75.揺らぐ王国
リカルドが城から持ち帰った報せを聞いた瞬間、エレオノーラの頭の中が真っ白になった。クレメンティアも隣で息を呑んでいる。国王オーウェンがスリングの販売と使用を禁じる発令を出したという。
「ちょっと待ってください、それは本当なんですか!?」
エレオノーラは思わず声を荒げた。
「昨日まで何も言われてなかったのに、いきなり禁止ってどういうこと!?」
リカルドの表情は硬い。彼の口から出た言葉は、まるで悪い冗談のようだった。しかし、その険しい顔つきを見れば、これが現実だと理解せざるを得なかった。
エレオノーラとリカルド、そしてクレメンティアは、すぐに各方面から情報を集めるべく動いた。それぞれが持つ人脈を頼りに、急ぎで状況の把握に努めた。
そうして一晩が明けた朝早く。ヴェルデン公爵家の応接間には、フィリップ、ヒューゴ、フランソワの三人が到着し、エレオノーラ、リカルド、クレメンティアと合わせて六人がこの応接間に集まった。淹れたばかりの紅茶の香りが漂う中、緊張で誰もその紅茶に手をつけようとはしなかった。
全員の表情は固く、普段の穏やかな雰囲気はどこにもない。彼らはそれぞれの領地や城、王都で得た情報を手に、急いでここへ駆けつけたのだ。
「アッシュクロフト領では、領民が激怒していますわ」
フランソワが眉をひそめながら言った。彼女の声には珍しく苛立ちが滲んでいる。
「せっかく赤ちゃんの世話が楽になったというのに、今さら禁止令なんて出されては納得できませんわ」
「グラントンの領地でも同じです」
ヒューゴは拳を握りしめ、低く唸った。
「領民たちが“スリングを返せ”って叫んでいるんです。うちの領民はみんないつも穏やかなのに。このままでは暴動が起きかねません」
エレオノーラは腕を組み、深く考え込んだ。スリングの普及が進んでから、各地で子育ての負担が軽減され、赤ちゃんたちの泣き声も減ったと聞いている。それを突然禁止するなんて。
そこへ、フィリップが静かに口を開いた。
「国王には、これまでの成果を定期的に報告していました。特に否定的な意見もなく、むしろ続けるようにと仰せでした」
彼の言葉に、全員の視線が一斉に集まった。部屋の空気が一瞬で凍りついたように感じられる。
「じゃあ、なんでいきなりこんな発令を……?」
エレオノーラが尋ねると、フィリップは深いため息をついた。
「恐らく、アンドリアンが何らかの働きかけをしたのだと思います」
育児グッズの販売中止を撤回するように脅してきたアンドリアン宰相――。その名前を聞いた途端、エレオノーラの背筋に冷たいものが走った。
「アンドリアン……って、宰相のことですか?」
ヒューゴが声を上げた。彼の目が大きく見開かれている。
「アンドリアン宰相が絡んでいるのですか!?」
フィリップは一瞬、しまったという表情を浮かべた。彼は今まで、ヒューゴとフランソワを巻き込まないようにと考え、アンドリアンの情報を伏せていた。しかし、ここまで事態が進んだ以上、この二人にアンドリアンのことを隠しておくのは不可能だと判断した。
「その通りです」
フィリップがしぶしぶ頷く。その様子を見てヒューゴとフランソワは顔を見合わせた。
重苦しい沈黙が流れる。誰もが、この状況の深刻さを理解し始めていた。
フィリップはリカルドの方へ視線を向けて、話を切り出した。
「ヴェルデン公爵の方では何か聞いていますか?」
リカルドは頷くと、神妙な面持ちで語り始めた。彼の声は普段より低く、慎重に言葉を選んでいる。
「以前、城でアンドリアンにスリングについて聞かれました。ですが、私が伝えたのは、スタンダル帝国の育児について調べたら発達に良いことがわかったから販売することにしたという話だけです。そして、その時に育児グッズの販売中止の許可ももらいました」
リカルドは拳を握りしめた。
「ヴェルデン家へ圧力をかけるのではなく、国王に働きかけるなど……。全く予想していませんでした」
そこへ、ずっと腕を組んで考え込んでいたフランソワが鋭い声で切り込んだ。
