78.デマが導く道
フィリップ視点での話です。
昼が過ぎたころ、部下が執務室に息を切らせて入ってきた。ヘンリーが出迎え、水を渡す。
「殿下、市井の様子をご報告いたします」
部下は水を一口飲んだあと、額の汗を拭いながら語り始めた。
「昨日の夜の段階では、子育て中の父母たちが不満を募らせておりました。『せっかく楽になったのに』『また夜も眠れなくなる』と嘆く声が多く聞かれましたが、まだ怒りの温度はそれほど高くはありませんでした」
部下は息を整え、続けた。
「しかし、本日になって状況が一変しました。若者たちが加わり、怒りの炎が一気に燃え上がったのです」
「若者たち?」
私は眉をひそめた。
「はい。彼らは、自分たちがこんな風に育ったのは王のせいだと憤っています」
部下は懐から紙束を取り出した。街角で配られていたという檄文だ。
「ティモテウス育児論の誤りについて、若者たちは二つのことを語っていました」
部下の声が低くなる。
「一つ目は、ティモテウス育児論は、実は王が個人的に強く信頼し、推奨していたものだということです。一部の医師や研究者から『誤りがある』という指摘が上がった際、王は批判的な論文や出版を王命で禁止させていたという話が広まっています」
私は腕を組んだ。王が個人的に強く信頼しているなんていうことは聞いたことが無いが、王命で禁止させていたことは、あり得ない話ではない。
「二つ目は、ティモテウスの育児論は、スタンダル帝国では問題がある子育て方法として有名だという内容です」
部下は檄文を読み上げた。
「『聞け!かの誤れる育児論は、体を思うように動かせぬのみならず、読み書きの習得を妨げ、注意力を散漫とさせ、ついには人の心すら解せぬ不遇の子らを育むと、既にスタンダル帝国が看破していたのだ!』という内容です」
「それを読んだ若者たちは……」
「はい。自分たちのやるせなさを、王政にぶつけ始めました」
部下は眉をしかめながら続けた。
「街角では、若者たちがこう叫んでいます。『私たちが生きづらいのは、私たちが努力しなかったせいではない。王が推奨した誤った育児のせいだ!』と」
窓の外から、遠くで叫び声が聞こえてくる。
「『私たちは、社会から落ちこぼれとして扱われてきた!我々は、王が推奨した育児の犠牲者だ!』と言う者もいます」
部下の声が、さらに深刻さを増す。
「そして、こう訴えています。『王は自らの権威を守るためだけに、私たちの人生を犠牲にした!』と」
私は拳を握りしめた。全くの見当違いではないところが、また巧妙だ。若者たちが怒るのは無理も無い。ただ、これらの原因は全てアンドリアンの策略だったはずだ。
「『ヴェルデン公爵令嬢の提唱する育児法こそが論理的に正しい。王は、自らの誤りを認められなかった点で、統治者として失格だ』という声も多く聞かれます」
部下は最後の報告を、ためらいがちに口にした。
「そして、スリングを禁止することでティモテウスの権威を守ろうとした王に対して、若者たちはこう言っています。『王は私たちの正常な発達の機会という最も貴重なものを奪った。その責任を償わせるには、王の座から引きずり下ろし、私たちの未来を自分たちの手で作り直すしかない。我々には正当な賠償を受ける権利がある』と」
部屋に重い沈黙が落ちた。私は窓の外を見つめた。王都の街に、不穏な空気が漂っている。
「分かった。引き続き、調査を頼む。何か緊急事態が起こったら、すぐに知らせるんだ」
部下は頭を下げ、部屋を出て行った。
私は深く息を吐いた。事態は、予想以上に深刻だ。若者たちの怒りは正当なものだ。そして、その怒りは革命へと向かっている。
一緒に聞いていたヘンリーは、ぽつりとつぶやいた。
「僕が生きづらかったのも、その育児方法のせいなんですかね……」
私は曖昧に頷いた。
「そうかもしれない。けれど、その生きづらい中でも頑張ってきたから、今があるんじゃないか?」
雨降りの中、約束の時間に間に合わせるようにヴェルデン公爵家にたどり着く。多数の馬車の列ができているのを不思議に感じながら応接間に通されると、リカルドが立ち上がって迎えてくれた。
「フィリップ殿下、お待ちしておりました」
「お時間をいただき、ありがとうございます」
私は部屋を見回した。クレメンティアとエレオノーラの姿がない。
「公爵夫人とエレオノーラ嬢は?」
「妻とエレオノーラは、ただいまスリングが無くても困らない育児方法の講習会を開いております。二人とも、今日は同席できません」
リカルドが申し訳なさそうに言った。
私は心の中でがっかりした。特にエレオノーラの知恵を借りたかった。彼女なら、何か良い案を出してくれるかもしれないと期待していたのだ。
(単純に、ただ顔を見て元気をもらいたかったっていうのもあるけど……)
だが、エレオノーラも頑張っているということを感じられるだけでも勇気づけられた。
「エレオノーラ嬢にしかできない、大切なことですね。多くの人々が助かるでしょう」
私は席に着いて、大きく息を吸った。
「公爵、まず報告があります。王の説得は、無理でした」
私はこれまでの経緯を説明した。王の冷たい拒絶、ハーマンの敵意。リカルドは黙って聞いていたが、その表情は次第に険しくなっていった。
「そして、市井の様子ですが……」
私は部下から受けた報告を詳しく伝えた。若者たちの怒り、革命への機運。リカルドは腕を組んだ。
「事態は、予想以上に深刻ですな」
リカルドが低い声で言った。
「はい。そして、もう一つ気になることがあります」
私はテーブルに身を乗り出した。
「市井に流れている情報の中に、明らかに虚実入り混じったデマがあります。アンドリアンが流しているのではないかと」
「私もそう思います」
リカルドが頷いた。
「アンドリアンは、民衆の怒りを特定の方向へ誘導しようとしているのでしょう。恐らく、自分に都合の良い方向へ」
二人は顔を見合わせた。アンドリアンの狙いは何なのか。
「ならば、カウンターデマとして、アンドリアンが黒幕であることを市井に伝えるのはどうでしょうか」
私が提案すると、リカルドは難しい顔をした。
「それは、危険です」
「危険?」
「アンドリアンをいたずらに刺激すると、ヴェルデン領にもとばっちりが来るかもしれません。先日のヴェルデン家の不正の証拠をこのタイミングで使われると、いくらそのあと真実を突き付けても間違った印象を完全に拭うことはできないでしょう」
リカルドの声には、切実さが滲んでいた。
「殿下、その方法は控えていただけませんか」
彼は、領民を守らなければならない。私は頷いた。
「分かりました。では、どうすれば」
リカルドは立ち上がり、窓の外を見つめた。
「今後起こる暴動に対して、備えることです。そして……」
彼は振り返った。
「王家も宰相も正常に機能していない現状では、私たち二人で考えるだけでは不十分です。三公爵家が集まって、今後のことを考えるべきだと思います」
「三公爵家……」
私は考えた。ヴェルデン、アッシュクロフト、マルテッロ。三つの公爵家が協力すれば、大きな力になる。
「それは良い案です。すぐに手配しましょう」
「はい。私からも連絡を取ります」
エレオノーラに会えなくて残念なフィリップ。次もフィリップの話。




