備を進めていた。資料を整理し、配布用の冊子を確認している最中だった。
その時、侍女のマリーが駆け込んできた。
「エレオノーラ様、リカルド様がお呼びです。至急、執務室へとのことです」
その声には緊張が滲んでいる。
エレオノーラは資料を机に置き、立ち上がった。胸騒ぎがする。
執務室に向かうと、そこには父リカルドと母クレメンティアがすでにいた。二人の表情は硬く、ただならぬ雰囲気が部屋を満たしている。
「お父様、お母様。何があったのですか?」
エレオノーラが尋ねると、リカルドは深刻な面持ちで口を開いた。
「ヴェルデン領から緊急の報せが届いた」
リカルドの声は低く、重い。
「ヴェルデン港の沖合に、スタンダル帝国の艦隊が現れたそうだ」
エレオノーラは息を飲んだ。
「フィリップ殿下によると、交戦は避けられないらしい。今夜にも攻撃が始まるそうだ。ヴェルデン領で対応することになる」
部屋の隅に控えていた伝令の騎士が頷く。
「そんな……!魔法結界はどうなったのですか!?効いていないのですか!?」
これまで、王家の結界によってスタンダル帝国の侵攻は防がれていたはずだった。スタンダル帝国の艦隊が王国の領海に現れるなど、建国以来一度もなかったことだ。
窓の外では、冷たい風が吹いている。
「わからない。だが交戦が避けられないということは、機能していない可能性が高いな」
リカルドが髭を触りながら低く呟く。
「王都には他の報告は?」
クレメンティアが尋ねると、リカルドは首を横に振った。
「昼前のスタンダル艦隊についての伝令を聞いて登城したときには、特に他の領地への侵攻は確認されていなかったな」
「フィリップ殿下が交戦を避けられないって判断したのなら、殿下が直接ヴェルデン領に向かわれたのかしら。……結界の異常についてもそこで知ったの?」
エレオノーラが小さく息を吐いた。
結界の異常は王家にとっても重大な問題だ。フィリップが確認するまで、誰も異常に気づかなかったのだろうか。もし事前にわかっていたとしたら、なぜ対策が取られていないのか。疑問が次々と浮かんでくる。
「とにかく、私たちが動くしかない」
リカルドは立ち上がった。
「現地での指揮はレイモンドに任せる。レイモンドならばヴェルデン領の防衛を的確に指揮できるはずだ」
リカルドは机に向かい、羽根ペンを走らせた。カリカリとペン先が羊皮紙を滑る音が響く。
書き終えると、手紙を折りたたみ、封蝋で封をした。
「ベルナー、これをレイモンドに。最優先で届けてくれ」
「かしこまりました」
執事のベルナーが手紙を受け取り、一礼する。
そしてリカルドは伝令の騎士に向き直った。
「苦労をかけたな。まずは次に備えて休め」
騎士は深々と頭を下げ、部屋を退出していった。
「私は登城して、今後の対応について考える。国軍の派遣も要請しなくてはならないだろう。そして、特にアッシュクロフト公爵家とマルテッロ公爵家には、軍の維持のための食料と物資の協力を要請する必要がある」
リカルドは髭をなでつけた。
「……国軍の練度はヴェルデン領の騎士団に比べると数段落ちる。焼け石に水かもしれないが、いないよりマシだろう」
「それなら、私はヴェルデン領に入るわね」
クレメンティアが毅然とした表情で言った。
「避難民や負傷した兵士の受け入れを担当します。レイモンドは軍の指揮で手一杯になるもの。それ以外の領地運営に関する指揮は、私が執るべきよ」
「お母様、私も行きます!」
エレオノーラが即座に申し出た。
ヴェルデン領は危険に晒されている。領地改革の時に関わった領民たちの顔が目に浮かんでくる。自分も何かしなければ。
だが、クレメンティアは娘の目をまっすぐに見つめ、首を横に振った。
「エレンちゃんは、王宮に行くのよ」
「どうして!? 私だって領地のために——」
「ヴェルデン家のために働くのよ」
クレメンティアの声が、やけに明るく響いた。
「城に戻っているはずのフィリップ殿下のもとに行きなさい。そして、王家の結界について調べ、対応するのを手伝うの」
クレメンティアは一歩近づき、茶色の瞳を輝かせた。まるで素晴らしい計画を思いついたとでも言うように。
「ハーマン国王から婚約破棄されたあなたが、フィリップ殿下の元で国を救うなんて、とってもいい気味だわ。私が育てたエレンちゃんを侮辱したことを後悔させる絶好のチャンスよ」
その言葉は、まるで歌うように紡がれた。
エレオノーラは息を呑んだ。
母の言葉は正しい。確かに、彼女もまた結界の異常について原因を探るべきだと考えていた。そして、そこに本当は魔法を使うことができるフィリップも関係せざるを得ないことにも気づいていた。ヴェルデン家で一番フィリップと深く関わっているのも、だからこそフィリップの力になれるのも自分だと思った。
だけど。だけど、だけど!
胸の奥で何かが弾けた。抑えきれない感情が、喉元まで込み上げてくる。
「お母さま、私はお母さまの人形じゃないわ!」
エレオノーラは声を荒げた。指先が震える。
「私がフィリップ殿下を慕っているのは、ハーマン国王への当てつけなんかじゃない!それに、国が危機に瀕しているこの大切な時に、そんなチャンスだの何だのって、そんなことを言い出すなんておかしいわ!」
クレメンティアは目を見開き、一歩後ずさった。
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