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82.救済

 エレオノーラの乗った馬車が暗がりの中なんとか無事にマルテッロ領に入ったのは、夕食が終わった団らんの時間帯のはずだった。しかし、満月の月明かりに照らされた街は静まり返り、酒場からは怨嗟の声が漏れ聞こえてくる。昼間撒かれたと思われるビラの切れ端とおぼしきものが冷たい風に吹かれて舞っていた。

 エレオノーラは胸が痛んだ。これが、王の禁止令が引き起こした現実だ。


 マルテッロ公爵邸の門前には、毛布にくるまって寒さに耐えながらも、なんとか話を聞いてもらおうと座り込んでいる領民が数名いた。そのうちの2人が震えながら立ち上がり、馬車に向かって土下座する。

「お願いします!話を聞いてください!」

 一人の男が、涙声で訴えた。

「わしは布問屋を営んでおります。スリングの注文を受けて、金糸や高級な布地を仕入れました。全て前払いで、借金までして……。それなのに、禁止令が出て、注文は全て取り消しになりました。借金は返せません。家族を養うこともできません。このままでは、一家で首を吊るしかないんです!」

 もう一人の女性が、震える声で続けた。

「私の夫は職人です。スリングを作る仕事で、やっと生活ができていました。でも、禁止令が出てから仕事がなくなりました。賃金ももらえず、子どもたちに食べさせるものもありません。お願いです、助けてください!」


 エレオノーラは胸が痛かった。思わず馬車の窓を開け、声をかけた。

「お話は伺いました」

 エレオノーラは優しく、しかし力強く言った。

「これから、マルテッロ公爵様とお話をして、皆様を助けるための方法を考えます。必ず、何とかしますから、どうか希望を捨てないでください」

 彼女は涙を浮かべている二人を見つめて、微笑んだ。

「今夜は、どうか家に帰って温まってください。明日、良い知らせをお伝えできると思います」

 二人は、涙を流しながら頷いた。

「……どうか、よろしくお願いします」


 エレオノーラが使用人に案内されて玄関に入ると、マルテッロ公爵ゲルハルトが驚いた表情で現れた。

「こんな夜に、一体どうされたのだ?」

 彼の目には、明らかな驚きと困惑が浮かんでいる。

「急なことで申し訳ありません、公爵閣下」

 エレオノーラは深く頭を下げた。

「実は、王都で暴動が起きました」

「暴動だと!?」

 ゲルハルトの顔色が変わった。


「はい。若者たちが、『王は退け』と叫びながら、商店を襲っています。私は王が軍を向けたところで閉鎖される前にこちらに向かったのです。それでこんな時間に……」

「軍を使ったのか」

 ゲルハルトは深く息を吐いた。その顔には、憂いが浮かんでいる。

「それは悪手だ。軍を使えば、民の怒りはさらに高まる。王は、自ら破滅への道を歩んでおられる」

 彼は拳を握りしめた。

「このままでは、この国は……」

 エレオノーラは頷いた。

「ですから、せめてマルテッロ領だけでも、暴動を防がなければなりません。父が、すぐに出発するようにと」

「なるほど……分かった。応接室に案内しよう」


 エレオノーラは応接室に通され、ゲルハルトの前に座った。スタンダル帝国製のものを模して作ったと思われるライトの下で見たゲルハルトの目の下に、深く刻まれた隈があるのに気が付く。まるで、何日も眠っていないかのようだ。


「改めて、こんな夜遅くに、突然おうかがいして申し訳ありません」

 エレオノーラが頭を下げると、ゲルハルトは短く息を吐いた。

「いや……来てくれて助かった。正直、どうにもならんと思っていたところだ」

 机の上には、布地の見本と帳簿が積み上げられている。金糸を織り込んだ高価な布の束は、美しくも重々しい。その布は、本来ならスリングになるはずだったものだ。


「スリング禁止令で、受注がすべて止まった」

 ゲルハルトの声は、重く沈んでいる。

「布問屋は支払いができず、職人は賃金をもらえず。わしの出した救済金では、到底まかないきれん。このままでは、職人たちが路頭に迷う」

 彼の拳が、わずかに震えている。

 その言葉に、エレオノーラはうなずいた。リカルドから聞かされていた話の通り、いや、それ以上に事態は深刻だった。


「もし、よろしければ一つご提案がございます」

 彼女は机の端に手を置き、まっすぐにゲルハルトを見つめた。その目には、確固たる決意が宿っている。

「まず、まだスリングに仕立てていない布は、『おひなまき』という育児用のおくるみに加工して販売できると思います。王都のスリングを使わない育児講習会で伝えた方法なのです。ヴェルデン公爵夫人である母が、貴族への紹介を引き受けます」

