83.裏切り
前半はオーウェン視点、後半はハーマン視点の話になります。
私は玉座に深く腰を下ろし、目の前に立つ息子を見つめた。石造りの玉座の間は静まり返り、私の呼吸音だけが虚しく響いている。
目の前に立つハーマンの瞳は、燃え盛る炎のように赤い。その視線は真っ直ぐ私に向けられている。そして息子の後ろには、宰相アンドリアンが影のように佇んでいた。
「父上、王位をお譲りください」
ハーマンの言葉は玉座の間に響き渡り、高い天井にこだまする。私は思わず目を細めた。息子の声が、まるで遠い場所から聞こえてくるようだった。頭の中が白く霞んでいく。
「……退位しろと、そう言うのか」
声がかすれる。
「はい」
ハーマンは頷いた。
「昨日の軍による鎮圧で、民衆の怒りはさらに高まっています。このままでは、国が崩壊します。ここで退位を決断されるのが、国のためです」
私は深く息を吐いた。
「国の混乱を避けるためにも、今こそ英断が必要かと存じます」
アンドリアンが恭しく頭を下げながら言った。その口調はあくまで丁寧だった。
私は静かに息を吐いた。ようやく全てを理解した。
(全ての糸が、この男の手の中にあったのか)
鎮圧のために軍を派遣するよう進言したのは、アンドリアンだ。そもそも、鎮圧が必要になる事態になったのも、全てアンドリアンの進言によるものだ。
一つ一つの進言は、それ単独では合理的に見えた。だが全てが計画的に繋がっていた。罠だったのだ。
「アンドリアン、お前が……」
私は低く呟いた。『お前のせいで』では無い。『お前がいなければ』でも無い。どう表現していいかわからなくて、それでも唯一頼れる人物だと信じていた男を睨みつける。しかし、アンドリアンは微塵も動じることなく、恭しく頭を下げた。
私は苦笑するしかなかった。喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
(それにしても、可愛がってきたハーマンにまで裏切られるとは……)
ハーマンは愛するアンヌの子だ。でも、それだけではない。出来は悪いが、単純に可愛かったのだ。ハーマンの幼い日々のことを思い出す。食事のときぐらいしか触れ合う時間は無かったが、いつでもおいしそうに食していた可愛い息子。
ハーマンは王としての器ではない。それは間違いない。だが、他に選択肢はもうない。私が退位を拒めば、国は本当に崩壊するだろう。そしてそれもまた、アンドリアンの計算の内なのだ。
「……ハーマン」
私は重い口を開いた。
「お前に王位を譲る」
そう告げると、ハーマンは満足げに頷いた。
「アンドリアン」
私は宰相を呼んだ。
「はい、陛下」
口の中が乾き、喉の奥が焼けるように痛む。
「ハーマンの即位の準備を急げ」
私は命じた。
「これが、王としての最後の命令だ」
「かしこまりました」
アンドリアンは深々と頭を下げた。その態度は完璧な忠誠の証のように見える。だが、私はもはや彼が何を考えているのかを知る術を持たない。いや、知る気力もない。誰のことも信じられないし、全てがどうでもいい。体の芯から力が抜けていくのを感じた。
アンドリアンが懐から書類を取り出し、私の前に置いた。退位の詔書だ。まるで最初から全てが決まっていたかのように、書類は完璧に準備されている。羊皮紙の古い匂いが鼻をつく。
私はペンを握ったが、手が震えて文字が書けない。何度か深呼吸をしてから、ようやく自分の名を記した。ペン先が紙を擦る音が響く。
数十年かけて築き上げた地位が、一瞬で失われた。まるで砂の城が波に崩されるように。何も残らない。
***
俺は、昨夜のことを思い出していた。
朝から聞こえていた民衆の声は、時間が経つにつれて大きくなっていった。怒号が城壁を越えて響いてくる。その声を聞くたび、背筋が凍りつくような恐怖が這い上がってきた。軍によってデモが鎮圧されて静かになっても、まぶたを閉じるたび民衆の叫び声が耳によみがえった。恐怖から逃れるため、俺は酒に手を伸ばした。グラスを傾けるたび、琥珀色の液体が喉を焼いた。だが、それでも心は落ち着かなかった。
カミーユのことも心配だった。彼女は邸宅にいて、安全であることはわかっていた。しかし、もし暴動がさらに広がったら。彼女が危険に晒されたら。そう思うと、自分のそばに呼び寄せたくなった。城にいれば、確実に守れるからだ。
だが、まだ婚約発表もできていないのに、夜に城へ泊まらせるのは気が引けた。体裁というものがある。民衆が怒り狂っているこの状況で、王子が恋人を城に招いているとなれば、さらなる批判を招くだろうと考えた。
そんな葛藤の中、部屋の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのはアンドリアンだった。その表情はいつになく深刻だった。
「殿下、重大なことをお伝えしなければなりません」
アンドリアンは一歩近づき、声を潜めた。
「デモの鎮圧によって、更に民衆の怒りが膨れ上がっています。このままでは、また大きなデモが発生する危険があります」
息を呑んだ。グラスを握る手に力が入る。
「何だと?王はそのことについて、何と言っているんだ」
「はい。不満が無くなるまで鎮圧を続けろと……。もう、私では歯止めが利きません」
アンドリアンの声には、わずかな緊張が滲んでいた。
「制圧すればするほど、反発は大きくなります。早々に手を打たなくては、取り返しのつかないことになるかもしれません」
俺は額に手を当てた。頭が痛い。酒のせいか、それとも状況の悪化のせいか。
「どうすればいい? このままでは……」
