80.緊迫する王都
エレオノーラは、昨夜のことを思い出していた。
リカルドが執務室にエレオノーラを呼んだのは、夕食後だった。三公爵家の会議を終えた彼の表情は重く、疲れ切っていた。暖炉の火が揺れる中、リカルドはエレオノーラに会議で決まったことを告げた。
「王の退位を求めることになった」
本来なら、機密事項なので伝えることはできない内容だ。けれども、エレオノーラは育児改革の中心人物の一人だ。リカルドは、今後のことも考えて、エレオノーラにも知らせておくべきだと考えた。
その言葉を聞いた瞬間、エレオノーラは息を呑んだ。
「王の……退位、ですか?」
(まさか、そんな展開になるなんて……)
どうしてもスリング禁止令を撤回させることはできないのか。退位の他に方法はないのか。エレオノーラの頭の中で、様々な考えが駆け巡る。
リカルドは深く頷いた。
「ああ。アンドリアンを排除することは不可能だ。そして、王はアンドリアン以外の誰の言葉も聞かないらしい。そうなると、これしか道はない」
エレオノーラは椅子に座り込んだ。手が震えている。
(王が退位っていうことは、ハーマンが王になるっていうことよね?フィリップは、本当にそれで大丈夫なのかな……)
ショックを受けているエレオノーラに、リカルドは話を続けた。
「マルテッロ公爵領の状況も深刻らしい」
彼は机の上で手を組んだ。
「職人たちの怒りが高まっているということだ。スリングの材料費の補填をマルテッロ公爵が全て負担するのは、限界がある。このままでは、暴動が起きるかもしれない」
エレオノーラは顔を上げた。
「私が……私がスリングを提案して、広めたせいで……」
責任を感じて、胸が痛む。
「エレン」
リカルドはわずかに目を細め、静かに首を横に振った。
「お前のせいではない。悪いのは、禁止令を出した王だ。いや、王を操っているアンドリアンだ」
「でも……」
「今は責任を感じている場合ではない」
リカルドは真剣な表情で続けた。
「王都での雲行きが怪しい。もしマルテッロ公爵領まで崩れたら、王国全体が危険になる。お前に、対策を考えてほしい」
エレオノーラは深く息を吸った。そうだ、今は自分を責めている時ではない。行動しなければ。
「分かりました。明日、すぐに考えます」
「あぁ。クレメンティアと協力して考えるといい」
リカルドの言葉に、エレオノーラは頷いた。
翌朝、エレオノーラはクレメンティアの執務室を訪ねた。窓の外は曇り空で、冷たい風が吹いている。初冬の寒さが、部屋の中にも忍び込んでくるようだ。
「お母さま、お話があります」
エレオノーラが状況を説明すると、クレメンティアは真剣な表情で聞いていた。
「なるほど……マルテッロ公爵領の職人たちが困っているのね」
「はい。何か、良い案はありませんか?」
クレメンティアは考え込んだ。その指が、机の上を軽く叩く。
「まず、出来上がったスリングについて考えなくちゃいけないわね」
「……どのみち、スリング禁止令は何らかの方法で撤回される見込みです。一時的に、ヴェルデン公爵家で買い取るのはどうでしょうか」
「買い取る……」
クレメンティアは眉をひそめた。
「それは、かなりの額になるわよ?」
「私のヴェルデン領改革の影響で潤っているはずなので、なんとかなると思います。一応、あとでお父さまとも相談しますが」
「そうね……それなら、なんとかなるかもしれないわ」
クレメンティアは頷いた。
「でも、加工していない布についてはどうすればいいでしょうね……」
エレオノーラが腕を組んだ。クレメンティアが考え込むように指を顎に当てる。
「そうね……あの『おひなまき』の布に加工するのはどうかしら」
「おひなまき?」
エレオノーラが顔を上げた。
「ええ。エレンちゃんが王都での育児講習会で教えていた、赤ちゃんを包む布よ。スリングより簡単だし、需要もあるはずよ」
クレメンティアの目が輝いた。
「なるほど……それはいい案ですね!」
エレオノーラも頷いた。
「私が、育児講習会に参加していた人たちに手紙を出して、購入をすすめていくわ。貴族たちにも紹介できるし」
クレメンティアは、すでに頭の中で計画を立て始めているようだった。
「ありがとうございます、お母さま」
エレオノーラは安堵した。
「それじゃあ、エレンちゃんは明日、マルテッロ領に出発するといいわ。その間に私はこっちでできることをしているわね」
クレメンティアが言った。
