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77.ここで自分にできること

久しぶりのエレオノーラの回です。

 エレオノーラはスリングが使えなくなって困り果てている国民を助けるために、子育て中の人たちの前でスリングが無くてもできる育児の講習会を開くことにした。


 ただ、王都は混乱している。警備の問題もあり、前回集まった全員を集めることは難しいと考えた。そこで、クレメンティアと協力して王都でのチャリティ活動の参加者のうち、現在子育て中の人と婦人会にしぼって案内を出した。

 インクの匂いが漂う書斎で、二人は夜遅くまで案内状を書き続けた。婦人会には、このあと王都で育児に困っている人に伝える役割をお願いすることにした。彼女たちのネットワークを使えば、王都中に情報が広がるはずだ。


 急な話にも関わらず、ヴェルデン公爵家の広間には赤ちゃんを抱えた人々が集まっていた。育児に悩む人々が詰めかけている。その多くが疲れ切った表情で、目の下には隈ができている。会場には赤ちゃんの泣き声が響き、参加者の不安と焦りが空気に満ちていた。


 エレオノーラは壇上に立ち、深く息を吸い込んだ。そして大きな声で呼びかけた。

「スリングが無いのは大変ですが、スリングと同じように抱っこする方法があります! よく聞いてください!」


 その力強い声に、ざわついていた会場が少しずつ静まっていく。人々の視線が一斉にエレオノーラに集中した。疲れ切った目に、わずかな希望の光が灯る。

「両腕を前に出して、肘を曲げて輪を作ります」

 エレオノーラは自分の腕で実演しながら、ゆっくりと説明した。

「両方の手のひらを外に向けて蝶のように重ねてください。そのまま片方の手でもう片方の手首をつかみます」

 参加者たちも、エレオノーラの動きを真似て輪を作り始める。不器用に腕を組む者、戸惑いながら手首をつかむ者。エレオノーラは一人一人の様子を見ながら、丁寧に確認していく。


「輪の中に赤ちゃんのお尻がすぽっと入るように、赤ちゃんを抱っこします。頭はどちらでもやりやすい方で大丈夫ですよ」

 エレオノーラは近くにいた参加者に近づき、その赤ちゃんの頭とひざの下に手を差し入れた。柔らかい赤ちゃんの体温が手のひらに伝わってくる。ふわりとしたミルクのような甘い香りがする。優しく持ち上げ、作った輪の中に赤ちゃんを収める。

 参加者たちも、見よう見まねで自分の赤ちゃんを抱っこしてみた。最初はおぼつかない手つきだったが、徐々にコツをつかんでいく。


「抱っこできたら、赤ちゃんの両肩を内側に入れて、赤ちゃんの手が胸やおなかに来るようにします。これで完成です」

 エレオノーラが身をよじって、自分側の赤ちゃんの肩を中に入れる。次に手でもう片方の肩を優しく中に押し込んだ。すると、赤ちゃんの背中がきれいに丸くなった。まるで小さな球のような形だ。心地よさそうに目を閉じた赤ちゃんは、さっきまでぐずっていたのが嘘のように静かになった。