縋るような目でアンドリアンを見ると、宰相はゆっくりと口を開いた。
「一つだけ、道があります」
アンドリアンの声は低く、静かだった。
「陛下に退位していただき、殿下が即位する。そして即位した瞬間に、スリング禁止令を撤回するのです。それが最善の策です」
言葉を失った。父を退位させる。そして自分が王になる。頭の中で、その可能性が渦巻く。……フィリップのスリング禁止令の撤回については引っかかるところがあるが、いちいち口うるさい父よりも上に立てることを考えると気分が良くなった。
「わかった。その策に乗ろう」
俺はグラスを空け、決意を固めた。
朝食を終えた俺は、アンドリアンを従えて王に退位を迫った。もっと抵抗するかと思ったが、あまりにあっけなく王は退位を受け入れた。
そして俺は今朝呼び寄せたカミーユのいる自室に戻っていた。
父を退位させるという目標は達成した。あとは自分が即位するだけだ。そう思うと、胸の内に安堵が広がる。
「カミーユ、俺は王になるんだ」
そう言ってカミーユを抱き寄せると、香水の甘い香りが漂った。まるで、祝福しているかのような香りに包まれ、俺は天にも昇る気持ちだった。
しかし、アンドリアンは異なる表情をしていた。
「殿下、お楽しみのところ恐れながら申し上げますが」
アンドリアンが口を開いた。その声には、わずかな躊躇いがある。
「殿下は、国民からの支持が厚いとは言えません」
その言葉に、俺は思わずカミーユから離れ拳を握った。部屋の中は薄暗く、暖炉の火だけが揺れている。アンドリアンの言葉を聞いたカミーユが苦笑いしているのが視界の端に見えた。
癪だが、否定できない。自分でもわかっている。フィリップと比べられるのが嫌で、民衆の前に出ることを避けてきた。城の中で贅沢な生活を送り、美食に溺れ、身体は重くなった。長年の怠惰が、今になって重くのしかかる。太った身体を動かすのも億劫だ。鏡を見るたび、そこに映る自分の姿が嫌になる。
「……それで?」
苛立ちで、つま先で床をとんとんと叩く。
「お前は何が言いたいんだ?」
アンドリアンは低く落ち着いた声で続けた。
「ただ王位を譲られただけでは、国民の不満を抑えることはできません。むしろ、前王との違いが伝わらず、ただ反発を招くだけである可能性の方が高いでしょう」
俺は舌打ちした。そんなことは分かっている。王になったところで、民衆が支持しなければ意味がない。だが、どうすればいいのか。答えが見えない。
アンドリアンは、きっとその答えを持っているのだろう。
「……お前の案を聞こう」
そう言うと、アンドリアンは満足げに一礼した。まるで、この展開を予期していたかのように。
「国民の不満を逸らし、殿下の支持を盤石なものにするためには」
アンドリアンは一拍置いてから、静かに言った。
「退位した王を処刑するのが最善です」
俺は一瞬、耳を疑った。心臓が一度、大きく跳ねる。処刑? 父を?
「待て……処刑だと?」
声が上ずる。だが、アンドリアンは真剣な表情で続けた。
「フィリップ殿下による改革の阻止、スリング販売の中止、そして暴動に対しての軍による弾圧」
アンドリアンは一歩前に出た。暖炉の火が、彼の顔を赤く照らす。影が壁に揺れる。
「父王の失政に対して、貴族からも商人からも、そして民衆からも恨みが募っています。今や、前王は誰からも憎まれる存在なのです」
カミーユが小さな声で「確かにね」と呟く。
アンドリアンの黒曜石のような瞳が光った。
「そんな王を断罪することで、殿下は『王の過ちを正す新しい王』として支持を得られるでしょう。民衆は殿下を称賛します。そして、国民からの信頼の厚いフィリップ殿下を支持することで、ハーマン殿下に対する評価も上げるのです」
俺は唇を噛んだ。確かに、父の行いは国民から見れば問題だったのだろう。処刑することに気乗りはしないが、王として支持を得るためには、仕方ないことなのかもしれない。
今ではただ口うるさいだけだが、小さいころから俺をかわいがってくれた父への情はある。だが、それ以上に、自分が王として君臨するためには、何かを犠牲にしなければならない。
「……だが」
「フィリップの人気を利用するのは気に入らんな」
フィリップ。いつも優秀で、いつも民に慕われている弟。俺が何をしても、人々の目はフィリップに向く。自分は常に、フィリップの影に隠れてきた。
「あら、殿下」
横から、軽やかな声が響いた。
カミーユが人差し指で顎を軽く押さえる。
「フィリップ殿下の人気を横取りすると考えればいいのではないかしら?」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
人気を横取りする。確かに、フィリップを表向きに立てながら、実権を握ることができれば、それも一つの手だ。
頭の中で、その構図が見えてきた。フィリップは民衆の人気を集める象徴として機能し、自分は実権を握る。完璧な構図だ。カミーユは、いつでも俺の欲しいものをくれる。
「……なるほど」
俺は頷いた。
「ならば、その案に乗るとしよう」
そう答えると、アンドリアンは満足げに微笑んだ。
「ご英断です、殿下」
俺は確信した。自分は今、自らの手で王国を支配するための道を進み始めたのだと。これで、自分も王として認められる。フィリップの影から抜け出せる。もう、誰にも見下されることはない。
暖炉の火が、部屋の中で激しく揺れた。その炎の向こうに、未来が見える気がした。王座に座る自分。横には美女のカミーユがいる。そして、民衆に称賛される自分。フィリップを従える自分。
全てが、手に入る。
次回はフィリップ視点の話です。