「はい。それではこれから準備します」
二人は頷き合った。
リカルドにスリングの買い取りの許可をもらい、明日の準備が終わったのはもう昼下がりだった。エレオノーラは椅子に座って紅茶を一口飲んだ。窓の外は、さらに曇りが濃くなり、風の吹く音が聞こえた。木々が激しく揺れ、枯れ葉が舞っている。
そのとき、玄関から騒がしい音が聞こえた。
「何かあったのかしら?」
エレオノーラは眉をしかめた。侍女のマリーが様子をうかがいに部屋の外に出る。
足音はリカルドの執務室の方に向かっていった。
「やっぱりか!」
響き渡る大声で叫んだその声を聞いて、エレオノーラはリカルドの執務室へ向かう。途中でクレメンティア合流した。
「リカルド、何があったの?」
クレメンティアがリカルドを見つめると、彼は眉をしかめた。
「とうとう、中心街で暴動が起きた」
伝令が震えた声で、その後に続けた。
「若者たちが、『王は退け!』と叫びながら、商店を襲っています。窓ガラスが割られ、商品が略奪され……」
「わかったわ。私は、困っている人たちへの対応を進めるわ。フィリップ殿下にも連絡しなくちゃ。アメリア夫人も一緒に動いてもらえるかしら……」
クレメンティアが踵を返して自分の執務室へ向かう。
「お父さま、フィリップ殿下は大丈夫でしょうか。フィリップ殿下も王族なので、攻撃の対象になるのでは?」
エレオノーラは、青い顔をしてリカルドに詰め寄った。
そうしている間にも、外からは中心街から逃げてくる人々の馬車の音が聞こえてくる。馬の嘶き、車輪の軋む音、人々の叫び声。その音が、だんだんと近づいてくる。
そのとき、さらに別の伝令が駆け込んできた。
「公爵様! 王が暴徒の鎮圧のために王軍を派遣しました!」
「王軍を!?まずい‼エレオノーラ、すぐに出発しろ」
「え?」
「軍による鎮圧が始まったら、王都が完全に封鎖され、出られなくなる可能性がある。だが、マルテッロ領まで暴動が広がったら、もう手がつけられない」
リカルドの声は切迫している。
「今すぐに準備を整えて、マルテッロ領へ向かえ」
声を聞きつけたクレメンティアも自分の執務室から出てきた。
「でも、もう夕方近くよ?夜の馬車は危険だと思うわ」
クレメンティアが心配そうに言った。
「確かに危険だ。だが、封鎖されたら、しばらくの間マルテッロ領には行けないぞ。マルテッロ領が落ちたら、国が危うい。そうなったらここだって危ないんだ」
リカルドは断言した。
「エレオノーラ、行けるか?」
エレオノーラは深く息を吸った。そして、頷いた。
「はい。行きます」
エレオノーラと護衛騎士たちの準備が終わったのは、夕方近くになってからだった。空は暗くなり始め、冷たい風が吹きすさぶ。
馬車の前で、リカルドがエレオノーラに言った。
「気をつけろ。道中、何が起きるか分からん」
「はい」
「マルテッロ領に着いたら、すぐに公爵に会え。そして、職人たちを落ち着かせるんだ」
「分かりました」
クレメンティアが、エレオノーラの手を握った。
「無事に戻ってくるのよ」
「はい、お母さま」
エレオノーラは馬車に乗り込んだ。いつもより多い護衛騎士たちが、馬に跨る。
「出発!」
騎士の声が響き、馬車が動き出した。
王都の門に向かう道は、逃げてくる人々で混雑していた。馬車は、その間を縫うように進んでいく。
遠くから、叫び声と、何かが壊れる音が聞こえる。暴動は、まだ続いているようだ。
やがて、王都の門が見えてきた。門の警備が、いつもより厳しくなっている。兵士たちが、出入りする者を厳しくチェックしている。
「止まれ!」
兵士が手を上げた。
護衛騎士が、ヴェルデン公爵家の紋章を見せる。
「ヴェルデン公爵家の者だ。通してもらう」
兵士は一瞬躊躇したが、紋章を見て頷いた。
「……通れ」
馬車は、薄暗い中を滑り込むように門をくぐった。
エレオノーラは、窓から振り返った。王都の空に、黒い煙が立ち上っているのが見える。
(フィリップ……どうか、気を付けて)
馬車は、暗くなり始めた道を、マルテッロ領へ向かって走り続けた。冷たい風が、馬車の窓を叩く。エレオノーラは、震える手を握りしめた。
これから、何が起きるのか。自分に、何ができるのか。
(とにかく、私は私にできることからやっていこう。まずは、マルテッロ領の職人たちの持つ火種を消すところから、がんばらなきゃ!)
不安と緊張の中、馬車は闇の中を進んでいった。
次回の主人公はフィリップです。




