86.スタンダル帝国艦隊
ヴェルデン領の沖合に、黒鉄の軍艦がずらりと並んでいた。
海を埋め尽くすように並ぶ艦隊。その威容は、まるで鋼鉄の壁のようだった。旗には、スタンダル帝国の紋章が風に翻っている。
今朝、食事をとっていたレイモンドの元に伝令が息を切らせて執務室に駆け込んできた。
「レイモンド様! 大変です!」
その顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいた。
「スタンダル帝国の艦隊が、沖合に現れました!」
報告を聞いた瞬間、部屋にいた使用人たちは息を呑んだ。
レイモンドは椅子から立ち上がり、窓の外を見た。遠く、水平線に黒い影が見えた。
「まさか……魔法結界を超えて、ここまで来るとは」
使用人の一人が震える声で呟いた。
「……いや、まだだ。これから魔法結界が効果を発揮するのかもしれん」
執事のローレンスが小さく否定した。
レイモンドは混乱する中、とにかく指示を出した。
「まずは王都へ早馬を!そして、ヴェルデン船団と騎士団にも召集をかけるんだ!」
ダイバーレス王国は、建国からずっと魔法結界で守られてきた。国を外敵から守る絶対的な盾。これまで、国土に侵攻を受けたことは一度もない。
だからこそ、ダイバーレス王国の軍備は内乱や盗賊の討伐を想定したものが主だった。海からの侵略など、想定する必要がなかったのだ。
レイモンドは魔法結界の存在は知っている。だが、どのように作用するのかは具体的には知らない。それは国家機密とされ、国民には知らされていなかった。ただ「魔法結界で守られているから大丈夫だ」と、そう教えられてきただけだ。
(結界は大丈夫なのだろうか……)
不安が胸の奥で膨らんでいく。
レイモンドは窓際に立ち、沖合を見つめた。潮の香りが風に乗って流れてくる。その向こうに、鋼鉄の艦隊が浮かんでいた。そして視線を手前に移すと、ヴェルデン領の船団が海岸沿いに配置されている。
ヴェルデン領は、もともと対海賊用に独自の海軍を持っていた。だが、スタンダル帝国の艦隊と比べれば、その規模はあまりにも小さい。まるで小舟が大船に立ち向かうようなものだ。
ヴェルデン領の騎士団は、国内でも屈指の精鋭だ。徹底した体のケア、ビジョントレーニングによって培われた動体視力と瞬発力。彼らの剣技は無駄がなく、実戦向きだった。
だが、それでも敵軍の勢いを長くは止められないだろう。
レイモンドは拳を握りしめた。
(だいたい、フィリップ殿下の話では、スタンダル人と思われる賊たちの身のこなしは、とんでもなく速かったという……)
太刀打ちできる気がしない。
机上には、先ほどスタンダル帝国の使者から渡された手紙が置かれていた。封蝋には、帝国の紋章が刻まれている。
レイモンドはその手紙を見つめながら、独り言のように呟いた。
「現在のこの国の体制では、たぶん交渉に立つのはフィリップ殿下になるだろうな」
アンドリアンはスタンダル帝国側の人間かもしれない疑いがある。ハーマン新王が彼を交渉の場に立てるとは……全く無いとは言えないのが辛い。
「とにかく、魔法結界が作動するにしろ、交渉で解決するにしろ、戦争を回避することができればいいのだが……」
レイモンドが大きく息をついたその頃、王都ではハーマンが魔法水晶の部屋で焦燥に駆られていた。
「くそ! アンドリアンめ!」
拳で壁を叩く。鈍い音が部屋に響いた。痛みが手に走るが、それすら気にならない。
前王オーウェンを処刑し、王座に就いたハーマン。その二か月後、スタンダル帝国が侵攻してきた。まるで、王の死と魔法結界の弱体化を待っていたかのようなタイミングだった。
「フィリップの言う通りだった……」
ハーマンは歯ぎしりした。
「アンドリアンは、スタンダル帝国と通じていたに違いない!」
だが、今さらそんなことを考えても遅かった。
ハーマンは王位についてから、毎日欠かさず王城にある魔法水晶に魔力を流し込んでいた。父オーウェンから生前に教えられていた、結界を維持するための方法だ。
しかし、ハーマンの魔力はオーウェンに比べてあまりにも少なかった。
魔法水晶は、かつては眩いばかりに輝いていた。だが今、水晶はかすかに光るだけだ。
父の処刑の後、魔法水晶の輝きが満ちることはなかった。
不安になったハーマンは、二か月前、アンドリアンにそのことを相談した。
「魔法水晶の光が弱い気がするのだが、俺は何か間違っているのだろうか」
「……少々、確認が必要かもしれませんね」
アンドリアンはそう言った。そして、その直後。
アンドリアンが姿を消したのだ。
昼前に城にたどり着いた早馬から、スタンダル帝国軍がヴェルデン領沖に現れたという報告を聞いて、ハーマンは愕然とした。
こんなにタイミング良く現れるなんて、アンドリアンが情報を漏らさない限り、不可能だ。
「俺が……俺が、もっと本気で魔力を増やすトレーニングをしていれば……」
ハーマンは両手で顔を覆った。
魔法結界は、敵と認識した対象に重力をかける仕組みだ。今の魔法水晶の状態でも、多少は重たくなるだろう。けれど、船を沈められるかどうかは、フィリップが現地で見てみない限りわからない。
もしも前王が生きていれば、結界は完璧なままだっただろう。
だが、自らの手でその力を奪ってしまったのだ。
「父上……」
激しい後悔と自己嫌悪が、ハーマンを蝕んだ。胸が締め付けられる。
だが、悔いている暇はない。
ハーマンは顔を上げた。
スタンダル帝国軍の確認と、必要に応じて交渉させるためにフィリップをヴェルデン領に送り出した。アンドリアンがいなくなった今、国を守るのは自分とフィリップしかいないのだ。
「なんとしてでも、結界を強めなくては!」
ハーマンは魔法水晶の前に座り、両手を水晶にかざした。
深呼吸をして、体の中の魔力を意識する。それを、ゆっくりと水晶に流し込んでいく。
水晶がかすかに明るくなった。ほんの少しだけ。
(頼む……もっと強く輝いてくれ……)
汗が額を伝い、顎から滴り落ちる。全身の力を振り絞って、魔力を注ぎ込む。
効果が表れていることを期待して。
ハーマンは、ただひたすらに祈り続けた。