「おひなまき、というのは……?」

 ゲルハルトが眉をひそめた。

「赤ちゃんを包む布です。スリングのような複雑な構造ではないので、加工も簡単です」

 エレオノーラは、ヴェルデン家の家紋の入った布を取り出した。そして、辺りを見回す。

「……申し訳ありませんが、また、あの壺をお借りしても?」

 ゲルハルトがうなずくと、執事と思われる初老の男性が、スリングの実演の時にも使った壺をエレオノーラに渡した。

 エレオノーラは壺を布の中央に置き、器用に布で包み始めた。その手つきは慣れたもので、あっという間に壺は布の中で丸く包まれた。まるで、赤ちゃんが眠っているかのようだ。


 ゲルハルトは顎をさすりながら、黙って考え込んだ。その目は、布に包まれた壺を見つめている。やがて、その眉間の皺が少しだけ緩む。

「なるほど……スリングの代わりに『包む』か。悪くない」


「それから、すでにスリングに加工してしまったものは、いずれ禁止令が撤回されれば再び売れます」

 エレオノーラは続けた。

「今困っている職人がいれば、ヴェルデン家で一時的に買い取ることも可能です。在庫として保管しておけば、禁止令が撤回された時に販売できます」

「ふむ……それなら、職人たちを救うことができるかもしれんな」

 ゲルハルトの表情に、わずかな希望の光が灯る。


「そして最後に、スリング禁止令で戸惑っている育児に関わる人々には、スリングを使わない育児法の講習を開きます」

 エレオノーラは真剣な表情で言った。

「わたくしが、明日こちらで行いましょう。安心して育児できるように、丸抱っこやおひなまきの方法を教えます」


 しばらくの沈黙ののち、公爵は深くうなずいてエレオノーラの青い瞳をまっすぐに見た。

「……エレオノーラ嬢、助かった」

 ゲルハルトの声は、どこか震えていた。

「わしは、己の無力さで領民を裏切るところだった。貴女がいなければ、この領は絶望に沈んでいただろう」


 翌朝、マルテッロ公爵はギルド本部の広間に立った。並んだ職人や商人たちに向け、低く太い声が響く。広間は、緊張と期待で満ちている。

「スリング用の布は『おひなまき』として新たに売り出す。そして、スリングとして加工したものについては、必要に応じてヴェルデン公爵家が買い取ってくれる」

 ゲルハルトの声は、力強い。


「この領は、まだ立ち直れる。諦めることはない」


 沈黙のあと、広間には小さな拍手が起こった。深いため息と共に、わずかな安堵が広がっていく。希望というほどではないが、少なくとも今日明日を生き延びる道筋が見えたのだ。


 午後、エレオノーラの講習会が開かれた。広場に集まった参加者は、彼女の手本を食い入るように見つめている。赤ちゃんを抱いた人々の目には、不安と期待が混ざり合っている。


「布で優しく包んであげてくださいね。力はいりません」

 柔らかく微笑む声に、参加者の表情も少しずつ和らいでいった。赤ちゃんたちも、布に包まれると穏やかになっていく。

 見守るゲルハルトは、長いひげをなでながらぽつりとつぶやいた。

「民を導くとは、こういうことなのかもしれんな……」


 講習会が終わった後、ゲルハルトはエレオノーラに歩み寄った。

「エレオノーラ嬢」

 彼の声は、いつもの厳格さとは違う、温かみを帯びていた。

「貴女のおかげで、この領は持ちこたえられそうだ」

 ゲルハルトは深く頭を下げた。


「布の転用方法は、わしには思いつかなかった。スリングの買取については、リカルド殿に相談しようかと思ってはいたが……。さすが、エレオノーラ嬢だ」

 エレオノーラは、その言葉に胸が熱くなるのを感じた。

「いえ、布の転用について考えたのは母なんです。そして、私は当然のことをしただけです。困っている人々を見過ごすことはできません」


 そのとき、邸の扉が勢いよく開いた。マルテッロ公爵の配下の一人が駆け込んでくる。その顔は、興奮と驚きで紅潮している。

「公爵閣下!至急お耳に入れたいことがございます!」

 息を荒げた男が差し出した報告書を、ゲルハルトが受け取った。数行を目で追った瞬間、彼の顔がこわばった。その手が、わずかに震えている。

「……王が、処刑されたそうだ」


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