「この抱っこは、丸抱っこといってスリングの中に入っている赤ちゃんと同じ形になれる抱っこです。今までの縦抱っこと違い、すぐに泣き止みますよ」

 参加者たちは感心した声を上げた。会場のあちこちで「本当だ」「泣き止んだ」という驚きの声が聞こえる。


 しかし、まだ困り果てている人もいた。

「赤ちゃんを落としそうで怖いです!」

 ある侯爵が不安そうに声を上げた。その腕は緊張で固くなっている。

 エレオノーラは優しく微笑んで近づいた。

「赤ちゃんの頭の側の腕がしっかり赤ちゃんを自分の体に寄せていれば、赤ちゃんが落ちることはありませんよ。ほら、こうやって」

 エレオノーラは自分の腕で実演しながら、侯爵の腕の位置を軽く調整した。侯爵の緊張が少しずつほぐれていく。


「手は、必ず外側に向けなきゃいけないんですか? 内側の方が楽なような……」

 別の参加者が質問した。確かに、手のひらを外に向けるのは最初は違和感がある。

「内側の方が楽に感じるかもしれませんが、ずっと抱っこしていて疲れないのは外側です」

 エレオノーラは自分の手首を示しながら説明した。

「内側だと手首に負担がかかって、腱鞘炎になりやすいんですよ。外側に向けると、手首ではなく腕全体で支えられるので楽なんです」


 参加者のちょっとした疑問にも、エレオノーラはどんどん応えていく。一つ一つの質問に丁寧に、そして分かりやすく答える姿を見たフランソワは、会場の隅でため息をついた。

 フランソワは、この講習会を手伝うためにこの場にいた。ヒューゴは、アッシュクロフト領の鎮静化のためにアッシュクロフト公爵夫人と一緒に領地に戻っている。

「……エレンったら、本当に素晴らしいですわ。あれだけの人数を相手に、一人一人に目を配りながら教えるなんて、並大抵のことではありませんわ」

 フランソワの目には、尊敬と感嘆の色が浮かんでいる。


 エレオノーラは次の説明に移った。

「首がすわって、ちょっと大きくなった赤ちゃんは、丸抱っこだと辛いかもしれませんね。縦に丸く抱く方法をお伝えしますね」

 彼女は少し大きめの赤ちゃんを抱いた母親の前に立った。

「赤ちゃんの体を自分の胸板に載せるようにして、膝の下に今みたいに丸く腕を組みます。すると、膝を上げて楽な姿勢にしてあげられますよ」

 その母親は真似をして、感嘆の声を上げた。

「あら、本当だ! さっきより軽く感じます!」


「抱っこしにくかったら、先に赤ちゃんを布に巻くこともできます」

 エレオノーラは用意していた大きな布を広げた。柔らかな布の手触りが心地よく、ふわりと空気を含む。

「大きめの布を用意して、その中央に赤ちゃんを寝せます。布の両端をもって赤ちゃんの肩をくるみます。お尻を上げて、下から布を首まで上げて、頭を持ち上げて後ろで端をしばります。こうすると、スリングに入っているときと同じ形になります。おひなまきって言うんですよ」

 エレオノーラが器用にヴェルデン家の家紋入りの布に赤ちゃんを巻いていく。その手つきは慣れたもので、あっという間に赤ちゃんは布の中で丸くなった。布に包まれた赤ちゃんは、まるで繭の中にいるかのように安心した表情だ。


「もう寒いので、このまま眠ってしまったら、赤ちゃんの巣を作ってその中に寝かせてあげましょう」

 寒いと思ったら、外はいつの間にか雨が降っていた。ダイバーレス王国の中では比較的南に位置する王都だが、内陸にあるため陽が出ていないとぐっと冷えこむ。暖炉の火が会場を暖めているが、それでも隙間風が入り込んできた。


「赤ちゃんの巣は、クッションと毛布を使うと簡単に作れます」

 エレオノーラは、用意していたシートクッションの上に枕替わりの丸いクッションを置いた。そして毛布を巻いた筒を、クッションの下に数字の「8」の下の円周を作るように置いた。ふかふかとした毛布の手触りが温かい。

「この、クッションと毛布で作った穴の中に背中が入るようにあおむけで寝かせます。これだと背中がつぶれないのでぐっすり眠れますよ」

 エレオノーラは実演しながら説明する。布に包まれてまどろんでいる赤ちゃんを作った巣の中にそっと置くと、赤ちゃんは深い眠りに落ちていった。

「寝返りをするようになった赤ちゃんは、おひなまきをほどいてあげて横向きに寝せてあげてくださいね。自分で楽な姿勢を探して眠ります」


 一通り説明が終わったあとの質問タイムでは、参加者たちから次々と質問が飛んだ。エレオノーラは一つ一つに丁寧に答えていく。時間が経つにつれて、会場に響いていた赤ちゃんの泣き声も落ち着いていった。終盤には、会場全体に穏やかな空気が流れ始めた。


 参加者たちは、ほっとした様子で帰路についた。「ありがとうございました」「助かりました」という感謝の言葉が、あちこちから聞こえてくる。人々の表情は、来た時とは打って変わって明るい。

 最後の参加者を見送ったあと、エレオノーラは疲れた体を伸ばした。肩と腰に鈍い痛みが走る。朝からずっと立ちっぱなしで、声を出し続けていた。


「お疲れ様ですわ、エレン」

 フランソワも疲れた様子で声をかけてきた。

「フランソワもお疲れ様」

 二人は互いを労い合った。フランソワは会場の準備や片付け、参加者の誘導など、エレオノーラを支えてくれていた。

「エレンちゃん、婦人会の方々もお帰りになられたわ」

 クレメンティアが近づいてきた。彼女の声にも疲労が滲んでいる。

「みなさん、それぞれ知り合いに声をかけて教会で伝えると張り切っていたから、任せて大丈夫よ」

 クレメンティアも気を張って疲れたらしい。いつもみたいに出しゃばることもなく、陰でエレオノーラのサポートをしていた彼女は、肩をゆっくりと回した。硬くなった筋肉をほぐすように、首も左右に傾ける。


 エレオノーラは、王都で自分にできることはやり遂げたことに、ほっとした。

 しかし、これで終わりではない。まだまだ困っている国民がたくさんいる。王都以外の領地にも、助けを求める人々がいる。明日も、明後日も、講習会は続く。

 エレオノーラは、窓の外に見える王城の方角を見つめた。夕暮れの空に、王城の尖塔がシルエットとなって浮かび上がっている。あそこで、フィリップは戦っている。政治の世界で、国を変えようと必死に戦っている。


(私は私にできることをがんばろう。次は、王都から近いマルテッロ公爵領がいいよね。職人たちがスリング禁止令で困っているはず)

 エレオノーラは心に誓った。フィリップが王城で戦うなら、自分は現場で国民を助ける。二人で、違う場所から、同じ未来を目指して戦うのだ。

 夕暮れの光が、エレオノーラの疲れた顔を優しく照らしていた。



次は、またフィリップの話です。エレオノーラが講習会をしていた間の話。

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