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76.国民のために

フィリップ視点での話です。

 まだ昼すぎだというのに厚い雲がたちこめていて、暗い。薄いガラスが美しいスタンダル帝国製の燭台が並ぶ王城の廊下を急ぎ足で進みながら、私は眉をひそめた。すれ違う廷臣たちの視線が、いつもより鋭く冷たい。


「フィリップ殿下、お待ちください」

 玉座の間の前で、護衛の兵士に制止される。私は真っ直ぐに兵士を見据えた。

「急用です。国の未来がかかっております。どうか通してください」

 その真剣な眼差しと声の響きに、渋っていた兵士たちは顔を見合わせて頷き、ようやく重い扉を開いた。軋む音が廊下に響く。


 扉の向こうの玉座に座る王――父であるオーウェン陛下は、表情を変えることなく言い放った。

「何の用だ?」

 その声は、いつもにも増して冷たい。まるで他人を見るような眼差しに、私の胸が締め付けられる。

「スリングの禁止令を撤回してください」

 単刀直入に切り出した私に、王は眉をしかめた。

「陛下、スリングはこれまでに多くの国民の育児を助け、赤ちゃんたちの健康状態を改善してきました。その影響は計り知れません」

 私は一歩前に出た。

「禁止令を発したことで国民の怒りが爆発しています。スリング生産地であるマルテッロ公爵領でも職人が困惑しています。このままでは暴動が起こる可能性すらあります」


 王の深い茶色の瞳は、使い込まれた革のような鈍い光で、うつろな目は私すら見ていないように感じられた。

「……お前に国のことを心配する資格はない」

 その一言に、私は息をのんだ。まるで頭を殴られたように感じた。

 元々、私と王の仲が良かったわけではない。だが、ここまであからさまに距離を感じたことはなかった。突き放すというよりも、まるで敵を見るような目に、私は強い違和感を覚えた。彼の中で決定的に何かが変わってしまったのだ。


 それでも、このまま引き下がるわけにはいかなかった。私は拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。

「私は、国民の選択を信じています。陛下がそれを踏みにじるなら、王国そのものが壊れます」

 私の声は、玉座の間に響き渡る。

「……陛下、本当にこれでよろしいのですか?」

 玉座の間に、私の声だけが虚しく響き、そして沈黙が落ちた。

 やがて、王はゆっくりと視線をそらした。

「下がれ、フィリップ」

 このまま何を言っても無駄だと悟った私は、深く一礼して部屋を後にした。重い扉が背後で閉まる音が、まるで拒絶の象徴のように響いた。


 廊下に出た私は、深く息を吐いた。王の様子が気にかかる。

 前回スリングのことを王に報告したときは、いつも通りの事務的な対応だった。あんなに敵視されたのは初めてだ。


(たぶん、アンドリアンに何か吹きこまれたんだ)

 しかし、何も証拠が無い。そして、王はアンドリアンのことを重用している。私とアンドリアンだったら、比べるまでもなくアンドリアンを信用するだろう。


 私は自分の執務室に戻った。扉を閉め、椅子に深く腰を下ろす。机の上には、各地から届いた報告書が山積みになっている。どれも、禁止令に対する国民の怒りを伝えるものばかりだ。

 他に王を説得してくれそうな人はいないか。私は頭を巡らせた。


(……ハーマンの言うことだったら、もしかしたら聞いてくれるかもしれない)

 王は、ハーマンを可愛がっている。そのハーマンが進言すれば、もしかしたら。

 だが、すぐに別の考えが頭をよぎる。

(いや、ハーマンはアンドリアンと繋がっているかもしれないんだった)

 育児改革について王に進言に行ったときのことを思い出す。タイミングを合わせて現れたハーマンのことを、まだ私は疑わしいと思っている。もし二人が手を組んでいるなら、ハーマンに頼むのは無駄だろう。

 それでも、他に選択肢はない。

(一応、とりあえずハーマンに頼んでみよう)


 私は決意を固め、ハーマンの部屋へ向かった。石造りの廊下を歩いていると、眉をひそめてこちらを見る者や、ハッと息を飲む者とすれ違う。どうやら、城内では私が厄介者であるらしい。

(まぁ、今までも好かれていたかどうかは微妙だったけれど……)