「つまり、アンドリアン宰相が、育児グッズを使って、私たち国民の発達を阻害し、国力を弱めるための策略を進めていたということですわね?」
彼女の声には怒りが込められている。普段は温和である彼女が、ここまで感情を露わにするのは珍しい。
「たぶん、そうだと思っているの」
エレオノーラも頷いた。彼女の頭の中では、これまでの出来事が一つの線で繋がり始めていた。
「スリング禁止令を発令するときに、ティモテウス・アウグスティヌスの主張を持ち出してきたのも怪しい。ティモテウス・アウグスティヌスは、もしかしたらアンドリアンと繋がっているんじゃないですか?」
ヒューゴが眉をひそめながら指摘する。
「お母さま、ティモテウス・アウグスティヌスが育児論を発表したのは、お兄さまが産まれるちょっと前よね?」
エレオノーラが確認すると、クレメンティアが頷いた。
「その頃はもうアンドリアン宰相は今の地位にいたはず」
エレオノーラは立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。頭の中で点と点が繋がっていく。
「誤った育児論を発表させ、国民に周知させる。育児が大変になった国民に、発達に悪い育児グッズを与えて育てさせる。発達に課題がある若者が増え、国力が落ちる……」
エレオノーラの言葉を受けて、フィリップは、全員を見渡した。
「全部、アンドリアン宰相が仕組んだことですね」
その言葉に、全員が息を呑んだ。部屋の空気が一層重くなる。
リカルドが険しい顔をして口を開いた。
「しかし、このままでは民衆が黙っていません」
彼の声には焦りが滲んでいる。
「すでに、フィリップ殿下を旗頭に革命を起こそうという動きがあると聞いています」
「私を?」
フィリップは驚いたように目を見開いた。彼の顔色が一瞬で青ざめる。
「私はそのようなことを望んでいません」
「でも、スリングの普及を通じて、国民の信頼は殿下に向いていますわ」
フランソワが真剣な表情で言った。
「彼らは、フィリップ殿下が国を変えてくれると期待しているのですわ。殿下の名前を口にする時の人々の目は希望に輝いていますわ」
フィリップは重いため息をついた。彼の肩が小刻みに震えている。拳を握りしめ、歯を食いしばる様子は、内側で激しく葛藤していることを物語っていた。
「兄上を差し置いて、私が王になるつもりはありません。ですが、国民の期待を裏切ることもできない。どうすればよいのか……」
その声は絞り出すようで、苦しげだった。
エレオノーラは、そんなフィリップの姿を見て、胸が締め付けられる思いがした。
フィリップは、前世でも責任感の強さから仕事を抱えすぎて苦しんでいた。過労で倒れる寸前まで働き、誰にも弱音を吐けずに一人で抱え込んでいた。そんなフィリップが、ヴェルデン領でエレオノーラに出会ったことで、この育児改革に取り組み始めたのだ。
(もし、私が関わらなければ——フィリップはもっと穏やかな人生を送れたのかもしれない)
そう思うと、申し訳なさが込み上げてきた。自分がフィリップを、こんな苦しい立場に追い込んでしまったのではないか、と。
でも――。
エレオノーラは目を閉じ、これまで出会ってきた人々の姿を思い浮かべた。育児に苦労し、疲れ果てた母親たちの暗い表情。一日中泣き続ける赤ちゃんの辛そうな声。誤った育児法に縛られ、助けを求められずにいた家族たち。
そして、スリングを手にした時の母親たちの明るい笑顔。穏やかに眠る赤ちゃんたちの安らかな寝息。
(育児改革は、やっぱり必要なことだったよね)
エレオノーラは静かに、しかし確信を持ってそう思った。
室内に重い沈黙が落ちた。誰もが、それぞれの考えを巡らせながら、次の一手を模索していた。
やがて、フィリップがゆっくりと顔を上げた。彼の目には、決意の光が宿っている。
「まずは、国王に直談判してみます」
彼の声は静かだが、力強い。
「その反応を見てから次の手を考えましょう。全てはそれからです」
全員が頷いた。この危機を乗り越えるために、彼らは一致団結して立ち向かわなければならない。
次回はフィリップ視点の話です。