 ハーマンの部屋の扉を叩く。重い木の音が響く。

「入れ」

 中から、不機嫌そうな声が聞こえた。


 私は扉を開け、中に入る。まだ夕食前だというのに、部屋には葡萄酒の匂いが漂っている。

「兄上、少しお話をさせていただけますか?」

 ハーマンは、重たそうな体を椅子から引きはがすように立ち上がり、よろめきながらも私を睨みつけた。その赤い目には明らかな敵意が燃え上がっていた。


「貴様のせいで、こんなことになっているんだぞ!」

 突然の怒号に、息が詰まる。部屋の空気が一気に張り詰めた。

「私のせい、とは……?」

「余計なことをするからだ! お前がスリングとかいうものを国中に広めなければ、国民がこんなにも騒ぎ立てることはなかったのだ!」

 ハーマンの顔は怒りで紅潮し、その額には汗が浮かんでいる。呼吸は荒く、酒の匂いが鼻を刺した。


「兄上、スリングは国民の生活を改善しました。問題は、それを突然禁止したことにあります」

「屁理屈を言うな!」

 ハーマンは声を荒げた。

「お前が余計なことをしなければ、父上が禁止令を出す必要もなかった。全ての元凶はお前だ!」

 私は深く息を吐いた。ハーマンに理解してもらうのは難しいと感じた。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。


「兄上」

 私は真剣な表情で続けた。

「国民の怒りは日に日に増していきます。街では禁止令への抗議の声が上がり、商人たちは困惑しています。でも、父上は全く聞く耳を持ちません」

「だから何だというのだ」

「今のままでは、暴動が起こることもあり得ます。兄上からも父上に禁止令を撤回するよう、お願いしていただけませんか?」

 私の提案に、ハーマンはさらに険しい表情を浮かべた。彼の顔が怒りで歪む。


「ふざけるな」

 低く、鋭い声だった。

「なぜ俺が、お前の政策を守るような真似をしなければならんのだ? お前が勝手に始めたことだろう。俺には関係ない」

「兄上、何を言っているのですか!王の判断が招いた混乱の責任が、王位継承者である兄上に関係ないわけがないでしょう!」

 私は必死に訴えた。


「そんなことをしたら、まるで、俺がお前の手柄を認めているようじゃないか」

 ハーマンの声には、明らかな憎悪が滲んでいた。その言葉を吐き出すように言う。

「昔から気に入らなかった。お前は国民に慕われすぎている。領地を回れば人々は笑顔で迎え、お前の名を口にする時、彼らの目は輝く。私が何をしても、人々の目はお前を追う」

 ハーマンの拳が震えている。

「お前がスリングを広めて英雄になったことで、国民はますますお前を慕うだろう。私は次期王だぞ。それなのに、何もできない、ただ弟の後をついていくだけの情けない王だと思われる。そんなことは絶対に許さん」

「兄上……」

 私は言葉を失った。ハーマンがこれほどまでに自分を敵視していたとは思わなかった。取るに足らない存在だと思われていると思っていた。だが、実際は違った。ハーマンは、私を脅威と見なし、憎んでいたのだ。


 私は、ハーマンの充血した赤い目を見据えて言った。

「私は、自分には王位継承権が無いことを理解しています。この先もずっと、兄上の国政の手伝いをして生きていくつもりです」

「信じられないな」

 ハーマンは何重にも重なった顎を上げて腕を組んだ。

「信じていただけなくても結構です。……でも、私は別に、兄上を情けない王にしたかったわけではないのですよ」

 私は深く息を吐いた。もう、これ以上ここにいても無駄だと悟った。

「失礼します」

 私は一礼して、部屋を後にした。


 廊下を歩きながら、私は考えた。もう、王の説得は不可能だ。そして、こうなっては、暴動は避けられないだろう。


 私は自分の執務室に戻り、部下を呼んだ。

「市井の様子を詳しく探ってくれ。どの地域でどんな不満が高まっているか、暴動の兆候はないか、全て報告してほしい」

「かしこまりました」

 部下は頭を下げ、急いで部屋を出て行った。


 私は机に向かい、羽根ペンを手に取った。インクの匂いが鼻をつく。

 ヴェルデン公爵と相談して、今後の対策を練るべきだ。公爵は信頼できる人物だ。そして、エレオノーラもいる。彼女の知恵を借りれば、何か道が開けるかもしれない。


 私は手紙を書き終え、封蝋を押した。そして、使者を呼んだ。

「これをヴェルデン公爵家に届けてくれ。急ぎだ」

「かしこまりました」

 使者は手紙を受け取り、急いで部屋を出て行った。


 私は窓の外を見つめた。王城の外には、王都の街が広がっている。そこに住む人々は、今、怒りと不安に満ちているだろう。

(私は、彼らを守らなければならない)

 たとえ王が聞く耳を持たなくても、たとえハーマンが協力してくれなくても、私は国民のために戦う。それが、私の使命だ。


(まるで、子どもたちのために職員室で闘っていた時のようだな)

 前世の自分を思い出して、私は苦笑いをした。規模が違っても、今も昔も、私は変わらない。


次は、エレオノーラの回です。主人公なのに、やっと出番。

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